イザヤ書1章

イザヤ01  序章 ユダの罪深い現状

Ⅰ序詞(1:1-3)
イザヤ書の著者問題には様々な見解がある。その主張は十人十色、統一を見る事はできない。私が大切にしているのは、旧約聖書を伝えたユダヤ人たちが、66章を一つの書として理解し(受け入れ)て来たと言う事実である。いろいろな人が関与したかもしれないが、それは一つのメッセージを伝えようとしている。これを見誤れば、詳細について論じることは無意味である(岩波の広辞苑は、何度改版しても“新村出編”である。新村は故人、現在は第五版)
私は、イザヤ書の統一性を確信し、1章1節を66章全体に係わるものと理解し、また第一章をイザヤ書66章全体の序章と考える。
アモツの子イザヤは貴族階級に属していたと言われる。彼は、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの四代にわたり60年の長きに亘る預言者活動をした。おそらく、ウジヤの失脚によりヨタムの摂政時代から始まって、ヒゼキヤの子マナセの初期までと考えられる。
青年イザヤにとって、ウジヤ王の追放(Ⅱ歴代26:16-22)は、晴天の霹靂だったでしょう。ウジヤは英邁な王であったが、やがて高ぶり、心が主から離れ、滅亡の道を辿った。潔癖な若者には信じられない出来事であるが、事実は小説よりも奇なのである。

●イザヤは主の声を聞く(2-3
「天よ、聞け。地も耳を傾けよ」(申命記4:26、30:19、31:28、32:1)天と地を証人として語る。それは、イスラエルの無知と忘恩を告発する(「悔い改めよ、天の御国は近づいた。マタイ3:2」と語り始めたバプテスマのヨハネを想起する)
ユダに与えられた歴史的な神の恩寵は明らかであるが、その現実は忘恩の極みである。ユダは、諸国の中からアブラハムを選ばれた神の慈愛を忘れられたのだろうか。信仰の父アブラハムは、かつて「さすらいのアラム人」(申命記26:5)にすぎなかった。モーセは、イスラエルをエジプトの奴隷の境遇から導き出した主を、法の基本に据えた(言わば憲法前文、出エジプト20:2)
牛やロバでも飼い主を知っている。しかし、頑迷なイスラエルは悟らない(放蕩息子そのまま)

●ユダの罪深さ(1:4-9)
ユダは国家的な罪業を重ね、市民的無責任な罪を繰り返し、歴史的罪科を継承して、その名はまさに“堕落の子ら”と言うべきものに成り下がった。
彼らの罪は「主を捨て、イスラエルの聖なる方を侮り、背を向けて離れ去った」ことにある。これは“もはや彼らが主の名を唱えない”ということではない。祭壇はあり、宗教的行事は厳然として行なわれている。しかし「心を尽くし、精神を尽くし・・・」と言うものではない。形式は残っているが、心が失われたのである。このような状態が一番危険である。とにかく形が存在するので、言い訳が出来る。自分を欺き、自己満足に陥るからである。
イザヤは、罪を身体的病気の比喩で語る。罪が蔓延している状態は、全身にがん細胞が転移しているに等しい。完膚なきまでと言うが「頭・・・心臓・・・足の裏から頭まで」(人体の比喩で、命令系統も生命線も、足の裏まで)全身冒されている。もはや癒す術がないほど。
罪は国土を疲弊させ、荒廃させる。国境は侵され、町は焼かれ、畑は略奪される。ソドム・ゴモラもかくの如きか(イザヤの生存中に、イスラエルはアッシリアによって崩壊させられる)
しかし、万軍の主が「少しの生き残りの者」を残される(哀歌3:22)
預言者は、祖国と同胞が敗北と汚辱に塗れる姿を先取りしている(それは避けられない)しかし、彼は、神が必ず再起させてくださることを信じて疑わない。それが「少しの生き残りの者」である。この言葉は、神の経綸を知る重要なキーワードとなる。イザヤからエレミヤへと受け継がれて、不動の確信となる。

