イザヤ書27章

イザヤ27         その日、主を礼拝する

27章は「その日」を繰り返している。それは、主が圧倒的な勝利を収める日として語られている。繰り返されているのは、預言者が「その日」を待ち焦がれているからである。それは、現在の状況に耐えがたくなっていることを示しているともいえよう。

あらゆる時代が、不信仰と傲慢・不正と不義・虐待と搾取など、あらゆる悪徳に彩られてきた。それは、神を恐れない傲慢な権力者の周りに、諂うものたちが群がるからである。彼らは権力に媚び、その支持者・宣伝者となり、その不正な分け前に与ってきたのである。

どんなに強力な権力も疲弊する。そして時代は変わる。しかし、本質的な権力の構造は変わることがない。役者は変わるが、演出は変わらない。

社会の底辺に置かれて虐げられている者たちは、時代の変わり目に、ちょっとだけ期待を抱かせられ、やがて元の木阿弥、裏切られ切り捨てられてきた。

預言者が「その日」を恋焦がれてきた所以である。詩篇には「私の心には、一日中、悲しみがあります。いつまで敵が私の上に、勝ちおごるのでしょう」(詩13:2)と言う嘆きが多い。しかし、預言者は究極のゴールを見失うことはない「エルサレムの聖なる山で、主を礼拝する」(ヨハネ4:21)

Ⅰ敵、蛇レビヤタン、竜

「その日、主は、鋭い大きな強い剣で、逃げ惑う蛇レビヤタン(リブヤーターン・ネフェシ)、曲がりくねる蛇レビヤタンを罰し、海にいる竜(ターニーン)を殺される」

古代社会では、レビヤタンもターニーンも、底知れない海に住む伝説的な巨獣として恐れられていた(訳語は、鰐、竜、鯨、蛇など様々である)

(余談だが、イギリスの政治学者ホッブスは“レビヤタン”と言う書物を著して、政治権力の中心とその妖怪性を描いた。もちろん、比喩的な用法である)

近代小説の“白鯨”は海の死闘を物語る。今日でも、海は測り知れない。昔の人々が、鯨(シロナガスクジラは30メートル)や獰猛な鮫と出会った時の恐怖は、想像に難くないであろう。

今、ここで、預言者は、敵をレビヤタンや竜として描き出しているが、神はいかなる敵をも打ち倒してくださるとの信頼を歌ったのである。レビヤタンは比喩であって、それ自体が敵でないことは言うまでもない。

詩人は、レビヤタンを含む神の創造をたたえる「主よ。あなたのみ業はなんと多いことでしょう。あなたは、それらをみな、知恵をもって造っておられます。地はあなたの造られたもので満ちています。そこには大きく、広く広がる海があり、その中で、はうものは数知れず、大小の生き物もいます。舟がそこを行き交い、お造りになったレビヤタンもそこに戯れる。彼らはみな、あなたを待ち望んでいます。あなたが時にしたがって食物をお与えになることを」(詩104:26)愉快な描写ではないか。創造者を神とするイスラエルの自然観は、スケールが大きく圧倒される「太陽は、部屋から出て来る花婿のようだ。勇士のように、その走路を喜び走る」(詩篇19:5)などもその代表例であろう。

Ⅱいつくしみ深い主

「わたし、主は、それを見守る者」

ユダのリーダーたちは、見守る者としての責任を果たさず、畑や牧草地も荒れるままにしてきた。後に、エレミヤもエゼキエルも、彼らの時代の指導者たちが責任を放棄してきた有様を糾弾している(エレミヤ12:10-11、23:1-4、エゼキエル24:1-10)

しかし、たとえ、彼らがその責任を果たさなくても、絶望することはない。今や、主ご自身が「見守る者」となってくださる(詩篇121:3-5)

主は「絶えずこれに水を注・・・夜も昼もこれを見守っている」

主の懐は広く深い。いつでも開かれている。その招きは、誰をも拒まない(ヨハネ6:37)その上、主は自ら和解を用意しておられる(Ⅱコリント5:17-19)

「時が来れば、ヤコブは根を張り、イスラエルは芽を出し、花を咲かせ、世界の面に実を満たす」これは、37章31節に、さらに鮮やかに描かれている。

「時が来れば」という言葉には、必ず時が訪れると言う不屈の期待が前提となっている。しかし、時のしるしは与えられていない。それは預言者にも分からない。何故であろう。時は神に属するものだからである(伝道の3:11)

主イエスは、神の時に従がって行動された(ヨハネ2:4、4:23、7:6,8、8:20、12:23、13:1、16:4)しかし、主は、終末に関して語られた時、私たちの耳には思いがけない事を言われた「その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます」(マタイ24:36)と。これは、主が“知っているのか知らないのか”を議論する場ではない。時とは、これほどに、神の主権に属するということである。

時があるならば、その時を知りたくなるのは人の常である。しかし、私たちに求められているのはその時を予測することではなく「目を覚ましている」(Ⅰペテロ5:8)ことです。その時が訪れたら、受け入れる用意が出来ている人は幸いです

もう一言。預言者は、必ずその時が来る事を知っている。残されているのは信頼することです。

Ⅲその日主は

「ユーフラテスからエジプトまで」

イスラエルに「ダンからべエルシェバまで」(士師20:1)という慣用的な表現がある。これは、イスラエルの北から南まで、全土を表わす表現である。

同様に考えると「ユーフラテスからエジプトまで」とは、北東の彼方ユーフラテスから、南方のエジプトまで、彼らが念頭においている全世界のことである。

「穀物の穂を打ち落とされ・・・あなたがたは、ひとりひとり拾い上げられる」

これは、落穂拾いの光景を髣髴させる。落穂は、一度こぼれた物である。拾われなければ、朽ち果てるほかない。丁寧に拾われることによって回復するものである。

預言者は、ユダの救いを神の落穂拾いとして語る。捨てられたに等しい者が、丹念に拾い集められるというのである。

イエス様は、神の捜し物を三つの失われたもののたとえ話で語られた(ルカ15章。羊、銀貨、息子)そして、エリコの町でザアカイを見出されたとき「今日、救いがこの家に来た」(ルカ19:9-10)と歓喜された。

「その日・・・アッシリア・・・エジプトの地に散らされていた者たちが(帰って)来て」

詩人は「主がシオンの捕われ人を帰されたとき、私たちは夢を見ている者のようであった・・・主よ。ネゲブの流れのように、私たちの捕われ人を帰らせてください」(詩篇126:1,4)と歌った(私たちも拉致問題を通して、帰れない者たちの苦悩を共有している)

「エルサレムの聖なる山で主を礼拝する」

国土が蹂躪され、異教支配の下に置かれたのみならず、アハズ王の時代などは、国王自ら進んで偶像礼拝の先頭に立った。そのような時代を生きた預言者イザヤにとって、その日はどんなに待ち望まれたことか。必ずその日が訪れるという信仰の確信なしには、希望をもって民を励まし続けることはできなかったであろう。

イザヤにとって「エルサレムの聖なる山」に集まることは、回復の象徴であった。しかし、主イエスは、サマリヤの女性に「あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます・・・真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません」(ヨハネ24:21-24)と言われた。

霊と真をもって神を礼拝すること、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして主なる神を礼拝することが求められています。