創世記9章

創世記9章          虹の契約とその後

Ⅰ新しい秩序

「神はノアと、その息子たちを祝福して、彼らに仰せられた『生めよ、ふえよ、地に満ちよ』」と。洪水後に神が与えてくださったこの祝福は、世界が創造された時の祝福(1:28)と寸分違わぬものであるが、何もかも失った後に与えられた祝福であり、勇気を奮い立たせられたことであろう。

「生きて動いているものはみな、あなたがたの食物である。緑の草と同じように、すべてのものをあなたがたに与えた」という言葉は、肉食を許容している。

おそらく、人はそれ以前から肉食をしていたと考えられるが、これ以後、神の許しの下で食生活の秩序は変わった。これは、許容であって命令ではない。今日も菜食主義を貫く人たちがいる。それは健康的な生活であることに同意するが、洪水後の世界で菜食を美化するのは無益ではないか。少なくとも、禁欲的なものであってはならない。

人は神の許しを得て肉食をするのだが、食物連鎖は生物の厳粛な営みである。ここで、血に対する厳格な教えが語られているのは、肉食許容と深い関係を持っているのではないか。

「肉は、そのいのちである血のあるままで食べてはならない」

血は命の象徴である。それ故、肉食は許容されたが、血は禁じられている。注意深く血を抜く作業工程において、人はいのちあるものを殺して食べて生きることを考えさせられたのであろう。これは後の律法にも繰り返されている(レビ7:26-27)が、祭儀のためよりも生命尊重の思想が先行していると考える。

血を汚れと考える文化があるが、聖書の教えは、本来血の尊厳を語っている(祭儀的な意味で汚れと考える場面はある、出産やメンスに関して・レビ12:2-、15:20-。しかし、血だけが贖いを可能にすることを銘記しなければならない・レビ6:30,16:27、ヘブル12:24)

エルサレム教会は、異邦人教会と論争をした時、伝統的な割礼の義務を免除したが、血の問題は譲歩しなかった(使徒15:20,29)

ものみの塔の輸血拒否には聖書的根拠はない。私見であるが、輸血は他者を生かすものであって、極めて福音的ではないか(Ⅰヨハネ1:7)もちろん、彼らの個人的な決断を妨げる権利はないが、彼らが他者にそれを求めることは赦されないと思う(同様のことは臓器移植などにも言える)

ここは、肉食のために家畜の屠殺が行なわれる場面であるが、聖書はさらに踏み込んで殺人禁止を厳命している。おそらく、動物の血を流すことが日常的になる時、その隣に他人の血を流す行為が待ち受けているからであろう(流血感覚が麻痺する。少年少女の凶悪犯罪が、ネコやウサギ、小鳥などの殺傷に始まっていることは周知の通りである)

“なぜ、殺してはいけないの”と問う者たちがいる。大江健三郎氏は“いけないからいけないのだ”と書いていたが、説得力に欠ける。日常の生活では、競争が是認され、弱肉強食の世界が作り出されている。物言えぬ胎児は殺され、法律はこれを是認しているではないか。

生命の尊厳に中途半端な立場はあり得ない。自然進化の結果なら、適者生存に譲らなければならない。しかし、生命が神のかたちに似せて神が造られたものであるなら、生命は神のものである。誰もこれを私物化してはならないし、他人を傷つけてもならない。いのちの代価は誰も払うことができないのであるから(キリストの贖罪が求められる所以である)

Ⅱ契約を立てる(クーム・ハッベリース)

「さあ、わたしはわたしの契約を立てよう。あなたがたと、そしてあなたがたの後の子孫と。また、あなたがたといっしょにいるすべての生き物と・・・」

神と契約を立てる当事者はノアと息子たちである。しかし、この契約は、妻たちはもちろん、未だ存在しない後の子孫を包含している。そればかりでなく、物言わぬすべての生き物も対象とされている。これこそ永遠の契約と言われる所以である。