●イザヤは、ユダの偽善的礼拝を糾弾する(1:10-15)
預言者は「聞け。ソドムの首領たち。主のことばを。耳を傾けよ。ゴモラの民」と呼びかける。
前節では、ソドムは類比として用いられた。しかし、預言者はこの節で、ユダの長老達・指導者達をソドム・ゴモラの首領と同列とみなしている。
多くのいけにえは無益。主は、全焼の生贄、脂肪、血を喜ばない(ミカ6:6-8)それに加えて、痛烈な言葉が続く「あなたがたは、わたしに会いに出て来るが、だれが、わたしの庭を踏みつけよ、とあなたがたに求めたのか・・・新月の祭りと安息日――会合の召集、不義と、きよめの集会、これにわたしは耐えられない・・・あなたがたの新月の祭りや例祭を、わたしの心は憎む。それはわたしの重荷となり、わたしは負うのに疲れ果てた・・・どんなに祈りを増し加えても、聞くことはない」と。神殿の出入りは、相変わらず盛況らしい。しかし、すでに敬虔は失われ、庭を踏み荒らしているのとなんら変わる所が無い。

●悔い改めへの招き(1:16-20)
「身をきよめよ・・・悪を取り除き・・・善を行い・・・公平な裁きをせよ」
もはや、弁解の余地がないほど腐れ果てている。祈りさえ聞いてもらえない。しかし、再生の希望が無いわけではない。悔い改めの招きは単純明解である。仰々しい生贄ではなく、日常の細やかな善行が求められている(人は行為によって救われるのではないが、善を求めることが信仰に道を開く)
バプテスマのヨハネが群集に悔い改めを求めた時、それは極めて具体的であった。曰く「下着を二枚持っている者は、一つも持たない者に分けなさい。食べ物を持っている者も、そうしなさい・・・決められたもの以上には、何も取り立ててはいけません・・・だれからも、力ずくで金をゆすったり、無実の者を責めたりしてはいけません。自分の給料で満足しなさい」(ルカ2:10-14)
「さあ、来たれ。論じ合おう」(43:26)
これは、罪について、有罪か無罪かを論じる議場への招きではない。預言者は既に罪を断罪している(有罪判決が宣告されている)罪人には弁解の余地が無い。
それでは、いったい何を論じると言うのか。これは言い訳の場ではない。預言者が主を代弁する。
「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。もし喜んで聞こうとするなら、あなたがたは、この国の良い物を食べることができる。しかし、もし拒み、そむくなら、あなたがたは剣にのまれる」
これは、契約が相互的な一面を持ちながら、その実、全く恩恵的(一方的)であるように、論じ合う場は恩恵である。人間の側から弁解したり要求する場ではなく、恵み深い言葉を聞き、ひたすら応答することが最善である。
罪の赦しの表現は、この他にも様々ある
「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない」(43:25)
「わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ」(44:22)
しかし、預言者自身、未だ罪がどのようにして贖われるのかを知らない(53章)

●どうして(1:21-23)人はなぜ罪を犯すのか。
罪にどんな魅力があるのか。私たちは罪がどのようにして人の間に入ってきたかを知っている。アダムは、楽園で神の言葉(警告、或いは戒め)を拒否した。それは、神の主権を拒むことであった。放蕩息子は、父の財産には関心があったが、共に住むことは喜ばなかった(ルカ15章)
罪は破壊的で絶望的である(マルコ5:3-5)罪は徹底的に自己本位であるが、その結果は、他者を傷つけるだけで終らない。われとわが身を滅ぼす。罪は、悪魔の存在を否定しては説明がつかない。
すでに罪は弁解の余地が無い。待たなければならないのは裁きである。しかし、十字架の先に復活を仰ぐように、裁きの後の展開を先取りする。
「おまえは正義の町、忠信な都と呼ばれよう。シオンは公正によって贖われ、その町の悔い改める者は正義によって贖われる」このような不屈な希望を抱くとは、さすがにアブラハムの子らである。アブラハムはソドムの現実を知っていても怯まず、ロトのために執り成した。
この世界は力が支配するように見える。それ故、強者は傲慢になるが、力の通用しない場がある。聖なる神の御前である。
神の裁き「これを消す者がいない」(14:27、43:13)