イザヤ書12章

イザヤ12             救いの泉



この12章は、新約聖書が語る信仰生活のあり方を簡潔に要約している。もちろん、新約聖書の言葉を用いているわけではない。しかし、福音の恩恵と感謝、その責務と確信を歌い上げている。状況は八方塞に見える中で、かくも明るく輝く歌が生まれとは驚嘆に値する。

1節、その日、あなたは言おう「主よ。感謝します。あなたは、私を怒られたのに、あなたの怒りは去り、私を慰めてくださいました」

その日とは、虐げられていた者たちが待ち望んでいた解放の日である。国土が蹂躙され、恐れと悲しみに打ちひしがれていた者が、慰められ癒される日である。

人々は、目前に迫る敵襲を恐れているが、問題はそんなに単純ではない。ユダは不信仰・不従順のために神の怒りの下に置かれていたのである。その認識が欠如しているので容易に悔い改めようとはしない。ことの本質を見極めることがどんなに大切なことか考えさせられる。神の怒りを見過ごしてはならない(ヨハネ3:36、エペソ2:3)

しかし、今や恐れは過ぎ去った。神が怒りを取り除かれたからである。感謝をするほかない。この感謝は、神の怒りと裁きの下にあった罪人が赦され、神と和解し、癒され、慰められていることから湧き上がる。換言すれば、贖われた者の心に溢れてくる感謝である。

なぜ、神の怒りは去ったのか。詩人は「主は、絶えず争ってはおられない。いつまでも、怒ってはおられない・・・」(詩篇103:9-14)と詠う。

主イエスを知る私たちには、もっと明白である。聖なる(愛と義)神の義が、御子イエスの贖罪によって満たされたなら、愛だけが残る。パウロも「慰めに満ちた神」(Ⅱコリント1:3-4)と呼ぶ。

ここでイザヤは、贖いという言葉を用いてこそいないが、贖われることを確信していた。ここまで福音を理解し、大胆に先取りしていることに驚きを禁じえない。



2節「見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。ヤハ、主は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた」

「見よ」とは、発見の驚きと喜を表わしている。絶望の淵で溺れかかっていた者は、救いに与って感動しないだろうか。これは歓喜の賛美である。状況は異なるが、ダビデは周囲の目を忘れて、神の御前に感謝を表わし力の限り踊ったことがある(Ⅱサムエル6:14、聖歌232)

神が最後の砦であり逃れ場であるのに、神を恐れなければならないとするなら行き場がない。エデンの園を追放されたアダムとイブの絶望感を、不信仰者は今も継承している。私たちもその一人であった。しかし、神を恐れていた者が、神の翼の下に匿われる。恐れは去り歓喜が湧き上がる。



3節「あなたがたは喜びながら救いの泉から水を汲む」

古来、泉や井戸はロマンスの生れる場所(創世記29:9-11、出エジプト2:16-17)であるとともに、争いの場でもあった(創世記26:17-21)私たちにも“我田引水”という諺がある。

人体の四分の三が水である事を思えば、水を求め水を争うのは自然の成り行きであろう。しかし、争って得た水がどれ程のものだろうか。海水は飲めば飲むほど渇きを募らせる。大海原で、人は渇くのである。人は濁り水の如きものの為に争い、渇きを増していないだろうか。

主イエスは、しばしば水のたとえでお語りになった。

「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」(ヨハネ4:13-14)

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」(ヨハネ7:37-38)

私たちは、主の無限の泉から汲んで飲む。詩人も先刻承知している「私の泉はことごとく、あなたにある」(詩篇87:7)と。

4節、その日、あなたがたは言う「主に感謝せよ。その御名を呼び求めよ。そのみわざを、国々の民の中に知らせよ。御名があがめられていることを語り告げよ」

この感謝は、1節の感謝とは微妙にニュアンスが違う。先の言葉は自分を奮い立たせる内向きの呼びかけであったが、ここでは、周囲の者たちに感謝することを促している。感謝を他者と共有する喜びであり、感謝が全世界に波及することを夢見ている。

「その御名を呼び求めよ」(創世記4:26)

主の御名を呼ぶ状況は様々であろう(嬉しい時、悲しい時・・・)が、それは主への祈りである。ここでは、感謝の祈りである。感謝のあるところには恵みにあふれた力がある。恵みに感謝する者は、新しい行動に駆り立てられる。

「その御業を、国々の民の中に知らせよ」

これは、全世界に神の栄光を語ることである。今日的な表現を用いれば、世界宣教の勧めではないか。実際には“悪事、千里を走る”と言われ、良い知らせはなかなか聞えてこない。

それ故、イザヤは後に「良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ『あなたの神が王となる』とシオンに言う者の足は」(イザヤ52:7)と記した。

この言葉は、パウロが宣教の重要さを語ったときに引用しているので、文脈を確認しておきたい。「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる・・・しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう」(ローマ10:13-15)

遣わされて、忠実に勤めを果たす者がいて、宣教は全世界に広がったのである。パウロは、宣教を負債ととらえた。感謝の証でもある(ロマ1:14-17)



5節「主をほめ歌え。主はすばらしいことをされた。これを、全世界に知らせよ」

主はすばらしい。全世界に知らせよ

神を形容するのに、私たちの言葉はいつも不十分です。正しく正確に表現しようとするほど、無限の神を制限する結果となる。結局、単純な言葉に万感を込めて讃えることが最善で、究極の表現ではないか「主はすばらしい」(不思議、善、大いなる方・・・)



6節「シオンに住む者。大声をあげて、喜び歌え。イスラエルの聖なる方は、あなたの中におられる、大いなる方」

やがて、エルサレムは蹂躪されるであろう。しかし、その先に目を転じれば、逆転が見えてくる。再び、エルサレムに居住を許す神の恵みをたたえよ。

「イスラエルの聖なる方は、あなたの中におられる」

これは、主イエスの言葉の先取りである。主は「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいる」(マタイ18:20)と言われた。また、昇天の際も「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」(マタイ28:20)と約束された。

イザヤには、既にインマヌエル預言もある。神の現臨を恐れず受け止められることが素晴らしい。後に、預言者エゼキエルも神の神殿を思い描きながら「主はここにおられる」(エゼキエル48:35)と、48章に亘る長い預言の言葉を結んだ。

「あなたの中におられる」神。神はその民の汚れと背信に愛想をつかしてはおられない。

預言者イザヤは、神の聖性を深く体験した(6:1-5)その時、彼の思いは恐れに圧倒されていた。しかし、神を知り、神を愛して恐れから解放された。聖なる神の臨在をかくも大胆に表現するとは驚嘆に値する。

「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです」(Ⅰヨハネ4:18)