後の子孫は、当然のことながら父祖たちとは別人格である。しかし、彼らはまさしく先祖たちの分身ではないか(ヘブル7:9-10)別である以前に、一つの生命を共有しているのではないか(アブラハムに与えられた、割礼を伴う契約もしかり)

人は、後の子孫ばかりでなく、全ての生き物の代理者として神の前に立つ者である。それは、人に自らの生き方(自然世界との関係、責任と秩序の維持)を考慮させる筈である。これは、人が代表権を持つ万物の霊長であって、人間本意にことを運んで良いということではない。人は、創造者の前に立たされて、世界の管理責任を問われているのである。

主イエスは「二羽のすずめは一アサリオンで売られているではないか。しかもあなたがたの父の許しがなければ、その一羽も地に落ちることはない」(マタイ10:29)と教えておられる。人間は大地と大気と海の恩恵に生かされているのに、なんと傲慢不遜なものであるか内省させられる。

「わたしが代々永遠にわたって結ぶ契約のしるしは、これである。わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる」

私たちは、虹の物理学的な理由を理解することができる。それはそれとして、虹の美しさに感嘆する。古代の人々にとって、雨の後に現れる虹の美しさは、いかにも契約のしるしに相応しかったであろう(透明の光が、豊かな美の調和から生まれ、それが屈折すると美しいものと・・・)

なんとも美しく優しい契約の調べではないか。洪水後も雨は繰り返し降り注いだ。人は、雨雲を見雨足の音を聞くたびに、洪水の災禍を恐れたであろう。そこへ差し伸べられた慰めが虹である。

Ⅲノアの家族

「ノアの息子たちは、セム、ハム、ヤペテであった。ハムはカナンの父である。この三人がノアの息子で、彼らから全世界の民は分かれ出た」

その分布は別紙の地図を参照されたい。

「ノアは、ぶどう畑を作り始めた農夫であった」大地が耕され実りを生じた初穂といえるだろう。先にオリーブの若葉に言及があった(8:11)が、ぶどうについては最初の記述である。以来、イスラエルはぶどうを楽しんだ。詩篇には「主は家畜のために草を、また、人に役立つ植物を生えさせられます。人が地から食物を得るために。また、人の心を喜ばせるぶどう酒をも。油によるよりも顔をつややかにするために」(詩104:14-15)と詠う。

パウロはテモテの健康を案じて「これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、たびたび起こる病気のためにも、少量のぶどう酒を用いなさい」と勧告する(Ⅰテモテ5:23)イスラエルの諺は“ぶどう酒のない所に喜びはない”と言う。しかし、比喩ではあるが、預言者エゼキエルのぶどうの木描写は辛辣である「ぶどうの木は・・・その木を使って何かを作るためにその木は切り出されるだろうか。それとも、あらゆる器具を掛けるためにこれを使って木かぎを作るだろうか・・・それが完全なときでも、何も作れない」(エゼキエル15:2-5)と。そのぶどうの木に、主は美味を実らせた。

「ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた」(創世記26:8)

泥酔を戒めることはできるが(エペソ5:18)飲んで酔って自分の天幕内で裸になったことを責めることはできないだろう。これに対する息子たちの行為の違いは何か。

これは、セム、ヤぺテと、好奇心旺盛なハムの行動が対比されているだけだろうか。慎み深さや礼節の欠如はあきらかであるが、それだけでノアは逆上して呪いの言葉を発したのか。

24節の「末の息子が自分にしたこと」に関しては議論がある。

或る者はハムの男色を示唆する。そこまでいわなくても辱しめた事実は推測されるであろう。ハムの行為が理由で「のろわれよ。カナン」と宣告されている(この聖句の手前勝手な理解は、アフリカ人を奴隷として使用する行為を正当化してきた)

この記述は、モーセがハムの子孫としてのカナン侵略を前にして、カナン人の間で行なわれていた性的な乱脈(男色など)などを徹底的に排除したことと関係があると考えられる。

見る、或いは知るという表現は婉曲な意味を持つことを既に述べた。レビ20:17(レビ18:6-8)では、近親相姦を意味する。これが、カナンの道徳的退廃ぶりであった。