イザヤ書10章

イザヤ10             汚辱と希望



4節の「御怒りは去らず、なおも、御手は伸ばされている」という言葉は、前章との連続関係を想起させる。それは、神の裁きを避けることのできない状況が続いていることを物語る。

神の「御怒り」は、いつ収まるのだろうか。救いと解放の日は、本当に来るのだろうか。預言者はその日の到来を確信している。しかし、未だ、その気配は見えない。救いが現実になるまでには、まだ通り抜けなければならない試練の日々がある。

33-34節に至って、神の介入を伝える激しい言葉が吐き出される「見よ。万軍の主、主が恐ろしい勢いで枝を切り払う。たけの高いものは切り落とされ、そびえたものは低くされる。主は林の茂みを斧で切り落とし、レバノンは力強い方によって倒される」これが、やがて11章の展望を導き出す。

Ⅰ御怒りは去らず(1-4)

神の「御怒り」を引き起こすものは何か。いくらでも数え上げる事ができる(みな根底で繋がる)預言者は、これに極めて日常的・具体的な不正の現実を例証した。それが1、2節に見られる。

「不義のおきてを制定する者、わざわいを引き起こす判決を書いている者たち。彼らは、寄るべのない者の正しい訴えを退け、わたしの民のうちの悩む者の権利をかすめ、やもめを自分のとりこにし、みなしごたちをかすめ奪っている」

預言者は、初めに人々の不信仰を糾弾してきた。不信仰の結果、神を恐れない人々は速やかに自己中心な世界を作り出す。ここでは、立法も司法も行政も腐敗していることが咎められている。

この言葉は、今日でもそのまま通用するほど現実味を帯びている(今日、経済格差を憂える声が大きい。法律の改定は、大義名分はともあれ、弱者にしわ寄せを避けない)

十戒の第一条は、偶像礼拝を禁じている。人は罪に順位を付けたがる(ユダヤ人は、偶像礼拝と殺人と姦淫を三大悪と考えた)しかし、イエス様は、十戒の精神は神を愛し隣人を愛することだと認められた(マタイ22:35-40、申命記6:5)

そして、神への愛は極めて具体的に実証されることを、ヨハネは知っていた(Ⅰヨハネ4:20-21)正義と公平の権威を委ねられた為政者たちは、天下国家を論じながら、巧みに聴衆を欺く詭弁を弄することがある。それが、自分の職責を等閑にする正当な言い訳だと考える。

しかし、神と預言者を欺くことは出来ない。慈悲深い神の目は「寄るべのない者、悩む者、やもめ、みなしご」を、片時も見過ごされることはない。

「刑罰の日、遠くからあらしが来るときに、あなたがたはどうするのか」

備えがない。イエス様は、不遇の日に備えるように、奇妙なたとえ話を語られた(ルカ16:9-10)忠実さが試されるとき、権力の尊大、富の傲慢に気を付けたい。神が生涯の決算報告を求める時が、やがて必ず訪れる(マタイ25:31-46)主が来られる時、地上に信仰が見られるだろうか(ルカ18:8)

Ⅱ裁きの器アッシリヤ(5-19)

「ああ。アッシリヤ、わたしの怒りの杖」

預言者の世界観は“全世界は神の主権のもとにある”と認識する。従がって、アッシリヤ軍の侵攻を神の摂理、神の裁きと見て躊躇わない(このような発言は、通常は国賊扱いされる)

預言者の世界観は正しい。しかし、預言者の人間性はどんなに悩み苦しんだことか。誰よりも愛国的な彼らが、祖国の蹂躙されるのを、神の怒りと受け止めるとは。

因みに、預言者ヨナは、アッシリヤの首都ニネベの救いを望まないで、主の御声に背き逃亡を図った(ヨナ1:1-3)それにも拘わらず、ヨナはその使命を担わされた。彼は、その地が悔い改めて赦されるのを見て、不快感を覚えた(3:6-4:1)いかにも人間らしいヨナ。

