イザヤ書35章

イザヤ35    荒野に水湧き、砂漠に川流れ

前章は、大地の荒廃を厳しく預言した(34:9-10)が、最終節は、それを主の配剤であると結んだ。この章は、荒れ野と砂漠の回復を大胆に歌う。

いつもながら、預言者の霊的洞察力には脱帽させられる。彼は、荒野に川が流れ、砂漠に大路が開かれるのを夢見て先取りする。まさに先見者の名に恥じない。

神に望みを掛ける人は、目前に広がる荒野や砂漠を見せられても、主に信頼して絶望しない。省みると、聖書の神は、無から有を造り出された(創世記1:1-3)

Ⅰ荒野も砂漠も

「荒野と砂漠は楽しみ、荒地は喜び、サフランのように花を咲かせる」(51:3、53:2)

荒野と砂漠は絶望と死の象徴、そこに置かれた人々から生きる全ての望みを奪うかに見えるが、サフラン(クロッカス)の花が咲きだす。預言者は、これを大地の喜びとして歌う(生命賛美)

大地は、人の罪によって汚され、裁きの呪縛の下に置かれている(創世記3:17-18、ローマ8:22)が、草花の開花は、解き放たれた喜びを賛美するかのようだ。

東京砂漠と言われて久しい。人はその現実を嘆き、速やかに諦める。神の人の目に映るのは何か。荒廃だけではない。清流の復活、真理と正義の公道が開けることを夢見るべきではないか。

「主の栄光・・・神の威光」を見るのは誰か。

明白に特定されていない。しかし、それが、荒野や砂漠に住む者たちであることは明らかである。言い換えれば、汚された大地に置き去りにされた人々のことである。もっと率直に言えば、力ある者たちがみな逃げ出した後も、荒野から脱出するすべを持たず、そこで、とことん辛酸を嘗め尽くした人々のことであろう。ここでも、後の者が先になる。

「弱った手を強め、よろめく膝をしっかりさせよ。心騒ぐ者たちに言え」

彼らは、文字通り、身も心も弱り果てている。身体能力の限界状況に達していると、自ら諦める。未だ余力があっても、心が挫けてしまうと残っている力も発揮できない。

イエス様は、病む者たち(中風の人、盲人、足のなえた人・・・)を前にして、幾度も「手を伸ばしなさい」「立ちなさい」「恐れるな」と語りかけられた(マルコ2:11、5:41、6:50)このような適確な指示が与えられると、危機を脱出する大きな助けになる。

「強くあれ、恐れるな」

これは、古典的な激励の定型句である。ヨシュア記に頻繁に繰り返されている(ヨシュア1:6,7)偉大なモーセの後を引き継いだヨシュアには、是非とも必要な主の励ましだったろう。

「見よ、あなたがたの神を」

人の目が何に向けられているかは大事なことです。しかし、混沌とした状況の中では、何に目を向けたらよいのか、しばしば混乱する。大きな声に欺かれたり、耳当りの良い声に心を惹かれたりすることがある。しかし、そのような時こそ、神との信頼関係が試されるのではないだろうか。

モーセはイスラエルに、神の救いの業をしっかり心に留めよ(出エジプト14:13)と教えた。神を直視しないと、信仰がご都合主義に流れ、確信が得られない。

「神は来て、あなたがたを救われる」

長い苦しみを経て“神に捨てられ、神に忘れられた”と僻んだ者たちもあったであろう。しかし、神の時が訪れると、神は来てくださる。そして、神の臨在が救いです(詩篇42:5)

預言者は、それを身体的な癒しの描写で語る。即ち、盲人の目は開き、耳しいの耳も開かれ、足なえは飛び跳ね、おしの舌は喜び歌うと。

確かに、イエス様が地上に来られたとき、障害を持つ者、病める者に憐れみ深くあられた。主は、肉体の癒しをなおざりにされませんでした。

バプテスマのヨハネも、ヘロデに投獄されて疑心暗鬼にかられた。彼は、弟子たちを主イエスに遣わして「きたるべき方」はあなたですかと尋ねさせている。

そのとき主は「盲人は見え、足なえは歩き、らい病人はきよまり、耳しいは聞こえ・・・」と、ヨハネに返事することを指示された(マタイ11:2-6)

