イザヤ書38章

イザヤ38        致命的な病とヒゼキヤ

この章には、ヒゼキヤの病気が取り上げられている“内憂外患こもごも来たる”と言う。ヒゼキヤ王は、アッシリヤの抑圧が去ったのも束の間、自分自身の病気で死の床に着かねばならなくなった。列王記の記者は、この病気を「腫物」(Ⅱ列王20:7)と記しているので、悪性腫瘍(癌)であろう。

Ⅰイザヤによる告知

「ヒゼキヤは病気になって死にかかっていた」(Ⅱ列王20:1-11、Ⅱ歴代32:24-25)

死は一番確かな現実であり、少しも珍しい事ではない。しかし、ヒゼキヤ自身は、自分の病状がこれほど深刻であることを承知していなかったらしい。

預言者イザヤは、主に遣わされて、ヒゼキヤに厳粛な告知をする。その言葉は直接的で疑う余地のないものである。即ち「あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。直らない」と宣言する。

預言者たちは、主の御心であると確信すると、出かけていって勧告したり容赦なく戒めたりする。サムエルは、傲慢になったサウル王を叱った(Ⅰサムエル15:22-23)ナタンは、ダビデがウリヤの妻バテシェバのことで罪を犯すと、ダビデを糾弾した(Ⅱサムエル12:1)ガドも、慢心したダビデに主の裁きを伝達している(Ⅱサムエル24:11-13)しかし、王に死の告知(というよりも宣告)をしたのは、イザヤの外に思い当たらない。

「家を整理せよ」(Ⅱサムエル17:23)

死に備えて、身辺の整理が必要なことは、誰もが認識している。人は、その日その時を知らないのである。王位にある者であれば、その覚悟は一段と重いに違いない。

しかし、これは“立つ鳥跡を濁さず”という次元のものではない。預言者アモスの言葉を借りるなら「あなたは、あなたの神に会う備えをせよ」(アモス4:12)と言うことであろう。

なぜ、ヒゼキヤは告知をうけたのだろうか。ヒゼキヤは25才で即位し、未だ39或いは40才の壮年である。国家存亡の危機は乗り越えたが、未だやらなければならない事はたくさんあったであろう。おそらく、彼自身は死をまったく予期していなかったと思う。それ故、神が預言者を遣わし、準備の時を持つように促したのである。

今なお、癌などの告知には賛否両論がある。軽々しく扱うことはできないが、キリスト者は神に会う備えをする為にも、知る権利を正しく用いたい。

死の肉体的な側面に失望してはならない。いのちは、地上から神の国へと連続しているが、肉体は健康な人でも老衰消耗します。人は病んで土に帰るのですから、死を怪しんではならない。むしろ、死すべき者に復活の生命を賜った神の恵に感謝したい。

Ⅱヒゼキヤの祈り

「ヒゼキヤは顔を壁に向けて、主に祈る」ヒゼキヤの受けたショックの大きさが伺える。彼は泣きながら「ああ、主よ。どうか思い出してください」と訴える。

何故、こんなに心を乱したのだろうか。彼は当時39才と考えられる(Ⅱ列王18:2、20:6)人生の真っ只中、いかにも若すぎる。個人的な未練だけではない。彼には、未だ後継者が与えられていなかった。彼の後継者マナセの誕生は、この3年後である(Ⅱ列王21:1)

聖書には、危機に瀕した者たちが、主イエスに叫び求める祈りの光景がたくさん見られる。

マルタとマリヤは、弟ラザロのために使いを送って「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です」(ヨハネ11:1-3)と告げる。

ローマの百人隊長は、しもべを案じて主イエスに使者を送り「主よ。わざわざおいでくださいませんように。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません・・・ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは必ずいやされます」(ルカ7:2-7)と表明する。

カナンの母親は、病む娘のためにイエス様の前に膝まずき「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます」(マタイ15:25-28)と言って諦めない。

主の恵を求める祈りは一様ではない。しかし、その心は変わらないであろう。愛に動かされ、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして・・・。

主は、ヒゼキヤの祈りを聞かれた。列王記によれば、ヒゼキヤの祈りも素早かったが、主が祈りに応えてくださったのも速やかであった。預言者は、まだ王宮の中庭にいる間に主の声を聞く。こうして、ヒゼキヤは15年間寿命を加えていただいた。この恩恵のしるしに、日時計の陰が10度戻ったと言われる。

しかし、この間に生れたマナセが主の前に悪を行い、ユダを決定的に衰微させる(Ⅱ列王21:1-16)ことになるのである。何が益になるのか禍になるのかは即断できない。

主からのしるしについて。

具体的にどの様なことが起こったのか説明はできない。しかし,太陽が後戻りしたと考えてはならない。神に不可能なことはないが、創造の秩序を、一個人に与える「しるし」のために、神様が乱すとは考えられない(ヨシュア10:12-13、これは文学的表現・参照Ⅱ列王18:5、23:25)

Ⅲヒゼキヤの讃歌

ヒゼキヤは、病気から回復したときに主を賛美した。この賛美には、死に直面した絶望的な苦しみの経験と、そこから解き放たれた者の歓喜が歌われている。

私たちにとっても死は容易ならざる問題である。イエス様の復活を経験していない旧約時代には、なおさらである。主イエスの復活によって、私たちに保障されている永遠の生命の希望がどんなにありがたいものか、存分味わいたい。

「生涯の半ばで、よみの門にはいる」

ヒゼキヤはこの時39才、孔子は40才をもって不惑の年と言う。しかし、小生の経験では、惑い始めの年であったように記憶する。確かにそろそろ不惑であるべき年かもしれないが、実際には問題が次々と出てくる世代なのである。引くに引けない世代、それだのに退場が求められている。絶望的な苦悩の中で叫び祈る他ない。

「あなたは昼も夜も、私を全く捨てておかれます」心の不安を増幅させるものは、神に見捨てられたのではないかという不信の囁きである。誘惑者は巧みに心の隙間を突く。ひとたび疑心暗鬼に陥ると、そこから逃れ出るのは容易ではない。

「ああ、私の苦しんだ苦しみは平安のためでした」

しかし、病が癒されて、ヒゼキヤの唇に感謝の誉め歌があふれる。

「生きている者、ただ生きている者だけが今日の私のように、あなたをほめたたえるのです」

この言葉は、黙示録の証言と異なる。黙示録が伝える天上の光景は、神をほめたたえる歌が鳴り止まない(黙示録4:8、11、5:12、19:6-8)未だ、復活の信仰は明らかではない(主の復活が未だ起こっていないのだから当然ではあるが)

イザヤは「ひとかたまりの干しイチジクを持ってこさせ、腫物の上に塗りつけなさい」と命じた。癒しは神の恵であるが、癒しの現場の様相は様々である(決して一様ではない)

主イエスは、ある時は患部に触れ、ある時は言葉をもって命じられ、時には唾を用いて癒された。マタイ8:2-3「イエスは手を伸ばして、彼にさわり・・・」

マタイ8:6-8「ただ、おことばを下さい・・・」

ルカ17:12-14「遠くはなれた所に立って・・・」



マルコ8:22-25「イエスはもう一度彼の両目に両手を当てられた・・・すっかり直り」

ルカ18:42-43「見えるようになれ・・・たちどころに目が見えるようになり」

ヨハネ9:6-7「イエスは・・・つばきで泥を作り・・・目に塗って言われた」



ところで、近年イチジクに抗ガン剤成分があるとの声を聞いたことがあるが、その後の事は知らない。