イザヤ書25章

イザヤ25        主よ、あなたは私の神

Ⅰあなたは私の神(1ー5)

「主よ。あなたは私の神」(7:13)

このような賛美や告白は、詩篇の中で数々見られる。代表的なものを引用しておく「あなたこそ、私の主。私の幸いは、あなたのほかにはありません」(詩篇16:2)

もし、当人が心から望んでもいないのに、このような告白を強いられるとするなら、それは、精神に楔を打ち込まれる拷問に等しい。しかし、愛に目覚め、信頼に基づき、魂の叫びとして迸り出るなら、なんと幸いな関係であろう。

偶像や暴君は、人を奴隷にして隷属することを求める。しかし、創造者なる神は、私たちを子として受け入れてくださる(詩篇103:13、ローマ8:14-15)

人生の嵐が吹き猛り心を揺さぶられると、人の平安はたちまち掻き乱されてしまう。しかし、私たちの救い主は「あなたがたは心を騒がせるな。神を信じ、私を信じなさい」(ヨハネ14:1)と語られた。神を信じ呼び求める者だけが平安を保ち、希望を見出すことができる。

「私はあなたをあがめ、あなたの御名をほめたたえます」

預言者が主の御名を讃えるのに不思議はない。しかし、今更のように「あなたの御名をたたえます」とは、どういうことであろうか。

預言者は目下のところ、激動の時代の真っ只中に置かれている。心を騒がせない筈がない。心は、信頼と不安の両極を振り子のように揺れ動く。しかし、静かに顧と、神の御業は遠い昔に始まり、今に至るまで変節がない。これからもあろう筈がない。神は永遠である。国々の栄光のように“昔は栄えていたが・・・”という類のものではない。その確信に呼び戻されたのであろう。

神に信頼するとは、このようなことである。それにも拘わらず、人は絶えず神を侮り、蔑ろにしてきた。自己中心的に神を呼び、神を利用してきたのではなかったか。

預言者は、今始めて神を知る思いがする。

「あなたは、弱っている者の砦、貧しい者の悩みの時の砦」

この世の神々を御存知だろうか。異教社会では、富や権力などの力を持つ者たちが優先・優遇されている。弱者は後回しにされるのが習いである。卑近な例であるが、相撲部屋では、ちゃんこ鍋を囲む順番がある。上位の力士から箸を取り、体を作らなければならない若い下位の力士は後回し。一事が万事である。

それ故、主イエスがたとえ話の中で「労務者たちを呼んで、最後に来た者たちから順に、最初に来た者たちにまで、賃金を払ってやりなさい・・・私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです」(マタイ20:8、14)と言われた御心がありがたい。

主の目は、後回しにされ続けてきた人々を知っておられる。いつまでも放置なさらない。

「あらしの時の避け所、暑さを避けるときの陰」

神に避け所を見出す者は、弱く貧しくても恐れることはない。神ご自身が壁となり、覆いとなってくださる(詩篇46:1)聖歌471番も「主に隠れし魂の、などて揺らぐことやある。主の手にある魂を揺り動かす者あらじ」と歌う。

Ⅱ主の恵みの饗宴(6ー9)

ここでは、神の救いが宴会になぞらえられている。もちろん、神の救いは飲食にはよらない。しかし、貧しくて、上等な食事に与ったことのない者たちには、宴会は憧れであったろう。預言者の言葉は、気配りがきいている。

髄と油、ぶどう酒は最高の饗宴です。詩篇も「私のたましいが脂肪と髄に満ち足りるかのように、私のくちびるは喜びにあふれて賛美します」(詩篇63:5)と歌う。また、イスラエルの諺は“ぶどう酒のないところに喜びはない”と言い慣らす。

「顔おおいを取り除き」

これは、人が悲しみのの時に顔を覆ったことに由来するものであろう。ダビデ王も息子アブサロムの反逆によって追放された悲しい経験をした(Ⅱサムエル15:30)ここから、聖所を二分する隔ての幕の除去について論じるのは、飛躍がすぎるであろう。

もちろん、顔覆いには別の連想も働く。脚注は、Ⅱコリント3:18「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです」を指し示している。これは、モーセがイスラエルの前で顔を覆っていた故事に基づく(出エジプト34:29-33)

しかし、8節で「顔から涙を拭う」と言われていることと考え合わせるなら、虐げられた者たちの悲しみの顔覆いと理解するのがよい。

「永久に死を滅ぼされる」

これは、新約聖書的な洞察がなければ語り得ない言葉である。パウロは「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました」(Ⅰコリント15:55-57)と喜びを記している。このような言葉は、キリストの復活なしには語れないものである。

新約聖書には復活の奇跡がいくつか記されている。それは、どれも悲しみを拭われる記録である。主イエスは、ナインの町で、一人息子を失った寡婦に「泣かなくてもよい」と言われて、彼女の涙を拭われた(ルカ7:11-15)

ベタニヤでは「ラザロよ、出てきなさい」と命じて、マルタとマリヤを慰められた(ヨハネ11:43)

「見よ。この方こそ、私たちが救いを待ち望んだ私たちの神」

救いは待ち望む者に訪れる。信ぜず、期待せず、待つことを楽しみとしない者は、救いの訪れに気づきもしないであろう。

主の救いを待ち望んで、その兆しを見た者の充足感を思い起こしておこう。エルサレムのシメオンやアンナという老いた敬虔な人々を忘れてはならない。彼らは「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、み言葉どおり、安らかに去らせてくださいます。私の目があなたの御救いを見たからです。御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です」(ルカ2:29-32、38)と神を讃えた。

「私たちの神」

1節では「私の神」であったものが、ここでは複数になっていることを見過ごしてはならない。今や、主は、私と志を同じくする全ての者の神と成られたのである。御救いを楽しみ喜ぼう。

Ⅲモアブの悲劇(10ー12)

「主のみ手が・・・」主の救いは、神の民に、山のような揺るぎのない安息と栄光をもたらすが、救いに与からない民の状況は悲劇的である。

モアブは、神の会衆に加わることが許されていない(申命記23:3)

ここでは、モアブの民に限定するよりも、モアブ的な全ての民のことを語る。すなわち神の会衆から除外されることは、肥溜に落とされるに等しい(詩篇84:2-3)

イエス様は、サタンの差し出した偽りの栄誉を拒否された(マタイ4:10)が、私たちも過ぎ行くこの世の栄誉に欺かれてはならない(Ⅰヨハネ2:15-17)

「泳ぐ者が泳ごうとして」懸命に手を伸ばす。されど肥溜の中では埒があかない。

「主はその高ぶりを低くされる」

高ぶりを低くし、ちりにされる。ここには絶望しかないのだろうか。ここに至っても、塵である事を認識して謙るなら望がある。

エレミヤ哀歌は「口をちりにつけよ。もしや希望があるかもしれない」(哀歌3:29)と歌う。