近年、日本の神学として脚光を浴びているものの一つに「荊冠の神学」がある(中南米には「解放の神学」、韓国には「民衆の神学」、また「フェミニズムの神学」などと目白押しに続く)

被差別部落解放の祈りから生まれたものとして評価できるが、他の神学と同様、偏りの傾向の危険を孕んでいることも否めない(ヨハネ6:26-27)

立場の弱い者に救いを語るのは、当然で受け入れ易い。しかし、神の救いは、特定の人々に限定されるものではない。常にすべての人々に開かれているものである。もっともらしい主張には、よくよく気をつけなければならない。

「荒野に水が湧きだし、荒地に川が流れるからだ」

荒野に呼ばわる者の声が「主の道を整え・・・」(イザヤ40:3)と叫ぶのも近い。

ヘブル語によると、荒野(ミドバール)は、言葉(ダーバール)から(ミ)生じる。言葉の混乱が、意志の疎通を欠く荒野を生じるとは痛烈ではないか。

福音書記者たちは、バプテスマのヨハネが歴史に登場すると、彼こそイザヤの預言した先駆者であると認めた(マタイ3:3.彼は、荒野に言葉を回復した神のしもべ)

Ⅱ聖なる道

「そこに大路があり、その道は聖なる道と呼ばれる。汚れた者はそこを通れない。これは、贖われた者たちのもの」(イザヤ11:16、19:23)

聖なる道を汚れた者が通れないのは道理である。子羊の血によって贖われた者にこそふさわしい。しかし、この一段落は、本文の理解が難解である。

「旅人も愚か者も、これに迷い込むことはない」

この部分の聖書本文は損なわれていて、翻訳が難解である「道を行く者がそのためにあり、愚者たちは迷わない」と訳されるが、解釈に議論がある。

ヤングは、たとえ愚かであっても、恵みの導きのもとで迷わないと考えるが、箴言の愚か者(エビリィーム)の用法などを考えると、ためらいを感じないわけにはいかない。

「贖われた者たちのもの、旅人も愚か者も、これに迷い込むことはない」と、対照的に読むなら、旅人のように偶然訪れることもなければ、愚か者のように、ゆえなく入り込むことはできないの意と考えられるであろう。贖われた者については、51:11、62:12も見られる(預言者に、贖いが明らかに見えてきたのは、贖い主が見えてきたからであろう)

「そこには獅子もおらず、猛獣もそこに上って来ず、そこで出会うこともない」

ここでは、道の安全が約束されている。

「主に贖われた者たちは帰ってくる」

1948年、シオニズムの大河がイスラエルに向かって開かれたとき、彼らは歓喜したことであろう。その昔、詩人が「主がシオンの捕われ人を帰されたとき、私たちは夢を見ている者のようであった。そのとき、私たちの口は笑いで満たされ、私たちの舌は喜びの叫びで満たされた。そのとき、国々の間で、人々は言った。「主は彼らのために大いなることをなされた。主は私たちのために大いなることをなされ、私たちは喜んだ」(詩篇126:5-6)と歌った。

「楽しみと喜びがついて来、嘆きと悲しみとは逃げ去る」

なんと愉快なことではないか。その訪れが心から待たれる。

多くの場合、喜び楽しんでいる所へ、嘆きや悲しみの訪れが舞い込んでくる、そして、一瞬にして人の心から歓喜を奪いとる。古代の人々にとって、喜びは人生に幾度もない貴重な時(詩篇90:10)なのに、妬み深い悲しみは、速やかに嗅ぎつけてこれを追い出すのが常である。

しかし、やがて、それも逆転する。喜びが来て、悲しみを追放する。ハレルヤ