イザヤ書30章

イザヤ30          エジプトの信頼性

アッシリヤの軍勢は、怒涛のように西進して来た(エルサレムが包囲された様子は、36章に描写されている)この預言の頃は、シリヤのダマスコが滅ぼされ、イスラエルのサマリヤも風前の灯火という状況であったと考えられる(実際、BC.721年にはサマリヤも陥落)

これまで、アッシリヤの凶暴な侵攻は、耳で聞いて怯えることはあっても、未だ遠くの国のでき事として緊迫感に乏しかったらしい。しかし、サマリヤが包囲されたとなれば、次はエルサレムに来襲という展開は、火を見るよりも明らかである。遅すぎる感はあるが、ここに至って対応策を考えなければならないと追い詰められた。

ユダにはいくつかの選択肢がある。全面降伏か、徹底抗戦か。アッシリヤは降伏する者に非寛容である(ローマのユリウス・シーザーは降伏者に寛容であった)それなら抗戦か。ユダは無力である。そこで、エジプトの傘の陰に身を隠そうと言う発想が生れる。しかし、ユダの為政者たちは、動乱の国際社会の中でエジプトがどれ程の実力を持っているのか正確に把握していなかった。国際情勢については、預言者イザヤの方が、はるかに適確な認識を持っていたと言える。

Ⅰ反逆の子ら

預言者は冒頭から「ああ、反逆の子ら」と、慨嘆の言葉を投げかける。これは結論的な言葉である。エジプトと同盟を結ぶことが反逆なのだろうか。彼らには、神への反逆の意識はなかったであろう。しかし、無意識ではあっても、心が神から離れていることは疑いようもない。神を頼まないで、人間的なものを頼りにし始めている。人間の反逆は、自分でも気づかない時に始まるようだ。そして、気づいた時には、あまりにも遠く離れていることに愕然とさせられるものだ。帰る潔さもなく、そのまま突っ走って破滅に身を投げる(こう考えてみると、イエス様が放蕩息子のたとえ話で、落ちぶれた息子に父の家に帰る決意を与えたことの重要さが理解できる)

ここでも、ユダは速やかに次の段階に進む。彼らは預言者に戒められて抗弁する言葉を失い、最後には“うるさい。黙っていろ”と言わんばかりに、11節の「私たちの前からイスラエルの聖なる方を消せ」という、お決まりの反逆の罵声をあげる(これは、イエス様を黙らせようとし、ペテロやステパノたちを黙らせようとした連中に引き継がれている)

後にエレミヤは「人間に信頼し、肉を自分の腕とし、心が主から離れる者はのろわれよ・・・主に信頼し、主を頼みとする者に祝福があるように」(エレミヤ17:5-8)と叫んでいる。

とにかく、ユダの指導者たちはじっとしていられない。忙しく立ち働く。顔をエジプトに向けて、同盟を画策し、身を隠す安全策を講じようとする。

彼らが頼むエジプトは何ものか。ユダの指導者たちと預言者の間には大きな認識の相違がある。預言者の目には、エジプトは「何もしないラハブ」としか見えない(ラハブは伝説的な存在、猛威を振るうと考えられた竜などと同列に扱われている。ヨブ26:12、詩篇89:10、イザヤ51:9)

「何もしないラハブ」とは、見掛け倒しの意である。しかし、それが見抜けない(不信仰は、人の心を硬直させ、変化の兆しを洞察できなくする)

この頑迷な者たちの結末は悲惨である。その破滅は「陶器師のつぼが容赦なく打ち砕かれるときのような破滅。その破片で、炉から火を集め、水ためから水を汲むほどのかけらさえ見いだされない」これは、不出来な陶器が粉々に砕かれる描写である。

Ⅱ神である主、イスラエルの聖なる方は

「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る」と呼びかける。

ユダの為政者たちがエジプトの救援を頼んで小細工を弄し、様々なことを画策していたのを“動”と呼ぶなら、神はユダに“静”を求めておられる(エリコ陥落の時も然り)

「立ち返って静かにする」これは、神に帰り(本質は悔い改め)神を待ち望むことである。

今、ユダにとって急務なのは、神への全幅の信頼を回復することである。それが、救いの道を開くのであるが「あなたがたは、これを望まなかった」とすっぱ抜かれている。

これは、預言者イザヤが、アハズ王に語った最初の勧告であり警告であった。その時、アハズはこの勧告を望まなかった(7:4)

今に至っても、神に頼るよりは馬や戦車に頼り続ける。しかし、一度敗走を始めたら雪崩のように崩れて悲惨な展開を見ることになる。

Ⅱ主の恵みと怒り

それでも「主は、あなたがたを恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる」「恵もう・・・あわれもう」これは、預言者の大胆な信仰の確信ではないか。不信仰な時代の状況が、何を物語っているかという現実は見過ごせない(そこに裁きの警告が生れる)が、もっと大事なことは、神ご自身を見失わないことである。

「待っておられ・・・立ち上がられる」このような言い換えは、見事ではないか。主イエスは、放蕩息子を待ちわびる父を語られた。父はうらぶれたわが子を受け入れるために、待ちきれないで立ち上がり走り寄った。人が近づく事を待つ神は、自ら近づいて下さる(ヤコブ4:8)

パウロは恵の精髄について次のように書いている「働く者のばあいに、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです」(ローマ4:4-5)

あわれみも神の本性である。誰もこれを止めることができない。エレミヤも主の御心を知っている「エフライムは、わたしの大事な子なのだろうか。それとも、喜びの子なのだろうか。わたしは彼のことを語るたびに、いつも必ず彼のことを思い出す。それゆえ、わたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない」(エレミヤ31:20)と記す。

イザヤは語りかける「幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は。ああ、シオンの民、エルサレムに住む者。もうあなたは泣くことはない。あなたの叫び声に応じて、主は必ずあなたに恵み、それを聞かれるとすぐ、あなたに答えてくださる」(出エジプト2:23)

「これが道だ。これに歩め」とは、力強い主の導きの声である。

預言者は、人々に確信が与えられ、霊的にも物質的にも日常生活が正されることを先取りする。それは、真っ先に偶像礼拝の放棄である(金銀で装っても、偶像は偶像にすぎない。スペインのセビリヤには、豪壮なドゥオモがある。世界第三の規模、主祭壇の装飾に金を2トン使用)

預言者は、人間と神の関係が正されるなら、自然界の秩序も回復すると考える(ローマ8:19)それは、きわめて具体的に語られている。畑に雨が降り、作物が実り、牧草も豊かにされる。日月の光の輝きも増す。これは、闇に光を待望するイザヤの描写にふさわしい。

「見よ。主の御名が遠くから来る」

「見よ。主の御名が、遠くから、来る」と分解してみる。これを要約すると「主が来る」となる。これは、クリスマスを待ち望む者たちが期待していることである。

しかし、預言者は周到ではないか「遠くから」という副詞を添えている。主は必ず来られるが、主が遠くにおられるという描写に、痛みを見過ごしてはならない。

本来、神はインマヌエルである。この神を遠ざけたのは何かが考えさせられる。エレミヤも「主は遠くから、私に現われた」と語る。その上で「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた」(エレミヤ31:3)と、慈愛の言葉を繋ぐ。

「その怒りは燃え・・・」この主の描写は峻厳である。ヨハネの黙示録は、その表現を旧約の預言者から借用しているが、黙示録1:14-16などは、ここから学んだであろう。

因みに引用しておく「その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。その足は、炉で精練されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようであった」