イザヤ書36章

イザヤ36           アッシリヤの脅迫

この章は、既に北イスラエルを滅ぼしたアッシリヤの軍勢がユダの城壁を包囲し、高飛車にユダを恫喝している様子を伝えている。「ヒゼキヤ王は、これを聞いて自分の衣を裂き、荒布を身にまとって主の宮にはいった」(37:1)民衆は、健気にも王命を守り恐怖の中で沈黙に耐えている。今や、エルサレムは、未曾有の危機に直面しているのである。そして、次章でイザヤが呼び出される。

私たちは始めに、英邁なヒゼキヤ王がここに至った経緯を学びたい。

Ⅰヒゼキヤ王の即位と実績(Ⅱ歴代誌29:1-32:8)

イザヤが主の栄光の幻を見たのは、ライ病人となったウジヤ王が死んだ年(BC.736年)であった。それまで、幾分遠慮気味であったアハズ王は、押さえが取れたので勝手気ままに振舞うようになる。彼の愚行は止まる所を知らない(自分の子を人身御供としたらしい)既に活動していたイザヤに、神は特別な使命を授けられた(それは、イザヤの再献身だとも言われる)

アハズの死後、25才のヒゼキヤが即位した(BC.728年)彼については「彼はイスラエルの神、主に信頼していた。彼のあとにも彼の先にも、ユダの王たちの中で、彼ほどの者はだれもいなかった」(Ⅱ列王18:4)と言われる。

ヒゼキヤは、既に活動を始めていたイザヤの言葉も聞き及んでいたであろう。彼は即位の年、直ちに宗教改革に取り組んだ(Ⅱ歴代誌29:3-32:8)

先ず、神殿を改修し、祭司とレビ人とを聖別し、主の契約にたち戻させた。アハズ時代の反動も手伝ったであろう。みな、ヒゼキヤの求めに力いっぱい応えた(29章)ネフェシェタンの除去もこの頃と考えられる(Ⅱ列王18:3、民数記21:8-9)

次に、北イスラエルにも、主に帰ることを呼びかけるが、これは一笑に付された。しかし、すべての労苦は無駄ではない。一部の者たちは、ヒゼキヤの呼びかけに応えたのである(アシェル、マナセおよびゼブルンの人々は謙って・・・)彼らは、礼拝祭儀のマナーを忘れていたので、ヒゼキヤが執り成す場面もあったが、とにかく、喜びが生まれ、主がほめたたえられ、祝福の声も起こり「彼らの声は聞き届けられ、彼らの祈りは、主の聖なる御住まい、天に届いた」(30章)

この改革の潮流は、神殿から始まって、ユダの町にあふれ、さらにイスラエルにも及ばんとした。ヒゼキヤは、祭司やレビ人を組織して、改革が迅速に徹底的に進められる事を意図した。それらは、概ね成功したようである。

歴代誌は「ヒゼキヤはユダ全国にこのように行ない、その神、主の目の前に、良いこと、正しいこと、誠実なことを行なった。彼は、彼が始めたすべてのわざにおいて、すなわち、神の宮の奉仕、律法、命令において神に求め、心を尽くして行ない、その目的を果たした」(31章)と記す。

Ⅱ歴代誌32:1-8に見られる描写は、アッシリヤの大軍を前にして、王も高官たちも民衆も、主に信頼してたじろぐことがない。王は呼びかける「強くあれ。雄々しくあれ。アッシリヤの王に、彼とともにいるすべての大軍に、恐れをなしてはならない。おびえてはならない。彼とともにいる者よりも大いなる方が私たちとともにおられるからである。彼とともにいる者は肉の腕であり、私たちとともにおられる方は、私たちの神、主、私たちを助け、私たちの戦いを戦ってくださる方である」そして「民はユダの王ヒゼキヤのことばによって奮い立った」

しかし、イザヤ書36章は、ひたすら怯えている王とユダの人々を描き出している。一見矛盾と見えるこの記録は、8節と9節の間にある時間の経過によって説明できる。

この間の事情は、Ⅱ列王18章に記されている。

ヒゼキヤは良いスタートを切りましたが、彼の治世4年に、アッシリヤは攻め寄せてきた。そしてその三年後、北イスラエルのサマリヤは陥落した。

このような経緯が、ヒゼキヤの心を挫いたらしい。その後、ヒゼキヤはアッシリヤの要求に屈して「私は罪を犯しました。私のところから引き揚げてください。あなたが私に課せられるものは何でも負いますから」と、自らを卑しめている。

