イザヤ書13-23章

イザヤ13-23        諸国民に対する宣告



13-23章は、ユダとイスラエルの周辺の国々に対する裁きの宣言です。その原型は、預言者アモスに見られます(アモス1:3-2:16)この立場は、エレミヤ(46-51章)エゼキエル(25-32章)が継承しています。このような視点は、全世界がひとりの神の下にあると認識する世界観から生れます。

いつの時代も、世界は敵か味方かで色分けされてきた。今なお人類は一つの世界を求めつつ、達成し得ない。しかし、創造者が唯一なら、世界は一つであり、人間はみな兄弟ではないか。

預言者は、自分の国の行く末だけを案じる偏狭な愛国者ではない。預言者たちが自分の国に忠実であることは言うまでもないが“自分の国だけ栄えれば良い”という思想はない。自分の国民に悔い改めを求め、勝利に奢る強者にも警告を与える。以下、各章を瞥見したい。

13-14章はバビロンについて

バビロンは「主とその憤りの器」(13:4-5)として描かれているが、速やかに滅びる(13:17-19)バビロンの罪は、人間悪の最高の象徴として描かれています(14:4-15)

「暁の子、明けの明星」(ヘレル・ベン・シャーハル)という呼称は、類稀なものです。しかし、傲慢不遜な思いが芽生えて「私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう」(14:13-14、創世記3:5)と豪語する。古来、星はメシヤをも指す(民数記24:17、黙示録22:16)テルトリアヌスや大グレゴリウスは、この聖句にサタンの堕落の経緯を読み取ってきた(ルカ10:18)

バビロンは「神と等しく、神より上に、神不要」と憧れた。これは、サタンが堕落に誘う古典的・根源的な誘惑である。彼らは、最初の人々が陥った反逆の道を辿る。

バビロンは、サタン的支配を代表するものとして描かれている。エジプトやアッシリヤさえ悔い改めの機会が与えられると約束されているが(19:23、27:13)バビロンにはその言及が見当たらない。ヨハネの黙示録は、サタンの帝国をバビロンと呼んでいる(バビロン帝国が滅びて幾百年も経つのに)

15-16章はモアブについて

モアブは、アブラハムの親族ロトの子孫です(創世記19章)その滅亡は、一夜にして訪れると言われる。この民族の罪も「われわれはモアブの高ぶりを聞いた。彼は実に高慢だ。その誇りと高ぶりとおごり、その自慢話は正しくない」(16:6)と指摘されている。

その日、主の御心は「わたしのはらわたはモアブのために、わたしの内臓はキル・ヘレスのために立琴のようにわななく」(16:11、エレミヤ31:20)預言者は、神が断腸の思いをされるのを知る。罪に裁きが下ることは避けられない。預言者は裁きを宣告しながら、神の痛める御心を思う。

17章はダマスコについて

ダマスコはシリヤの都である。ここも悲惨な裁きを免れない。しかし、苦難を経て「その日、人は自分を造られた方に目を向け、その目はイスラエルの聖なる方を見、自分の手で造った祭壇に目を向けず、自分の指で造ったもの、アシェラ像や香の台を見もしない」(17:7-8)

ここには、異邦人が霊的な開眼をする日が待ち望まれている。預言者の目には、彼らが真の神を仰ぐ姿がほのかに見えている(北朝鮮に敵意を抱くだけでなく、執り成しができないだろうか)

18章はクシュについて

クシュはエチオピアと考えられるが、今日のエチオピアよりも広い領域を持っていたといわれる。昔、シェバ(クシュ)の女王がソロモンの名声を聞き及んで来訪したことがあった。その時、女王の感動は「私が国であなたの事績とあなたの知恵とについて聞き及んでおりましたことはほんとうでした。実は私は、自分で来て、自分の目で見るまでは、そのことを信じなかったのですが、驚いたことに、私にはその半分も知らされていなかったのです。あなたの知恵と繁栄は、私が聞いていたうわさよりはるかにまさっています・・・」(Ⅰ列王10:1-10)と。

