イザヤ書2章

イザヤ02 神の祝福と裁き

預言者は一般の人よりも遥かに感受性が強い。それは恵まれた資質に違いないが、時には重荷であろう
(似たことが、芸術家にも言える。他の人が見過ごしている事物に感動を見出す)
私たちでも、今日のように毎日悲惨なニュースを耳にすると、心を痛め、或いは、怒りを覚える。預言者は、ユダとイスラエルの中で、罪が支配的な現状に、誰よりも心を痛めたに違いない。
イスラエルの詩人は「私の目から涙が川のように流れます。彼らがあなたのみおしえを守らないからです」(詩篇119:136)と、心情を吐露します。
預言者エレミヤも「ああ、私の頭が水であったなら、私の目が涙の泉であったなら、私は昼も夜も、私の娘、私の民の殺された者のため泣こうものを」(エレミヤ9:1)と。
しかし、預言者は、悲しみ、怒り、憂えているが、決して悲観的・絶望的にならない。神に信頼しているからである。神は罪を裁かれるが、救いの希望でもある。

Ⅰ 神の民の輝く未来(2:1-4)
預言者は「終わりの日」を見据えている。これは、やがて、必ずというニュアンスである。
1-4節は、イザヤが、先輩の預言者ミカが語った言葉から学んだものである(ミカ4:1-3)神のメッセージは、預言者の間で自由に継承されてきたことが明らかである。
「主の家の山」は、他の「山々、丘々」と対比されている。これは、実際の標高を競うのではないが「主はここにおられる」(エゼキエル48:35)という勝利の訪れを予見するものである。
この背景には、アハズ王の愚かな行為が関係しているであろう(Ⅱ列王16:7-12によると、アハズはダマスコの祭壇の図面と模型を持ち帰り、祭壇を建立していけにえをささげた)このような屈辱的行為を、若い預言者イザヤは、どんな気持ちで受け止めたのか。必ず、逆転する時が来るのを信じて疑わなかったであろう。それが「終わりの日」を待ち望む信仰を育てる。
「主はご自分の道を、私たちに教えて下さる」(詩篇24:3-6、32:8、ヨハネ14:6)ここでは、主の道は「小道」と言われる。その時まで、誰も顧ないからであろう。
イエス様も「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです」(マタイ7:13-14)
しかし、時が来ると、この道は公道になる「そこに大路があり、その道は聖なる道と呼ばれる。汚れた者はそこを通れない。これは、贖われた者たちのもの。旅人も愚か者も、これに迷い込むことはない」(イザヤ35:8)
「彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない」国々が戦いに明け暮れている時、預言者たちは戦争の愚かさを知っていた。今日では一般大衆でも戦争が愚行であることを知っている。しかし、国々の指導者たちは、平和の道を選ばず、戦いを選択する。

Ⅱ ユダの腐敗の現状(2:5-11)
「来たれ・・・主の光に歩もう」(60:1-2,19-20、ヨハネ8:12)
ロシアで組織されたシオニストをBILUと呼ぶ。これは、イザヤ書2章5節(6文字で構成)の最初の4文字の頭文字を並べたものである。最後の2文字が省略されているのが象徴的。

5節「ベイト・ヤコブ・レクー・ヴェネイレカー・ベオート・ヤーウェ」を直訳すると「ヤコブの-家よ、来たれ、歩もう。主の-光の中を」となる。しかし、終わりの2語「主の光の中を」が欠落しているのは見過ごせない。

「ヤコブの家」の実状はゴミの山として描かれている「卜者で満ち・・・金や銀で満ち、その財宝は限りなく、その国は馬で満ち、その戦車も数限りない。その国は偽りの神々で満ち、彼らは、自分の手で造った物、指で造った物を拝んでいる」何とも皮肉な描写である。

宗教的異文化が満ち、経済的繁栄を極めている。分けても盛んなのは軍需産業。偶像は地に満ち溢れている。造り主を忘れ、人の手で作られたものを拝む。

人間の手によって造られた物を拝む愚かさ。拝金、拝権力(皇帝礼拝)、拝知性(理神論)かくして、人間は自分自身を卑しめている。人は地のちりに過ぎないが、生命は神の霊に生かされる。

もし、人が希望を抱くのであるならば、主に帰るほか無い。

崇められるのは「主おひとりだけ」人が、そして、人間的なものが栄誉を奪ってはならない。しかし、いつの頃からだろうか、若者たちの人気者を“アイドル”と呼んでもてはやす。アイドルとは偶像を意味する言葉ではないか。確かに彼らは、偶像となっている。

Ⅲ 主の日(2:12-22)
「万軍の主の日」本来、すべての日は、主の日であるが、ここでは裁きの訪れる日を指している。それは、裁かれる者には、破壊をもたらす残酷な日となる(13:6)が、虐げられ疎外されて、主を待ち望む者たちには希望の日であり、解放の日となる。
エゼキエルは「諸国の民の終わりの日」(エゼキエル30:3)と呼んでいる。
新約聖書においては、主の日は、イエスが復活された週の初めの日をさす。また、主の来臨も主の日である(終末の裁きの日)それは、特定の一日を指すのではなく、主がすべての日の主権者であることに基づき、主が際立った行動をされる日を呼ぶ。
「その日には、高ぶる者はかがめられ、高慢な者は低くされ、主おひとりだけが高められる。偽りの神々は消えうせる」神がお嫌いなのは高慢であり、謙った心を嘉される「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためで」(57:15)
「主が立ち上がり、地をおののかせるとき、人々は主の恐るべき御顔を避け、ご威光の輝きを避けて、岩のほら穴や、土の穴にはいる」
いたずらに主の御顔を恐れてはならない。イスラエルの詩人は「御顔の救い」(42:5,11)という表現を用いる。神の顔は、神の臨在を意味するからである。神の臨在は救いをもたらす(ローマ8:31)しかし、日常の経験でも、子どもたちは後ろ暗いところがあると両親から顔を背ける。恐れて親の顔もまともに見ることができない。恐れは愛を締め出す(Ⅰヨハネ4:18-21)
「主が立ち上がり」
主は忍耐強く待たれるが、主が一度腰を上げたらすべての反逆はひとたまりもない。警告が発せられている間に、心を定めて主に帰る必要がある(イザヤ55:6、Ⅱペテロ3:8-10)
それで「鼻で息をする人間を頼りにするな。そんな者に、何の値うちがあろうか」と言うことになる。これは、人のことである(創世記2:7、ヨブ27:3)
イザヤの人間観(40:15,17)は、人を卑しめているのではない(43:4)神の栄光を刻んで造られた真の人間(イマゴ・デイ)を惜しんでいるのである。
エレミヤも「人間に信頼し、肉を自分の腕とし、心が主から離れる者はのろわれよ・・・主に信頼し、主を頼みとする者に祝福があるように」(エレミヤ17:5)と教えている。主は人を地のちりから造られた。主こそ存在の根源であり、人間は地の塵にすぎない。
1章で人間の不義・不正を糾弾した預言者だが、ユダの将来に希望を失っていない。彼の希望は徹頭徹尾「主」にある。それが「主の家・主の山、主のことば、主の光、主のみ顔、主の日」と言う表現に見られる。また、同じ表現の繰り返しに預言者の心情が伺える。
主のみ名が汚されているとき「主おひとりだけが高められる」と語るところに預言者の不屈な姿を見る。人は、時代の潮流には抗し得ないと考えがちである。これは、敗北主義ではないか。
世をあげて空しいものに頼むとき「鼻から息をする人間を頼るな」と、憚らずに宣言する知恵と勇気こそ、希望に導く預言者の真骨頂と言えよう。