一歩退くと、敵は二歩踏み込んでくるものです。ヒゼキヤが跪くと、敵の要求は跳ね上がる。その結果、ヒゼキヤは「主の宮と王宮の宝物倉にある銀を全部渡した。そのとき、ヒゼキヤは、ユダの王が金を張りつけた主の本堂のとびらと柱から金をはぎ取り、これをアッシリヤの王に渡した」のである。それでも、アッシリヤの攻撃は緩和されない。

シリア・エフライム戦争において、ユダはアッシリアの援助を求めて危機を凌いだかに見えたが、アッシリアの手は更に伸び、ユダをも攻略した。妥協は解決には至らず、更に屈辱的な隷属関係を求められたにすぎなかった。

Ⅱラブ・シャケの脅し

「布さらしの野への大路にある上の池の水道のそばに立った」

敵の目的は水の確保である。アハズ王が気にかけたのも水道でした(イザヤ7:3)アハズも戦略的な拠点がいち早く敵の手中に落ちることを恐れた。

「何に拠り頼んでいるのか」

良い質問ではある。自分が何に依存しているのかを確認することは大切である。真に頼りになるものか。永続的に信頼できるものか。私達も身辺を省みてみたい。

預言者エレミヤは、人間的なものか、或いは神か、と迫った(エレミヤ17:5)アッシリヤに降伏するのは、より大きな人間的なものへの依存にすぎない。巷では「寄らば大樹の陰」と言う。この問いは、私たちの信仰の本質を確認するものである。

「傷んだ葦の杖、エジプト」エジプトもかたなしである。アッシリヤの全盛期、彼らは豪語する力を持っていた。傷んだ葦の比喩は、一般的に使われる(42:3)が、エジプトの力は既に衰退しており頼むに足りない。

主は頼みとなるのか。彼らが主を侮るのは、名目的にイスラエルの神であったことによる。彼らは侮る。主は沈黙しているではないか。主はお前たちの窮状を放置しているではないかと。

10節の「主が私に『この国に攻め上って、これを滅ぼせ』と言われたのだ」と。これは、悪い冗談である。ユダを嘲り、主の御名をもからかっている。

糞尿の比喩は、これ以上ない軽蔑の表現と考えられる。

Ⅱ分断作戦

「ヒゼキヤにごまかされるな」

ヒゼキヤは、アッシリヤに貢物を送った。しかし、問題解決に至らなかった事を思い知らされた。彼は遅まきながら意を決して「主の救い」を掲げ、民を励まし続けたことが推測される。ヒゼキヤは「主は必ず我々を救い出して下さる」と語り、主への信頼回復を求める。

「和を結び、降参せよ」和とは降伏を意味する。平等の和解ではなく、無条件降伏である。それにしても、自分のぶどうといちじくを食べ、自分の井戸の水を飲めるとは、心惹かれる。しかし「ごまかされるな」と大声で叫ぶ者たちの叫びが、偽りそのものなのである。

「だれか、自分の国をアッシリヤの王の手から救い出しただろうか」

ハマテも、アルパデもシリヤの都市 セファルワイム(Ⅱ列王17:24,31,18:34)猫なで声を発したり、通用しないと脅したり、とても信頼できる言葉ではない。

「人々は黙っており、彼に一言も答えなかった」見事ではないか。イザヤの命令が生きていると言えようか(イザヤ7:4、30:15)

耳を傾けるに値しない言葉を排除する勇気、ここには王に対する信頼が見られる。民は沈黙して、実力の衰えている王の命令に聞く。王と民との間に信頼と一致が結実している。

沈黙は神の意思、人はしばしば言葉が多すぎる(虚勢から来る空元気や、心にもない偽り、或いは責任回避の弁明など・・・(詩46:10)

主イエスの前に立ったローマの百人隊長は、主の一言葉に全身全霊を委ねた(マタイ8:8)

私たちにも、困難は山のようにあるが、私たちは神を仰ぎ待ち望む。