イザヤ書40章

イザヤ40     慰めよ。慰めよ。わたしの民を

ついに40章に至ったという感がある。これまでは、周辺諸国の現実、国家存亡の危機を迎えた政治的発言、王たちへの個人的関与など、生々しい光景がくり広げられてきた。しかし、40章以後は、神の懐に深く入り込んで確信したのであろう預言者の言葉に向かい合うことになる。

イザヤは、早くからメシヤを待望していたが、これまで誰も知り得なかったメシヤの奥義までも垣間見せられ、語りだす(受難のしもべは圧巻)それはやがて、新しい天と新しい地の境地を開く。

Ⅰ慰めよ

「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」(12:1、49:13、51:3、12、52:9、61:2、66:13)

聖書における「慰め」(ナホム)という表現は、私たちの日常の言葉からは推し測れない深さがある。初めに、ノアの命名を想起しよう(創世記5:29)これは、悲しみの時に涙を拭われる程度のものではない。全地が洪水で滅ぼされた時、著者は生き残って新しい生命の起源となったノアを念頭においていた。換言すれば、起死回生の希望宣言である。

やがて、慰めはメシヤの到来と不可分なものとして理解される。イエス様の降誕を待ち望んでいた老預言者シメオンについて「この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた」と証言されている。

イエス様は、弟子たちに真理の聖霊を約束された時「助け主(パラクレートス)」と呼ばれた(ヨハネ14:16,26、15:26、16:7)文語訳は、これを「慰め主」と訳した。旧約聖書とイスラエルの歴史的な理解に従えば、これは適切な訳である。

ついでながら、バルナバの綽名となった「慰めの子」(フィオス・パラクレーセオス)は、同じ語根から生じた言葉である(使徒の働き4:36)

このようなわけで、イザヤがメシヤ的な慰めの到来する事を夢見ているのは明らかである。

「荒野に呼ばわる者の声がする。主の道を整えよ」

荒野は(ミドバール)言葉(ダーバール)の混乱から生じた。再び真理の声が響き渡る時の訪れが待ち望まれる。バプテスマのヨハネが登場して人々に罪の悔い改めを求めた時、人々は、このイザヤの預言を思い出したのである(ルカ3:2-4)

「呼ばわれ・・・すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ」

人と神の対比が鮮やか(エレミヤ17:5-8)人は他者に関心を持つが、己を正しく知ることが急務である。自分の現実を容赦なく見つめれば、傲慢不遜から免れるであろう。そして正しく「神のことば」を知るなら、慰められ希望も与えられる。その結果、私たちも永遠に立つことが出来る。神の創造は命令創造(言葉による創造)である。人間の罪は、神の言葉の拒否(言葉の破綻)から始まった。

「主の息吹がその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ」

人間が作り出した神々にも、文化財としての価値がある。しかし、それ以上のものではない。それらは、主の前には無に等しい。

「主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く」

ダビデは「主は私の羊飼い」(詩篇23:1)と賛美して不滅の詩篇を残した。羊の比喩はさらに古く、モーセに遡る(民数記27:17、マタイ9:36)イエス様も「わたしは良い羊飼いである」(ヨハネ10:11)と言われた。イスラエルでは、これほど分かり易い比喩はない。

ここでは、群れから遅れがちになる母羊のことが配慮されている。主の目はあまねく行きめぐり、いと小さき者を見過ごすことがない。力の支配とは遠くかけ離れた世界がここにある。イエス様は、百分の一を省みられる(ルカ15章、日本のキリスト者人口は百分の一以下)

Ⅱ無比の創造者

「見よ。国々は、手桶の一しずく、はかりの上のごみのよう・・・」

国々は権勢を誇る。しかし、私たちは、永遠に栄えた国がないことを知っている。著者は、神の慈愛深い導きを語り、一転して、肉なる者をゴミとして語る峻厳さを持つ。

「目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ」

私たちは、仰ぎ見なければならない時に、俯いてはいないだろうか。また、俯かなければならない時に、傲然としてはいないだろうか。

人の心のあり方は、振り子のように揺れる。なかなかバランスを執るのが容易ではない。しかし、正しい判断力と修練により、対応をあやまたないようにしたい。

ここでは「目を高く上げて」世界を見つめ、創造者を深く思うことが求められている。造られた世界は決して沈黙していない。造り主を語り続けている。

パウロは、異邦人社会であるローマ教会に向かって「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです」(ローマ1:20)と明言する。

神を敬い畏れる者が、心して「目を上げるなら」見えてくる世界がある。しかし、悲しみや嘆きに圧倒されて目を曇らせていると、傍らにあるものさえも見失う。

復活されたイエス様は、エマオに向かう二人の弟子に近づいて道々語り続けたが、イエス様の死に遭遇して圧倒された彼らには、それが主イエスであると気づかなかった(ルカ24:13-31)

パウロが「私たちは、この宝を、土の器の中に入れている・・・私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません」(Ⅱコリント4:8)と書いたのは、上が開かれている事を知っているからです。上は、誰も塞ぐことが出来ません。それゆえ、私たちは「目を高く上げて」仰ぐのです。

ヘブル書の著者も「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」(ヘブル12:2)と勧める。口語訳は「イエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか」と訳した。

Ⅲ主を待ち望む者は

それでもイスラエルには安心がない「私の道は主に隠れ、私の正しい訴えは、私の神に見過ごしにされている」と嘆き呟く。これは、被害妄想ではないか。

「あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない」

神をもう一度受け入れよ。不信仰の多くは、背信・反逆を意識しない無知から始まる。

「主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない」

鷲が数千メートルの上空を飛翔するのは、創造者の賜物である(エヴェレストを越える渡り鳥も)

「待ち望む(カーヴァー)」と訳された原語を吟味してみる。

「待ち望む」という動詞を、英語ではウェイト・フォーと訳す。これは仕えるを意味する。レストランの“ウェイター”は、お客を待つ人のことではない。客の必要に仕える人のことである。

この動詞(カーヴァー)からミクベ(希望)という名詞が生れる。さらにティクベ(紐)という言葉も生じた。これは、イスラエルの希望の性格を示唆する。紐に結ばれているように手ごたえを感じながら待つのではないか。

ですから「主を待ち望む」ことは“棚から牡丹餅”を待つように漫然と待つことではない。主の前に侍り、主に仕えることである(蛇足であるが、仕えることと礼拝することは同義)待つ、即ち、仕える(礼拝する)すると希望が生じ、それは、いよいよ手ごたえのあるものとなる。

「若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる」が、「主を待ち望む者は、新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない」ハレルヤ