ハイレセラシ皇帝は、自分がシェバの女王とソロモン王の末裔であることを憲法前文でうたった。(1974年、クーデターによって軍事政権、現在はエチオピア連邦民主共和国)

7節では「万軍の主の名のある所、シオンの山に、贈り物が運ばれて来る」という。

この表現は、Ⅰ列王10:10の「彼女は百二十タラントの金と、非常にたくさんのバルサム油と宝石とを王に贈った。シェバの女王がソロモン王に贈ったほどに多くのバルサム油は、二度とはいって来なかった」を想起させる。友好関係の回復か(アフリカで唯一のキリスト教国であった。使徒8:27)

19章はエジプトについて

エジプトは、ヤコブの子等が寄留した土地である。約束の地が飢饉で食物に飢えた時、神はイスラエルをエジプトの地で養われた。それは奴隷時代を偲ばせるが、因縁深い地である。

出エジプトの歴史的解放が余りに壮大なものなので、エジプトに対する敵意や誤解が残っている。しかし、客観的に見れば、エジプトの食物でヤコブの家は養われたのである。モーセは「エドム人を忌みきらってはならない。あなたの親類だからである。エジプト人を忌みきらってはならない。あなたはその国で、在留異国人であったからである」(申命記3:7)と諭している。

この土地について、預言者は「エジプト人はアッシリヤ人とともに主に仕える。その日、イスラエルはエジプトとアッシリヤと並んで、第三のものとなり、大地の真中で祝福を受ける」と語る。

また、万軍の主は「わたしの民エジプト、わたしの手でつくったアッシリヤ、わたしのものである民イスラエルに祝福があるように」と祝福される。

預言者ホセアの言葉を二箇所読んでみよう。

「その子をロ・ルハマと名づけよ。わたしはもう二度とイスラエルの家を愛することはなく、決して彼らを赦さないからだ・・・その子をロ・アミと名づけよ。あなたがたはわたしの民ではなく、わたしはあなたがたの神ではないからだ」(1:6、9)

「わたしは彼をわたしのために地にまき散らし『愛されない者』を愛し『わたしの民でない者』を『あなたはわたしの民』と言う。彼は『あなたは私の神』と言おう」(2:23)

20章はアッシリヤについて

預言者は先に、我が子の命名において苦難と希望のしるしとなった。ここでは、預言者自身がしるしとなる。それは「行って、あなたの腰の荒布を解き、あなたの足のはきものを脱げ」という命令に始まる「彼はそのようにし、裸になり、はだしで歩いた」

アッシリヤは獰猛な民族であったが、神はその対応に哀れみ深い。今、預言者を遣わして警告を与える。預言者ヨナが遣わされたのもアッシリヤであった(ヨナ1:2、ニネベはアッシリヤの都)

神が全世界に等しくあわれみ深いのは間違いないが、神の民がそれを受け入れるのは容易でない。殊に、イスラエルのように誇り高く、選びの民を自認する者はなおさらである。しかも、目下の関係は、脅迫者であり、略奪者である。

21章は海の荒野、ドマ、アラビヤについて

これも、バビロンの滅亡について語る「倒れた。バビロンは倒れた。その神々のすべての刻んだ像も地に打ち砕かれた」(21:9)

ドマは、ひたすら夜明け(光と解放の訪れ)を待ち望む「夜回りよ。今は夜の何時か。夜回りよ。今は夜の何時か」しかし、希望の訪れは遠い(21:11)

アラビヤも裁きを避けられない。

22章は幻の谷について

地理的には判明しない。

主は「泣け。悲しめ。頭を丸めて、荒布をまとえ」と悔い改めを促すが、絶望的な民は「飲めよ。食らえよ。どうせ、あすは死ぬのだから」と投げやりで、絶望的である。彼らは、希望を失うことによって、生きたまま既に死を味わっているのに等しい。

23章はツロについて

ツロはフェニキヤ人の都である。その要塞は難攻不落と言われた。文明をほこり、地中海貿易の優でもあった。アフリカに栄えたカルタゴは、フェニキヤ人の都市である。アルファベットも彼らの発明といわれる。

ヨハネ3:36「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる」みな罪人であるが、悔い改めの招きにあずかっている。