イザヤ26 死者の復活の希望
この章は、ひたすら主を慕い求める者たちが、ついに見出した復活の希望について語る。即ち「あなたの死人は生き返り、私のなきがらはよみがえります。さめよ、喜び歌え。ちりに住む者よ。あなたの露は光の露。地は死者の霊を生き返らせます」(19節)と。これは、25章8節の言葉「万軍の主は・・・永久に死を滅ぼされる」という発見に導き出されたものであろう。
神が創造されたアダムとイブも死に、信仰の父アブラハムも死に、出エジプトを果たしたモーセも死に、ダビデもソロモンも死んだ。死の世界は覗くことも出来ないほど深い穴のようだ。
ダビデは「まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません」(詩16:10。これは後に、ペテロやパウロによって、キリストの復活の預言として引用される。使徒2:27、13:35)しかし、旧約聖書全般では、このような言葉は稀で、散見されるに過ぎない(後が続かない)
本日は、旧約聖書の死生観を瞥見し、新約聖書と対比しつつ、預言者の中に芽生えてきた復活の希望、究極の信仰の発見を考察してみることにする。
Ⅰユダの国で再び歌が
ここで歌われるのは、明らかに賛美と感謝と喜びの歌です。神の民が神に歌うことを忘れるほど悲惨な状況はない。しかし、不信仰は人の心から賛美を奪う。そこでは嘆きの歌しか出てこない。預言者は歌を掲げることにより、解放と救いの喜びを先取りして伝えている。
「いつまでも主に信頼せよ」
主はとこしえの岩です。かつて、岩は不動のシンボルであった。岩は、そこを訪れれば、いつでも出会うことができる不動の存在である(近年、地すべりや崖崩れ、土石流の激しさに圧倒され、岩のイメージは弱ったでしょうか)
「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る」(詩篇121:1-2)などは、そのような背景から生れたものです。
しかし、信仰者の確信や希望は、現実の厳しさに絶えず痛めつけられています。長い目で見れば、悪人の栄えはひと時に過ぎないのですが、心は乱される(詩73:1-17)
それ故、自分の心をむち打ち、奮い立たせる「主よ。まことにあなたのさばきの道で、私たちはあなたを待ち望み、私たちのたましいは、あなたの御名、あなたの呼び名を慕います。私のたましいは、夜あなたを慕います。まことに、私の内なる霊はあなたを切に求めます」と。
「主よ。あなたは、私たちのために平和を備えておられます」
しかし、現実は「子を産む時が近づいて、そのひどい痛みに、苦しみ叫ぶ妊婦のように。主よ。私たちは御前にそのようでした」と、深い嘆きを覆いようもない。
そんな中で、預言者は広いところに引き出されます(鬱蒼としている森をさ迷い歩いている時、突然、明るい所に出たような感がする)預言者にひらめいた言葉は「あなたの死人は生き返り、私のなきがらはよみがえります。さめよ、喜び歌え。ちりに住む者よ。あなたの露は光の露。地は死者の霊を生き返らせます」(19節)
預言者は、かつて、このような言葉を聞いたことも、また発したこともない(25:8と比べて見よ)。
Ⅱ不安と絶望の死から復活の希望へ
最初に、新約聖書を代表するパウロの死に対する考え方を見て、主にある恵を感謝したい。
「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」(ローマ8:38-39)
「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました」(Ⅰコリント15:55-57)
「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。しかし、もしこの肉体のいのちが続くとしたら、私の働きが豊かな実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいのか、私にはわかりません」(ピリピ1:21-22)
「私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです」(Ⅱテモテ4:4-8)
こんなに大胆に死を直視して死に向かい合うことが出来たのは、キリストが復活されたからです(ヨハネ11:25)初期のキリスト者たちが、厳しい迫害の時代に耐え抜くことが出来たのは、永遠の生命を確信していたからです(ヨハネ10:28)
しかし、イエス様の復活を知らない旧約時代の預言者たちが、生死の問題では、どんなに深い闇の中を通ってきたか測り知れない。
箴言は諺ですから、その時代の人々が受け入れてきた一般的な価値観を言い表している。それは、死に対する恐れを語っている。死からの救出こそ願わしかったのです。
「不義によって得た財宝は役に立たない。しかし正義は人を死から救い出す」(箴言10:2)
「財産は激しい怒りの日には役に立たない。しかし正義は人を死から救い出す」(箴言11:4)
「知恵のある者のおしえはいのちの泉、これによって、死のわなをのがれることができる」(箴言13:14)
「主を恐れることはいのちの泉、死のわなからのがれさせる」(箴言14:27)これらを見ると、死と対決することではなく、ひたすら死から逃れることが、その願望であった。因果応報の域を出ない。
伝道の書が語る死の哲学はどうでしょう。
「知恵ある者も愚かな者とともに死んでいなくなる」(伝道の書2:16)虚無的で諦観が見られる。
「人の子の結末と獣の結末とは同じ結末だ。これも死ねば、あれも死ぬ。両方とも同じ息を持っている。人は何も獣にまさっていない。すべてはむなしいからだ」(伝道の書)
「私は、まだいのちがあって生きながらえている人よりは、すでに死んだ死人のほうに祝いを申し述べる」(伝道の書4:2)生にさえ失望している。
「風を支配し、風を止めることのできる人はいない。死の日も支配することはできない」(伝道の書8:8)無力感が漂う。
「すべて生きている者に連なっている者には希望がある。生きている犬は死んだ獅子にまさるからである」(伝道の書9:4)
「生きている者は自分が死ぬことを知っているが、死んだ者は何も知らない。彼らにはもはや何の報いもなく、彼らの呼び名も忘れられる」(伝道の書9:5)
それ故、伝道者は、生きる事を大切にせよと語る。将来のことは見えないが、そこに信仰が働く。神のことがすべて分かるわけではない。けれども、信頼することはできる。
「神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ」(伝道の書12:13-14)と。
雑駁だが、以上のような不確かな中で、死は常に現実である。しかも、私たちのように、確固たる復活の確信は持ち得ない(願望の域を出ない)
その中で、預言者は「あなたの死人は生き返り、私のなきがらはよみがえります」と言うのです。僅か数章前までは「飲めよ。食らえよ。どうせ、あすは死ぬのだから」(22:13)と、投げやりな事を口にした退廃的な者たちと同じ次元にいた預言者は、見事な脱皮を果たした。
それは、やがて、さらに昇華して「彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれた・・・彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする」(53:12)の言葉を生み出す。メシヤの贖いが見えてくる。