イザヤ書11章

イザヤ11           メシヤとその支配



預言者の目には、メシヤの姿がいよいよ鮮やかに見えてくる。苦難が厳しければ、救済もさらに大きなものでなければならないのは道理である。イザヤは、ユダの霊的腐敗による国家滅亡の危機という瀬戸際に立って、神への期待をいよいよ募らせる。この章は、預言者信仰の結晶を見せる。

Ⅰメシヤ予言(1-5)

「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ」

“エッサイの根より・・・”と歌いだす賛美歌96番には、美しくも厳かな響きがある。しかし、誤解してはならない。エッサイは、ダビデ王の父の名前であるが、ダビデの義父・サウロ王とその取り巻き連中が口にする時は、さながら蔑称のような扱いを受けてきた(Ⅰサムエル20:27、30、22:7,9、25:10、Ⅱサムエル20:1、Ⅰ列王12:16)

エッサイ自身は、ユダ部族に属するベツレヘムの富裕な農夫であり、侮られなければならない理由はない(エッサイの祖父ボアズはベツレヘムの有力者であったが、ボアズの母はエリコの遊女ラハブであった。ルツ記2:1、12、4:21、マタイ1:5)

サウロ王は、始めの頃、エッサイの子ダビデを公私共に重用した。しかし、ダビデが名声を博するようになると、妬み深く了見が狭いサウロ王はダビデを敵視した。以後、サウロはダビデを「エッサイの子」と呼んで辱めた(どこの馬の骨とも知れない下賎な出自の意味で用いた)

今、預言者は、ユダが根こそぎ引き抜かれるような悲惨な状況を脳裏に描きながら、歴史的蔑称である「エッサイ」を逆手にとって、切り株が残る、ひこばえが生えると主張する(ヨブ14:7-9)

今まで「残りの者」の姿は漠然としていたが、ここに至ってその輪郭が見えてきたと言えよう。

「その上に、主の霊がとどまる」

旧約時代は、イエス様が教えてくださったように、助け主・真理の御霊として聖霊を知ることは明白ではなかった。しかし、神の霊に対する畏敬は共有していた。イザヤも、来るべきメシヤは主の霊に満ちた方であると認識している。

実際、人となられた神の子イエス様の生涯は、聖霊の臨在に彩られている。誕生(ルカ1:35)洗礼(ルカ3:22)試練(ルカ4:1,14)などに際して、聖霊は鮮やかに臨在しておられた。

主の霊は「知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である」と説明されている。まさに、主イエスと共におられ、私たちの助け主として約束された聖霊である。

聖霊について以下を引用したい。聖霊は能力の霊(ゼカリヤ4:6)真理の霊(ヨハネ16:13)主を知る知識・信仰告白に導かれる霊(Ⅰコリント2:10-11、12:3)など、枚挙にいとまがない。

その裁きは、正義と公正を基調として弱者を心に留める。うわべや外見に欺かれることはない。

Ⅱメシヤのもたらす平和(6-9)

メシヤがもたらす統治は平和として語られる。今なお世界中から戦争のニュースがもたらされる。私たちは平和な日本にあって、戦時下の状況の凄まじさを見聞きするだけで疲れ果てる思いを抱く。自分の国が戦場と化す悲劇を経験している者たちの平和志向は遙に切実に違いない。預言者は、平和的共存をファンタジスティックに描く。

「狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し・・・」

ここでは、肉食動物と草食動物が共存している。考えられない光景である。ここでは、力の横暴・支配が排除されている。さらに言えば、力による支配の否定ではないか(人間の営みは、弱い隣人を搾取することから始まり、国々は歴史的に覇権の道を歩んできた)

乳飲み子を傷つけるものもない(この頃よく耳にするニュースは、父あるいは母親が幼子を殴り、食物を与えず死に至らせる事件・・・恐るべきは、狼や毒蛇に非ず)

