創世記7章

創世記7章              大洪水

Ⅰ主の命令とノアの服従

主は、ノアがこの時代(6:5,11)にあって、正しく生きたのを御存知であった。ペテロは、ノアが義の宣伝者であったと証言している(Ⅱペテロ2:5)。すると、ノアは箱舟造りのかたわら、周囲の人々の好奇な眼差しにさらされながら、建造の意味を語り、無関心な人々に悔い改めを呼びかけ続けたのであろう。しかし、時代の文化的潮流や価値観は、人の決意・決断に支配的な影響を及ぼすものである。正しいノアも、他人の心を動かすことはできなかった。人の尊厳は、神の御心に従って自己決断する自由の中に見られるものである。それ故、人は自分の責任を回避することができない(3:12-13)(人間の実状は、神を排除して自我を優先する。或は、権力や欲望を偶像化して、唯々諾々隷属しているように見える)

それでも、見張る者には見張る責任がある。預言者エゼキエルは次のような認識を示している「人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの家の見張り人とした。あなたは、わたしの口からことばを聞くとき、わたしに代わって彼らに警告を与えよ。わたしが悪者に『あなたは必ず死ぬ』と言うとき、もしあなたが彼に警告を与えず、悪者に悪の道から離れて生きのびるように語って、警告しないなら、その悪者は自分の不義のために死ぬ。そしてわたしは彼の血の責任をあなたに問う」(エゼキエル3:17-20)と。これは、神の民の中で受け継がれてきた倫理観であり、戦時下の疎外された人々の中にもあった(Ⅱ列王7:9)これこそ宣教の動力ではないか。使徒パウロが預言者たちと同じ責任意識を持っていたことは明らかである(使徒の働き18:6、20:26)

主は先ず「あなたとあなたの家族とは、箱船に入りなさい」と命じた。ノアにとって、主のみ言葉に従うことは、安全保障を得ることである。しかし、主に従うことは、時には数々の既得権益の放棄が求められる。今まで自由に生活してきた大地を離れるのは苦痛であろう。たくさんの動物たちと生活をともにすることは、決して快適なものではない。まだ、雨が降ってきたわけでもない。しり込みする口実はいくらでもある。しかし、彼は主の命に従う。

主イエスは「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです」(マタイ7:13-14)と言われました。この世にあって、主に従うとは、何と多くのものを後ろにすることか。漁師のペテロや取税人のマタイ・レビも、何もかも捨てて主に従う道を決断してきた(ルカ5:11、28)。しかし、ノアの乗船命令は、単に服従を求められたものではない。むしろ、恩恵としての召しである。正しく生きて主の用に選ばれたのである(Ⅱテモテ2:21-22)。およそ、主の召命とはそのようなもの。人々はノアの警告を無視したが、彼の家族はよく聞き従った。

動物の保存命令

それは、彼らが「全地の面で生き残るためである」。従がって、裁きを意図した洪水ではあるが、神は絶滅を望んでおられない。これは、ノアにとって慰めではなかったか。

6章の記事では「すべての生き物」(19節)と言われていたが、この章では「きよい動物」と「きよくない動物」とに分けられている。このような区別は、原初はなかったと思われる。しかし、モーセの時代には、礼拝や食生活のために「きよい動物」と「きよくない動物」との間に厳然とした区別があった。食肉が許容されたのは、洪水以後のことであるが(9:3-4)人は、神の御心とは無関係に、アベルの時代から肉食をしていたであろう。

種の保存の為には、既に二匹ずつが求められている(6:19-20)それ故「きよい動物」が7番ずつ箱舟に入れられたのは、いけにえ(8:20)と食用の為ではなかっただろうか。

7日後に、四十日四十夜の雨

「七日たつと」という表現は、猶予の時間を示すのであろう。準備の時間が与えられたと考えてよいのではないか。数年前の夏、東京の杉並で1時間に100㎜を超える豪雨があり、一面は海と化した。四十日四十夜という表記は、慣用的表現(出エジプト34:28、Ⅰ列王19:8、マタイ4:2)

「ノアは、すべて主が命じられたとおりにした」

この表現は、5,9,16節に三度繰り返されている。後に、モーセは会見の天幕を造営するとき、主の命が徹底されたことを繰り返し述べている(出エジプト39章に10回、40章に8回繰り返す)モーセは、主に従う精神をノアから学んだと言えるかもしれない。主の言葉が蔑ろにされている時代のただ中で、神は求め、ノアは応じたのである。

Ⅱ大洪水

洪水は、ノアが六百歳の時に起きたと言われる。

ノアと彼の家族とは箱舟に入る(父の意志に歩調を合わせる家族、後に、アブラハムとイサクの間にも同様の関係があったが、ロトの家には欠けていた・創世記19:16)

ノアの乗船は、激しい雨が始まる7日前。巨大な箱舟作りは周囲の人々のあざけりの的であった。乗船はまさに狂気と映ったのではないだろうか。主に従うとはこんなにも孤独なものか。

主イエスは「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう」(ルカ9:23-25)と言われた。

大雨来る

「天の水門が開かれた」これは「神は、大空を造り、大空の下にある水と、大空の上にある水とを区別された」(1:7)という天体理解のもとで、心をおののかされる描写である。

第二の月の十七日、ちょうどその同じ日に「主は、彼の後ろの戸を閉ざされた」これは、私たちに預言者イザヤの言葉を思い出させる「去れよ。去れよ。そこを出よ。汚れたものに触れてはならない。その中から出て、身をきよめよ。主の器をになう者たち。あなたがたは、あわてて出なくてもよい。逃げるようにして去らなくてもよい。主があなたがたの前に進み、イスラエルの神が、あなたがたのしんがりとなられるからだ」(イザヤ52:11-12)。黙示録に登場する主も「恐れるな。わたしは、最初であり、最後である」(黙示録1:17、22:13)と言われる。

私たちはもちろん、創世記の著者も大洪水そのものを詳らかにすることはできない。しかし、驚天動地のできごとのなかで、神のあわれみを見い出し、先人たちの信仰を伝えているのである。

船内外の環境

乗船して戸が閉じられた時、船内の臭気は耐え難いものであったろう。しかし、一度、豪雨が始まれば、判断は一変する。船外の自由は、船内の安全に変わることはできない。

「巨大な大いなる水の源が、ことごとく張り裂け、天の水門が開かれた」という描写は、創世記著者の絶叫を伝えているようだ。臨場感をさえ感じさせる。秩序正しく造られた世界は、滅亡と混沌だけを予期させる。

「すべての人も死に絶えた」

これに「みな死んだ・・・消し去った・・・消し去られた」との表現が続く。

パウロは「被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています」(ローマ8:19-22)と書いた。自然が猛威を振るうとき、その苦悩を見る思いがしないか。

主が消し去ったのであるが、ご自分が造られた世界を滅ぼす神の痛みはいかばかりか(6:6)

「ノアと、彼といっしょにいたものたちだけが残った」

箱舟(テーバー)は、棺桶ともなり、救いの船ともなる。

モーセの幼い命もテーバーに託された(出エジプト2:3)