イザヤ書3章

イザヤ03-4 ユダに対する裁きの宣言

Ⅰ エルサレムとユダから、ささえとたよりを除く(1ー3)
「まことに、見よ」とは、重大な警告に先立って発せられたことば。謹聴を求めている。
預言者は、人々がこれまで「ささえとたより」としてきたものが取り除かれると宣告する。それは「すべて頼みのパン、すべて頼みの水、勇士と戦士、さばきつかさと預言者、占い師と、長老、五十人隊の長と高官、議官と賢い細工人、巧みにまじないをかける者」のことである。
従がって、食料の危機が訪れ、外敵からの防衛が破綻し、リーダー不在により国土の統一が害われ、人間の信頼関係も失われ、賢い細工人の技術も停滞する。即ち市民生活の基本的枠組みが悉く損なわれると言われているのである(年配の方々は、戦後の混乱期を昨日のことのように思い出されるであろう。それでも、占領国のアメリカは、アッシリアやバビロンとは比較にならないほど寛大であった。主権在民の憲法を制定し、食料を運び、宣教師を派遣した)
ユダの過ちは、偽装された「ささえとたより」に依存したことにある。預言者は前章で「鼻で息をする人間をたよりにするな。そんな者に、何の値うちがあろうか」と警告したが、問題はそこにある。人は、神と神がお与えくださったものとを混同し、やがて優先順位が逆転し、神を蔑ろにする。偶像の発生である。こうして神に信頼すべき時に、人間的なものに頼る。人は心して本来の関係概念を見失ってはならない(伝道の書12:13、創世記2:17-18)

Ⅱ 乱れた秩序・無政府状態、弱肉強食の展開(4ー7)
これは比喩的な表現である。若い者を誹謗するわけではない。問題は、勢い任せの支配や、未経験からくる無知の傲慢を戒めている。
人々は自分の好みに従って勝手に指導者を選ぶ。イスラエルが分裂したのも、利己的で公正を欠いたレハベアムの愚かさであった(Ⅰ列王12:8-11)
信頼と責任で結ばれていた関係は、下克上の如き腕力関係に貶められた。それは、もっともらしい口実を設けるが「仲間同士で相しいたげ」と言うところへ帰結する(革命家を気取る連中の間で、悲惨な内ゲバが繰り返される)
力だけが幅をきかせる社会は尊敬や愛情を疎外し、協力ではなく排他的となる。
「あなたは着る物を持っている。私達の首領になってくれ」
金権政治はこんなに歴史的に根が深いのかと驚かされる。今日、国際社会の中で日本の経済的貢献に期待する声は高い。他国の必要に応えることが出来るのは良いことであり、進んで援助の手を差し延べる責任がある。しかし、見返りを要求するとしたらば己を見失っていると言うほかない(国連に多額の負担金を出しているのに安全保障の常任理事国になれないと怒るむきもある。また、昨年の衆議院選挙で、IT成金のホリエモンが立候補したが、半年後には刑務所暮らし)
この世の中の動向には苛々させられるが、仰ぎ見るべきは主です(詩篇73:3-17、27-28)

Ⅲ 荒廃の背景(8ー15)
「彼らの舌と行ないとが主にそむき、主のご威光に逆らった」
預言者は、人心が乱れ、町が荒廃するのは不信仰・不従順に起因すると指摘する。イスラエルの箴言も「正義は国を高め、罪は国民をはずかしめる」(箴言14:34)と語り伝えてきた。
人々は神に背いて罪に己を委ねる。傲慢な人間は、これを自由と呼ぶ。しかしそれは錨のない船、糸の切れた凧のように不安定なもの。その時から漂流が始まる。
彼らは、ソドムのように罪を恥じることもない。パウロは「彼らの栄光はその恥」(ピリピ3:19)とすっぱ抜いている。
「主は論争する為に立ち上がり」(ガラテヤ6:7-8)人は弁明を求められる。
主は忍耐強いお方であるが、いつまでも不正を見過ごしてはおられない。神の正義を侮ってはならない。主は、貧しい者を「わが民」と呼び、彼らが虐げられるのを容赦しない。