このような楽園を夢見る預言者は、堕落以前のエデンの園を思い描いているのであろう。それは、世界が贖われなくては望むべくもない。すると、預言者は贖われることを先取りしていると言える。

それは、換言するなら「主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たす」時に可能となる。人は、主を知る事により、自分の分際を弁え、他者の尊厳をも認めて受入れ、手前勝手で横暴な振る舞いを慎むようになる。主を知る事は正しく生きる道を見いだすことであり、救いに至る道でもある(ヨハネ17:3)

人間がいかに英知を極めてみても、自分自身の創造者に対して無知なのは、致命的な欠陥であり、悲劇である。主を知ることを切に求めよう(ホセア6:3)

Ⅲ待たれる「その日」(10-16)

「エッサイの根は、国々の民の旗として立ち・・・」

預言者が見ている将来の救いは、具体的には国家の再建という形を取っている。国家存亡の危機に臨んで、愛国的な預言者として当然である(後に、その理解は普遍的なものへと深められる)

残念ながら、後のイスラエルは、預言を自分たちに都合の良いように理解した。それが、イエス様の時代にも見られたメシヤ理解である。主の弟子たちでさえも「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか」(使徒の働き1:6)と主に訊ねた。

主イエスは、その時、エルサレムから始まって地の果てまで視野に置いておられた。それは、覇権主義ではない「主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たす」ためである。そして、今日、地の果でも神の御名は崇められている。私たちもその一員である。

「主は再び御手を伸ばし、ご自分の民の残りを買い取られる」

その日主は「アッシリヤ、エジプト、パテロス、クシュ、エラム、シヌアル、ハマテ、海の島々」から捕らわれ人を集められる(13-23章の裁きに先行する)

「買い取られる」という表現は、力づくで回復する印象を排除する。代価を払って買い取るのであるから、まさに贖いである。創造者なる神は、贖い主なる神でもある。神は、私たちに二重の所有権を有しておられると言える。

神はその民を惜しまれる。また、残すときにも気まぐれではない。主権の濫用もなさらない。御自身の犠牲において代価を払う。み子の贖いが仄かに見えてくる。

「エフライムはユダをねたまず、ユダもエフライムを敵としない」

兄弟部族が反目している状況からの解放が期待される。預言者は、人の心に奥深く座している嫉みの感情を直視している。これは万人のものだが、大概の人はこれを恥じて心に深く隠す。余程の愚か者でなければ、嫉みの感情をさらけ出すことはない。巧みに覆い隠すが、どんなに深く隠しても、消え去るわけではない。中にあるものは外に出るチャンスを窺う。

イスラエルの賢者は「穏やかな心は、からだのいのち。激しい思い(英語訳は嫉みとする)は骨をむしばむ」(箴言14:30)と警告してきた。預言者の洞察力というべきか。

14-16節には、世界の果てからエルサレムに帰ってくる様子が描かれている。1948年、シオニズム運動が結実してイスラエルの建国がなり、イスラエル人たちが帰ってくる様子を先取りしているような描写である。

残念ながら、イスラエルの建国はパレスチナに新たな火種を残し、パレスチナ難民の問題を引き起こしている。イスラエルもアラブも創造者のいとし子であることに目を留めるなら、世界はあげて、両者の平和的共存に知恵を絞り、愛を注がなければならないのではないか。

いつの時代にも過激な扇動者たちはいる。しかし、平和を求める人々も少なくはない。主イエスが教えて下さった祈りは「御心が天で行なわれるように、地でもなりますように」であった。



イザヤは、後に「わたしが事を行えば、だれがそれを戻しえよう」(43:13)との主の声を聞く。事を行なうのは神であり、信じて期待するのは私たちの責任である。望みを持って主に仕えたい。気がかりなのは、私たちの期待が小さすぎるのではないか(マルコ6:5-6)

私たちの神は「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです」(ヘブル13:8)と言われる、永遠の神である。