創世記8章

創世記8章        箱舟を出て祭壇を築く

災害のたびに、避難生活を余儀なくされる人々がいる。今日では、素早く仮設住居が用意され、救援物資が届けられる。それでも、プライバシーを奪われた避難生活は、肉体ばかりでなく精神をも蝕む。ノアの家族にとっても“箱舟の中は安全だった”と片付けるわけにはいくまい。1年と10日間は(6:11と8:14)恐れと悲しみに満ちた、辛苦の日々であったろう。

Ⅰ洪水去る

「神は、ノア・・・を心に留めておられた(忘れない)」預言者ナホムは「主はいつくしみ深く、苦難の日のとりでである。主に身を避ける者たちを主は知っておられる」(1:7)と記す。

これは、神がアブラハムを覚えて(創世記19:29)ソドムからロトを救出し、エジプトで奴隷として虐待されていたイスラエルを顧み(出エジプト2:24)モーセを起用して彼らを救出し、不妊のハンナをあわれんで、サムエルが誕生した(Ⅰサム1:19)ことを想起させる。

ナザレの乙女マリヤも、その賛歌の中で「主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、そのしもべイスラエルをお助けになりました」(ルカ1:54)と詠った。神は、み怒りと裁き、そして癒しがたい痛みの最中にも、ノアとその家族を心に留めておられた。

「神が地の上に風を吹き過ぎさせると、水は引き始めた」

これは、天地創造の折に「神の霊が水の上を動いていた」(1:2)ことを想起させずにはおかない。滅ぼす風(台風、ハリケーン)があり、生かす風(紅海を二つに分けた東風、出エジ14:21)あり。雨が止めば、水が引き始めるのは自然的現象であるが、これもまた、神の保持する恵みによるのである(ヨハネ5:17)

水は段階的に引いた。何度も烏や鳩を送り出した心情は、待ち遠しさを伺わせる。水と地に関する描写を止めてみる。

1節、150日増え続けて「水は引き始めた」これが第七の月の十七日

3節、150日の終りに「水はしだいに地から引いていった。水は減り始め」箱舟はアララテ山頂に

5節、第十の月の一日「水は、ますます減り続け」山々の頂が現れる。

8節、「水が引いたかどうか」烏に続き、鳩を放つ。

9節、「水が全地の面にあった」地は未だ乾かず。

11節、鳩が運んだオリーブの葉によって「ノアは水が地から引いたのを知った」

13節、第一の月一日「水は地上からかわき始めた・・・かわいていた」

そして14節、第二の月二十七日、ついに「地はかわききった」8章の増水と見事な対比を見る。

以上のことから知りうるのは、増水より減水に日を要していることである(災害は、しばしば瞬時に起こるが、復旧とは絶望的な労苦を求めるものである)

Ⅱ箱舟を出よ

神は、ノアと家族に箱舟を出ることを命じる。ノアにとって、神の命令は信頼して従うべきもの。「ノアは、息子たちや彼の妻や、息子たちの妻といっしょに外に出た。すべての獣、すべてのはうもの、すべての鳥、すべて地の上を動くものは、おのおのその種類にしたがって、箱舟から出て来た」箱舟に入るのは勇気を要した。出る事も解放と言って手放しで喜べる状況ではなかった。

あわれみ深い神は、下船に先立ってノアに「すべての肉なるもの・・・地の上で生み、そしてふえるようにしなさい」と言われた。これは、創造以来の祝福の定型句である(1:28、9:1、ヘブル11:8-9)

箱舟の外の世界は、筆舌に尽くしがたい。文字通り死の世界である(私たちは、津波やハリケーンのもたらす破壊を知っているが、洪水後の世界は想像を絶する)

この時、人は何を聞き、何を見たらよいのだろうか。大地には死屍累々、しかし、オリーブは早くも芽吹き始めている。小生は、焼け跡こそ生命の再生の場だと信じている(広島の原爆から平和を求める祈りが芽生えた。主の十字架から贖いと永生が生まれた)しかし、焦土を直視する勇気が必要。

生きものを地に、あるいは大空に放つのは「地に群がり、地の上で生み、ふえるように」と意図する神の命令。死の世界に生命の派遣である(福音宣教の先駆のよう)

「ノアは、主のために祭壇を築き」

ノアが「祭壇を築いた」事は、アブラハム以後、見事に継承されている(創世記12:7、8、13:18、22:9、26:25、33:20,35:7、出エジプト17:15、24:4、32:5)

「祭壇(ミズベイアッハ)」は、ザーバッハ(生贄のためにほふること)の派生語である。葬儀屋の言う祭壇(飾りだな)とは全く異なったものである。それ故、祭壇が設けられた時、そこには動物の生贄があったと考えられる。

礼拝に生贄が不可欠なものとなったのがいつの頃からかは知りえないが、アベルの伝承が背景にあるのは言うまでもないことであろう。ノアは、ここで全焼の生贄をささげている。

「全焼のいけにえ(オーラー)」は、動詞アーラー(上る)から派生。日本語の全焼は、焼き尽くすイメージが強いが、語源的には、煙があがり薫香が天に立ち昇り神に届く様子を表すものである。焼くことは手段に過ぎないのである。全焼には焼き尽くす凄まじい印象が圧倒的であるが、肝要なのは香りが神に届くことである(ついでながら、アーラーの用法には“高いところへ、エルサレムへ、聖所へ、神へ、戦場へ上る”などがある。興味深いのは現代へブル語に、諸国からの帰還者を意味するオーレがある)「私の祈りが、御前への香として、私が手を上げることが、夕べのささげ物として立ち上りますように」(詩141:2)

Ⅲ主のみ心を確信する「主は、そのなだめのかおりをかがれ」

なだめ(ハンニィホーアッハ)と言う語は、ノア(ノーアッハ)の名と語根が同じである。ノアの父レメクは、ノアの誕生を喜び「主がこの地をのろわれたゆえに、私たちは働き、この手で苦労しているが、この私たちに、この子は慰めを与えてくれるであろう」(5:29)と期待を抱いて命名した。しかし、今あきらかになったことは、なだめられなければならないのは真っ先に神である。

聖なる神が人の罪のために苦悩し、裁きを下さなければならなかった。神の義は貫かれなければならないが、それ故に神の愛は引き裂かれる(エレミヤ31:20)人は神の怒りの下にある(エペソ2:3、ローマ5:10)ノアの生贄は、神の怒りをなだめ、神のあわれみを引き出す。

かくして、ノアは神の御心を大胆に確信するに至る。即ち「わたしは、決して再び人のゆえに、この地をのろうことはすまい。人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ。わたしは、決して再び、わたしがしたように、すべての生き物を打ち滅ぼすことはすまい。地の続くかぎり、種蒔きと刈り入れ、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜とは、やむことはない」と。

ペテロは、来るべき終末の裁きを描写して「当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです」と。

「主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます」(Ⅱペテロ3:6-13)

ペテロは洪水物語を考慮して、水ならぬ火による裁きを描き出した。おそらくこの描写は、ペテロ自身よりも、原子力時代に生きる私たちにとって痛切なものとなっている。