イザヤ書24章

イザヤ24          神の主権・救いと裁き

預言者は、イスラエル至上主義者ではない。国家存亡の危機に際しても、イスラエル・ユダだけを案じる偏狭な愛国者ではない。神を全世界の創造者として崇めているので、全世界に対して神の視点から公平な見方をする。

13-23章では、周辺諸国民の罪を見過ごさずに厳しく糾弾してきた。しかし、諸国民に神の裁きを宣告するだけではなく、その先にある神のあわれみも見続けてきた。

圧巻は、万軍の主が「わたしの民エジプト、わたしの手でつくったアッシリヤ、わたしのものである民イスラエルに祝福があるように」(19:25)という声を聞き漏らさないことです。

再び、ユダの問題を取り上げる。ここには、おもちゃ箱をひっくり返したような無秩序が見られる。

Ⅰ地は荒れ

「見よ。主は地を荒れすたらせ」

地を荒れすたらせるのは主である。裁きを下すのは、主権者なる神であることを銘記すべきです。私たちの先祖も“天網恢恢、疎にして漏らさず”と言う認識を持ってきた(最近は不遜になっている)神の裁きを逃れる事はできないが、神の慈悲も無限です。ダビデは裁かれるとき「主の手に陥ることにしましょう。主のあわれみは深いからです。人の手には陥りたくありません」(Ⅱサムエル24:14)と言って、主のあわれみに対する信頼を表明している。

ここで言う「地(ハーアーレツ)」は、ただ単に大地だけを意味するのではない。人間も地のちりから造られたものであることを忘れてはならない「地」は、大地から生じて世にあるすべてのものを包含している。人間とその営みに係わる全ての物、すべての関係を含む。よく知られた「地」の用法には「地よ、地よ、地よ。主のことばを聞け」(エレミヤ22:29)がある。

神は、地を治める事を人の手に委ねられた(創世記1:28、詩篇115:16)それは、人が大地を耕す(アーバド・これは、仕えるを意味する)ことに要約される(創世記2:15)

しかし、人は神に背いて罪を犯し、大地はのろいの下に置かれた(創世記3:17-19)これは避けられないことである。人は大地に跪いて仕える者であったが、罪が駆り立てる利己心は、大地を奴隷のように扱い、地に感謝することを忘れ、地の実りを搾取してきた。土地が痩せて荒廃するのは理の当然ではないか。以来、造られた世界は苦悩の下にある。

パウロは擬人化して「私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています」(ローマ8:22)と書いている。

実際、地震や台風、洪水が出るほどの大雨や、旱魃をもたらすほど降水量が少ない年がある“貧すれば貪する”というが、自然界の現象は人間生活に速やかに影響をもたらす。食物の不作は日常生活を脅かし、人間関係の秩序も乱される。力に任せた略奪などが横行する(阪神大震災後の秩序に、外国人記者は感嘆したと言われるが、昨今では、米、果物などが収穫期に盗まれる)

人間社会の秩序も乱れる。身分の階級制度がなくなるのは結構なことであるが、それは決して公平な社会を作り出すわけではない。弱肉強食という新たな問題が生じる。今日の格差社会は、その延長上にあるのではないだろうか。

「地はその住民によって汚された」とは、地の叫びです(創世記4:10)

大地は、アダムの堕落によってのろわれたが、後にモーセを通して与えられた律法は、人間と大地に安息を命じている(レビ25:4、26:34-35)しかし、地の管理責任者である人間は、目先の欲に駆られて農薬散布で地を汚しているのが現状であり、安息とはほど遠い実状である。

「わずかな者が残される」

これは「わずかしか残らない」と言う絶望的な嘆きを言い表したに違いない。しかし、これさえも視点を変えると「わずかだが残る」という希望の糸口となる。

「都は壊されて荒れ地のようになり」

町から陽気な歌声は消え・・・(戦時下の歌舞音曲云々・・・が思い起こされる)

「強い酒を飲んでも、それは苦い」

この表現も、人間を良く知っている言葉ではないか。酒を楽しむ人もあろう。しかし、人はしばしば“われを忘れたい”或いは“現状から逃げ出したい”と思って酒に逃げ場を求める。しかし、そんな酒が美味いはずがない。まさに「それは苦い」のである(酒酔い運転を止めた妻を轢き殺す)

箴言には「笑うときにも心は痛み、終わりには喜びが悲しみとなる」(14:13)という言葉がある。

Ⅱ信仰と現実

「彼らは、声を張り上げて喜び歌い・・・主の威光をたたえて叫ぶ」

いったい、13節と14節の間には何があったのか。陽気な歌声が絶えていたのに、今、再び喜びの声が湧き起こっている。人々は「東の国々で主をあがめ、西の島々で、イスラエルの神、主の御名をあがめ」始める。

これまで、神の裁きが地をひっくり返すような厳しさで書かれていたのに、ここでは、救いの希望と喜びが湧き上がっている。私たちは、この劇的な状況変化の直接的な理由を詳らかにすることができない「彼ら」と名指された人々を知ることもできない。

しかし、東から西から「主の威光をたたえ・・・主をあがめる」声が響きわたる。「主の御名をあがめる」者たちが帰ってくるのだ。タンバリンを取り上げても、竪琴を奏でても失われていた陽気さが戻ってくる。

反逆の民には平和も繁栄も無いが、神との正しい関係が回復するとき、失われていたものが帰ってくる。そして、この偉大な変化の中で、一人取り残されている者がいる。預言者自身である。

「私はだめだ、私はだめだ」預言者のこの不安は何によるのか。

預言者は「私はだめだ」という段階を卒業したのではなかったか(6:5)それでは何故。

6章は、神の栄光の前で、自分自身の汚れに気づき絶望的になった預言者の描写であった。そこで彼はきよめられ、聖別されて、神の御心を知る者となった。

この章で、預言者が「私はだめだ」というのは、神への絶望ではない。事態を適確に捉え切れない困惑・個人的な限界を物語っているのではないだろうか。換言すると、預言者自身が、13節と14節のギャップを埋め切れないでいるように見える。何といっても、彼が立っている現実は、不正と不義が横行する地のうえであり、仰いでいるのはイスラエルの聖なる方である。

Ⅲその日、主は輝く

「その日、主は天では天の大軍を、地では地上の王たちを罰せられる」

神の裁きは天地を貫いて徹底的です。地上ばかりでなく、天の大軍も罰せられる。ここで言う「天の大軍」とは、天的軍勢を自称する者たちのことと考えたら良い(14:13-14)

これが、やがて「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する」(65:17、66:22)と言う言葉を導き出すのであろう。

ペテロもこれを引用して世界の終わりについて言及している。すなわち「私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます」(Ⅱペテロ3:10-13)

「月ははずかしめを受け、日も恥を見る」

これは、月や太陽を辱しめる言葉ではない。輝く神の栄光をたたえた比喩的な表現である“昼行灯”という表現がある。太陽の前では、行灯やローソクの輝きは無きに等しいものです。同様に、神の栄光の輝きに比べれば、太陽は及びもつかないの意である。

黙示録も「都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである」(黙示21:23、22:5)と。

「万軍の主がシオンの山、エルサレムで王となり」

神の復権である。エルサレムは、イスラエルのエルサレムを限定していない。輝く栄光、これこそ神に相応しい(イザヤ43:7、ヨハネ17:5)ここでは、預言者はイスラエルの繁栄と回復を語る次元ではなく、全世界の終末を視野に捕らえていることが明らかである。