イザヤのような世界観を、すべての者が認識していた訳ではない。そして、やがて征服者であるアッシリヤも、己の無知と傲慢が明らかにされる。

「彼自身はそうとは思わず、彼の心もそうは考えない。彼の心にあるのは、滅ぼすこと、多くの国々を断ち滅ぼすことだ」

勝利の美酒に酔う者たちは、己の力を誇る。何もかも、思うままに出来るかのような錯覚を抱く。彼らは、怒りに任せて殺戮、凌辱、略奪を繰り返す(勝者は奢りで身を滅ぼす・・・タキトゥス)

アッシリヤ軍は、神に用いられていることを理解しない。国々を滅ぼし、支配する国土を広げ、その名を轟かすことだけが関心事となる。従がって、その前方には破局が待ち構えている。

彼らの愚かさの極みは、エルサレムに勝利して、自分の神がイスラエルの神に勝利したと考えたことにある。彼らの神概念が未熟だからである。

聖書の神は「あなたの敵が倒れるとき、喜んではならない。彼がつまずくとき、あなたは心から楽しんではならない」(箴言24:17)と命じる。神はイスラエル・ユダの神であるより先に、全世界の創造者である。私の仇も、神の目から見れば、ご自分の被造物である。

「主はシオンの山・・・」

13節は“私は”で彩られている(連想させられるのはルカ12:17-19)彼の眼中には、自分の成果しかない。アッシリヤは、自分を全能者の如く誇り、神に栄光を帰する事がない。自分を神と等しくする者はわざわいである。速やかに、サタンの手の中に落ちる。

「斧は、それを使って切る人に向かって高ぶることができようか。のこぎりは、それをひく人に向かっておごることができようか。それは棒が、それを振り上げる人を動かし、杖が、木でない人を持ち上げるようなものではないか」(イザヤ29:16、エレミヤ18:1-6)

これは、預言者の観察から出た独り言のように聞える。造られた者が、自分の分限を知ることは大切である。そこから逸脱するならば、存在の意味さえも失う。神は侮られるような方ではない。

Ⅲイスラエルの残りの者(20-34)

「その日になると、イスラエルの残りの者、ヤコブの家ののがれた者は・・・」

神の人イザヤは、この日に望みを託して待ちわびて来た。同時に、どんなに過酷な裁きを受け、略奪や虐殺が繰り返されようが、必ず残りの者がいることは、議論の前提になっている。それ故、20,21,22節で、残りの者の立ち返ることを語る。

その時、響き渡る主の声は「シオンに住むわたしの民よ。アッシリヤを恐れるな。彼がむちであなたを打ち、エジプトがしたように杖をあなたに振り上げても。もうしばらくすれば、憤りは終わり、わたしの怒りが彼らを滅ぼしてしまうから」

神の民は、恐れが見当違いであったことを認めなければならない。預言者は「もうしばらくすれば」と言う。しばらくの忍耐が求められている。ヘブル書の著者が「あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない」(10:36-37、黙示6:11)と語るとき、迫害時代に苦しんでいた信者たちは、先祖たちの苦難の歴史を思い返し、勇気を奮い立たせたことであろう。

「ミデアンを打ったときのように」(士師6:1、7:15-21)

士師時代、イスラエルの民は“のどもと過ぎれば熱さを忘れる”ことを繰り返していた。その頃、ミデアンのわざわいを取り除くために、主はギデオンを用いられた。それは、少数で多数の敵を追い払った記念として語り継がれてきた。

「エジプトにしたように」(出エジプト14:26-28)

エジプトに関しては、様々なことが思い出されるが、これは紅海を渡った時のことを指している。同様に、神はユダの重荷となっているアッシリヤを取り除いて下さると励ます(37:36-38)

28-32節は、相変わらず猛威を振るうアッシリヤの描写で埋められているが、それもしばらくのことである。

「見よ。万軍の主、主が・・・」

アッシリヤは、イスラエルとユダに怒りの拳を振り上げているが、やがて事態は急転する。万軍の主は、拳に替えて斧を振るう「主が恐ろしい勢いで枝を切り払う。たけの高いものは切り落とされ、そびえたものは低くされる。主は林の茂みを斧で切り落とし、レバノンは力強い方によって倒される」