イザヤ書29章

イザヤ29       ああ。アリエル、アリエル

アリエルの字義は「神のライオン」を意味すると言われる。これは「ダビデが陣を敷いた都」と言い換えられているので、首都エルサレムを指すことは明白である。

それゆえ、ここは「ああ。エルサレム、エルサレム」と言うべきところです。しかし、預言者たちは、しばしば、その特徴(創世記49:9、黙示5:5)を生かして呼びかける(エレミヤ22:29)

Ⅰああ。アリエル、アリエル

エルサレムが、その地理的な条件により、難攻不落の町であったことはエブス人の暴言からも推測される(Ⅱサムエル5:6-7)そこから、人々は、いつしかこの町をアリエル(神のライオン)と呼ぶに至った(別の語源を取る者もいる。母音の移動で「祭壇の炉」の意となる)

「ああ」は、詠嘆を表す言葉である(直訳すれば、わざわいなるかな)

それゆえ、来るべき苦難の日々を予測させる。人間の愚かさは、神の恩恵による恵と平安を忘れ、いつの間にか恵を当たり前のように錯覚する。預言者は、そのような心の退廃を喜ばない。厳しく、心の隙間に割り込んでくる。それが、アリエルに下る裁きの宣言である。

バプテスマのヨハネも、このように怠慢な人の心を知っていた。彼は、同胞のユダヤ人に向かって「『われわれの先祖はアブラハムだ』などと心の中で言い始めてはいけません。よく言っておくが、神は、こんな石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです」(ルカ3:8)と、戒めている。

イエス様も預言者と同じ痛みを持たれた。イエス様は、近づいている滅亡(紀元70年、ローマによる破壊)に気づかないエルサレムの頑迷さを嘆き「ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人々を石で打ち殺す者よ。ちょうどめんどりが翼の下にひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった」(ルカ13:34-35)と慨嘆された。

前章は、イスラエルとサマリヤの破壊の問題であったが、エルサレムも裁きの日に例外ではない。「祭壇の炉」という表現は、何もかも焼き尽くすことを意味するであろう。

「わたしは、あなたの回りに陣を敷き、あなたを前哨部隊で囲み、あなたに対して塁を築く」

この言葉を、手前勝手に誤解してはならない。預言者エリシャの故事は、無防備な預言者を天の軍勢が十重二十重に囲み保護した事を伝える(Ⅱ列王6:15-17)

しかし、イザヤが見る主の軍勢は、ユダに向かって(対決して)塁を築いているのである。守護神であるべき神を、敵としている不幸が外にあるだろうか。

主こそ、最後の砦、最後に帰るべきところではないか。それに違いない。しかし、今は、避けられない裁きが主から来る事実に慄かされている。

しかし、敵よ。奢るなかれ。神の裁きは“疎にして漏らさず”である。イスラエルの倫理基準は高い。箴言の教訓を心に留めたい(箴言17:5、24:17、25:21-22、出エジプト23:4-5)

「万軍の主は、雷と地震と大きな音をもって、つむじ風と暴風と焼き尽くす火の炎をもって、あなたを訪れる」と厳しい。

雨が降ると土石流が流れ、風が吹けば竜巻が生じる。地震や津波の脅威は、底知れない破壊力を繰り広げる。

主イエスは「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです」(ヨハネ5:17)と言われた。創造者は、世界を造りっぱなしではない。人が罪を犯した後も、自然世界に秩序を与えて、コントロールしていてくださる。しかし、人の罪が、この秩序を歪めていることも見過ごすことは出来ない(近年では、地球の温暖化が危機感を抱かせる)

パウロは、人の罪が破壊した創造の秩序を「被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです・・・私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしていることを知っています」(ローマ8:19-21)と書いている。

Ⅱ不誠実な民

「のろくなれ。驚け・・・」

この段落の要約は、少し飛躍するがアモスの言葉を連想させる。すなわち「見よ。その日が来る。神である主の御告げ。その日、わたしは、この地に飢饉を送る。パンの飢饉ではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことの飢饉である」(アモス8:11)と。

“誰も神の言葉を語ってくれないと”言うことではなさそうだ。そうではなく、だれも神の言葉に意を止めない不敬虔・不信仰の時代の訪れではないか。正しい判断力を失い、見ても見えず、聞いても聞こえず、読んでも悟らない時代の到来である。

実際、自己中心的になると、人は正しい判断力を失うものである(アメリカは、二酸化炭素排出削減を目指した京都議定書に同意しない。アメリカ経済優先の論理が働いているからである。しかし、しり込みしている大統領の尻を叩いたのは、大企業のトップたちであった。遅まきながら、危機感を持つに至ったらしい)

「この民は口先で近づき、唇でわたしをあがめるが・・・」

宗教的な形態は、慣習として残る。荘厳で恭しくさえ見えることであろう。しかし、神への畏敬ではない。規定からはみ出す事への恐怖に過ぎない。奴隷の宗教である。

おそらく、彼らは、祭儀の場で詩篇103篇のような詩を朗誦したことであろう。しかし、賛美の心は既に失っていたのである。なんと空しいことか(話は別であるが、年末になると、メサイヤを歌う会、第九を歌う会に人が集まる。最近ではゴスペル人気が高まっている。どうやらムードに酔っているようだが・・・)

「だれが、私たちを見ていよう。だれが、私たちを知っていよう」

このような連中は、帳尻合わせだけに勤しんでいる者たちのようだ。責任を問われるような瑕疵を作らないように、ひたすら努力する。しかし、自分が置かれている本来の役割を知らない(国際貢献を果たすべく、外国から研修生を受け入れる制度がある。しかし、その実体は、惨憺たるものらしい。中には、パスポートさえも取り上げられるケースがあり、研修ではなく奴隷労働が強制されている現場がある)

「ああ、あなたがたは、物をさかさに考えている」と預言者は指摘する。思い上がりも甚だしい。預言者は、神が主権者である事を理解させるために、創造者と人との関係を「陶器師を粘土」として語る(45:9、64:8、エレミヤ18:1-6)

イザヤは後に「義を追い求める者、主を尋ね求める者よ。わたしに聞け。あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴を見よ」(イザヤ51:1)

「もうしばらくすれば・・・その日・・・」

ここでは、逆転の日が訪れることを告げているが、神の民には、このしばらくが千秋の思いである。

耳の不自由な者が聞き、盲人が見る。謙るものは喜び、貧しい者は楽しむ。横暴な者はいなくなり、悪は滅びる。預言者は、メシヤの到来に関して、虐げられている者たちの解放を待ち焦がれる。

バプテスマのヨハネにも同じ思いがあった。主イエスはそれに応えている(マタイ11:2-6)

「アブラハムを贖われた主は」

ここで“主とは誰か”が確認されている。主とは、他ならぬ「アブラハムを贖われた主」である。アブラハムは、人間的側面から見れば「さすらいのアラム人」(申命記6:5)であり、メソポタミヤの地を出た時には「どこに行くのかを知らないで、出て行きました」(ヘブル11:8)もちろん、神の導きに目を留めるなら、約束の地に向かって旅立ったと言えます。

預言者は、今アブラハム契約を想起している。その前に、神の契約の性格を心に留めて置きたい。契約は、ノアの物語で初めて登場。その永遠性が見えてくる(創世記6:18、9:9-16、17)そして、アブラハムにおいては、永遠の契約として繰り返し提示された(創世記17:7,13,19)

神の祝福が永遠の契約であることに思いを致している預言者は心強い。神の恩寵や約束を、私たち人間の尺度で推し量ることは不幸なことである。信頼するなら、失望に終ることはない(28:16)