Ⅳ シオンの娘たちは(16-26)
「シオンの娘たちは高ぶり、首を伸ばし、色目を使って歩き、足に鈴を鳴らしながら小股で歩く」
平和な時代ならこれもよかろう。多少のゆとりがあり、おしゃれをして楽しむ。しかし、国家存亡の時を迎えようとしているには、民衆に少しも危機感が見られない。主は「ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、食べたり、飲んだり、めとったり、とついだりしていたが、洪水が来て、すべての人を滅ぼしてしまいました」(ルカ17:27)と語る。
「主はシオンの娘たちの頭の頂をかさぶただらけにし、主はその額をむき出しにされる」これでは取って置きの香油も香水も髪飾りも用をなさない。
以下は装飾品の目録
「足飾り、髪の輪飾り、三日月形の飾り物、耳輪、腕輪、ベール、頭飾り、くるぶしの鎖、飾り帯、香の入れ物、お守り札、指輪、鼻輪、礼服、羽織、外套、財布、手鏡、亜麻布の着物、ターバン、かぶり物」これらは、惜しげもなく取り除かれる。
ペテロは、イスラエルの娘たちに、朽ちない飾りについて教えている「あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものでなく、むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。むかし神に望みを置いた敬虔な婦人たちも、このように自分を飾って、夫に従ったのです」(Ⅰペテロ3:3-5)と。

Ⅴ 汚辱と希望(4:1-6)
「七人の女に一人の男」
食物と衣服は妻の最低の権利(出エジプト21:10)だが、戦争の為に男の数が激減、女たちは結婚の相手を得られず(イスラムの一夫多妻も同様)女性が自ら卑屈になって男性に屈辱的な隷属の道を選ぶ。それは、独身、子無しの誹りを受けないために、保護と名誉を求める為である。
「あなたの名で呼ばれる」
私たちキリスト者は、神の御名に加えられた(マタイ28:19)そして、主の御名を呼ぶことが出来る(イザヤ43:7、ロマ10:11-13)聖霊による証印(エペソ1:13)イエスの焼き印(ガラテヤ6:17)この御名の他に誇りがあってはなりません(Ⅰコリント1:31)

Ⅵ ひこばえの如く(4:2-4)
神に在っては、真夜中は夜明けです。闇から光、混沌から希望が生じる。苦悩に満ちたその日は、主の助けの手が伸ばされる日でもある
「主の若枝は、麗しく、栄光に輝き」
預言者の目は不屈です。悩みの日に俯かない。切り株からひこばえが生ずる如く、神が復興して下さることを疑わない。かかる信仰はアブラハム以来、神の人に宿る(ロマ4:18、ヘブル11:19)
私たちは信じ抜く事の難しさを口にするが、信仰者とは実に素晴らしい特権に招かれている者のことである。
「エルサレムに残った者は、聖とよばれる」
正に聖別され分離され温存された者です。聖こそイスラエルの誇り、イザヤの憧れである。
「いのちの書にしるされた者」(ルカ10:20)
主はご自分の者たちを知っておられる。
「主は焼き尽くす霊」(ヘブル12:29)である。主は水できよめ、また火できよめる。そして、み言葉できよめ、血できよめる。

Ⅶ 雲の柱、火の柱(4:5-6)
気象の暑さ厳しさを避け、雨と嵐を防ぐのみならず、人生の隠れ家となる。主こそ我らの魂の避け所である(詩篇46:1)
イスラエルは、ひたすら、神の住まいを慕った(詩篇84)
全能者の蔭に宿る者の幸い(詩篇91:1-2)は無比。
ダビデの一つの願いは「いのちの日の限り主の家に住む」こと(詩篇27:4)であった。
主イエスは言われます「私の父の家には住まいがたくさんある」(ヨハネ14:2)