イザヤ書28章

イザヤ28            見よ、主は強い

前章は「その日・・・エルサレムの聖なる山で、主を礼拝する」と語り、希望の預言を掲げて閉じた。それは、イエス様が十字架を前にして、わたしはよみがえりであると言われたように、預言者の先取りである。実際には、そこに至る前に辿らなければならないウンザリするような道筋がある。

Ⅰ酒に酔った祭司と預言者たち

「ああ。エフライムの酔どれの誇りとする冠」

祖国が踏みにじられ、人々が捕囚とされて各地に離散させられる悲劇より先に、預言者は大胆な信仰の希望を掲げた(27:6,13)しかし、神の民には、その危機も希望も容易に伝わらない。

預言者の目には、相も変らないエフライムの驕りが見える(エフライムは、北イスラエルを代表する部族である)

その誇るところは「冠」の如く、或いは「美しい飾り」と言われ「肥えた谷の頂にある」と形容されている。彼らには神との関係を害っているが、ダビデ・ソロモン王国の栄華が忘れられない。

預言者は、エフライムの驕慢な姿を、速やかに「しぼんでゆく花」と断定する。しかも、これは自然な成り行きではない。主が介入しておられることが致命的ではないか。

預言者アモスは、イスラエルの傲慢を厳しく糾弾して「神である主は、ご自分にかけて誓われる。万軍の神、主の御告げ。わたしはヤコブの誇りを忌みきらい、その宮殿を憎む。わたしはこの町と、その中のすべての者を引き渡す」(アモス6:8)と警告した。

「見よ。主は強い」

2-4節の言葉は、果樹園に嵐が襲う描写であり、その結末を語っている。

特に2節は「見よ。主は強い、強いものを持っておられる」と語り始め「それは、刺し通して荒れ狂う雹のあらしのようだ。激しい勢いで押し流す豪雨のようだ。主はこれを力いっぱい地に投げつける」と結ぶ。

先に申し上げたように、この滅ぼす嵐は、自然災害ではなく、主の怒りの比喩なのです。

「夏前の初なりのイチジクの実」について「私の好きな初なりのいちじくの実」(ミカ7:1)という表現がある。一般的な収穫期に先立って得られる果実なので、珍重されたようだ。人は見つけると、われ先に争ってそれをもぎ取る。一つも見逃さない貴重品。

「その日、万軍の主は、民の残りの者にとって、美しい冠、栄えの飾り輪となり」

預言者は、エフライムの見せ掛けの冠ではなく、真に崇めるべき冠として万軍の主を掲げる。それは、両刃の剣である。敵にすることもあれば、味方にすることもある。

預言者は、後に、これを万人の現実として語る「すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ」(イザヤ40:6-8)このような言葉は、預言者の中で蓄積され吟味されて開花したものであろう。

本来主は「さばきの霊となり、攻撃して来る者を城門で追い返す者にとって、力となられる」が、7節は、主によって起用された者たち(さばきの座に着く者や城門を守る者)が、先の酔いどれ連中と少しも変らない事を述べる(泥酔は度し難い。イスラエルはぶどう酒を愛飲したが、泥酔は恥じた。明治政府の高官・黒田清隆について)

9-13節、ここでは、律法学者たちの無益な活動が風刺されていると考えられる。11節は、皮肉である。主の舌が縺れているのではない。自分が揺れているので、そのような結果に成る。

Ⅱ死と契約を結ぶ者たち

「主のことばを聞け」以下は、嘲る者たちに向けられている。

彼らは「私たちは死と契約を結び、よみと同盟を結んでいる・・・私たちは、まやかしを避け所とし、偽りに身を隠してきたのだから」と、臆面もなく語る。

これは、難解な言葉に聞えるが、今日でも良く聞く言葉である。傲慢の極みと言うべきか、彼らは少しも恥じるところがない(今日も、闇の世界に顔がきく事を誇りにするような連中がいる)

ある意味では“ここまで堕落してしまったのか”と、慨嘆させられる場面である。しかし、ここからが預言者の真骨頂です。

詩人は「今こそ主が事をなさる時です。彼らはあなたのおしえを破りました」(詩篇119:126)と、神の時を期待した。イザヤは、絶望的な境遇に置かれても屈しない。彼の信仰は、深く神に根ざしている。そこから、次の永遠の言葉を紡ぎ出す。

「見よ。わたしはシオンに一つの石を礎として据える。これは、試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊いかしら石。これを信じる者は、あわてることがない」

パウロは、ローマ人への手紙に、アブラハムのケースなどを取り上げて、信仰と希望について懇ろに語った(ローマ4:18、5:4-5、8:20、24、12:12、15:13他)

それは、迫害時代をローマで生きたキリスト者には不可欠な慰めであった。それが、イザヤの言葉に基づいていたことは明白である(ローマ9:33、10:11、Ⅰペテロ2:6)

パウロの場合、ギリシャ語七十人訳から引用しているので「見よ。わたしは、シオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。彼に信頼する者は、失望させられることがない」と分かり易い。

ここで言う「つまずきの石、妨げの岩」とは、まさしくイエス様のことであるが、イザヤの段階では、そこまで明白には分かっていなかったであろう。

石については、数々の興味深い言葉があるが「家を建てる者たちの捨てた石。それが礎の石になった。これは、主のなさったことだ。私たちの目には不思議なことである」(詩篇118:22)が含蓄深い。主イエスも引用しておられる(マタイ21:42)

21節は、イスラエルの故事を想起させる。

ペラツィムでは、主の名において、ダビデがペリシテに勝利した(Ⅱサムエル5:18-20)

ギブオンでの勝利は、ヨシュアによるカナン侵入時にまで遡る(ヨシュア10:10-12)

「農夫は、種を蒔くために、いつも耕して、その土地を起こし、まぐわでならしてばかりいるだろうか」

ここで、農夫の作業を比喩として語る。その作業は単調に見えるが、無感動な繰り返しではない。一つずつ段階を踏んで進む。耕した後には、種まきが待ち受けている。整然とした秩序がある。

農作業のルールを皆目理解していないので憚り多いが、種が固有の力を持つ事は知っている。ある物は連作を嫌うなど、熟練した者だけが良くコントロールする業と理解する。預言者も「農夫を指図する神は、彼に正しく教えておられる」と語る。

ここには、ういきょう(いのんど・黒クミン)クミン、小麦、大麦、裸麦が登場する。ういきょうやクミンはパンの香料として用いられた。麦のように脱穀機を用いず、棒などで叩いたようである。

種類に従い、季節に従って蒔かれた種は、収穫時にも、それぞれに相応しい扱いが求められる。預言者は、それを「農夫を指図する神」と表現した。

神の創造の世界では、地の産物さえも無差別で一様な扱いを受けることはない。神は、時に従って多種多様な産物を地から生ぜしめ、その収穫の扱いさえも千差万別である。それを食するとき、それぞれの味わいも、効果も異なる(栄養素という意味で)しかも、相互補完する。

果物でも冬に熟すもの、盛夏に得られるもの、手で摘むものも有れば棒でたたき落とす物もある。かかる神の配慮は、人間の取り扱いにおいて極まる。

しかし、神の恩恵を理解しない者は、自分の隣人を粗雑に扱う。今日では、子どもたちまで、いじめを逃れて死を選ぶ。何と生命が粗末にされていることか。

神は、一人一人に目を止めてくださる(詩篇40:16)その上で、個々の歩みのペースまでも心に止めて下さる。

このような連想の延長に「主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く」(イザヤ40:11)と言う言葉が生れたのであろう。

主の「はかりごとは奇しく、そのおもんばかりはすばらしい」