イザヤ書31章

イザヤ31        エジプトか、主か 

Ⅰエジプトから救いはあるのか? 

『助けを求めてエジプトに下る者たち』

  困難の日にエジプトに下ることはアブラハム以来の慣習です。エジプトは危険に満ちていて、その仕打ちは決して好意的ではない。それでもアブラハムもイサクもヤコブもエジプトに救いを求めて下る。その結果イスラエル民族は奴隷とされ、神から遠くにあることの悲哀を十分学んだ筈である。しかし「喉元過ぎれば熱さを忘れる」の諺の如く、エジプトの強大な力に憧れ続けた。

 馬にたより

 戦車に頼り

 騎兵隊に拠り頼む

 イスラエルの聖なる方に目を向けず

 主を求めない

  結局見えない神に信頼することの難しさか(Ⅱコリント4:18)

『主は知恵ある方』

  みことばを取り消さず

  みことばに従って、悪を行う者とそれを助力する者を攻める

  主の誠実さを侮っては行けません(ガラテヤ6:7)。憐れみ深さを弄んではなりません。主は

  その言葉の約束のごとくなさいます。

『エジプト人は』

  人間であって神ではなく(エレミヤ17:5-8)

  彼らの馬は肉であって霊ではない(ピリピ3:2-3)

『主が御手を伸ばすと』

  みな共に滅びる

   主の御手が差し延べられることを神の民は如何に待ち望んできたことか。

   しかし、同じ御手が裁きと破壊の手となることあり。

Ⅱエルサレムの救いは 

『主は仰せられる』

主は獅子の如く

飛びかける鳥の如く

   主は攻め、守り、解放する

『イスラエルの子らよ・・・帰れ』偶像礼拝からの回帰

これはイザヤが先鞭を付けたメッセージです(44:22,45:20,55:7) 。エレミヤが同じ痛みを見

  事に継承している(エレミヤ3:12,14,22) 。放蕩息子は自分の遭遇する全ての困難と災いは父

  からの離反に起因している事を学んだ。

『アッシリアは・・・』(裁きの好例)

  人間のものでない剣に倒れる(37:36)

  若い男も(力の象徴か)、岩も(不動の象徴)

  首長たちも(知恵と経験の象徴か)

   エルサレムにかまどを持つとはいかなることか?