創世記6章

創世記6章             洪水前夜

Ⅰ神は御心を痛める

人が地上にふえ始める

人口増加は創造者の祝福であった(1:28)それは、洪水前も、後も変わりない(9:1,7)それ故、人口増加に問題があったわけではない。しかし、人間の営みの悲しさは、本来、神の祝福であったものさえ、わざわいの遠因としてしまうことである。人の増加が悪の増大とは、人間的な表現をすれば、創造者も思い及ばなかったことではないか(6:5)今日では少子化が案じられている。

確かに、人口増加と問題続出には相関関係がある。数が多ければ多いほど生産的な力が増す事は明らかであるが、統合する事は容易でない。人に罪が入り込んで、自己中心的な傾向が顕著になれば、人は神の聖定されたような管理者ではありえない。創造の秩序を乱した人間は、授けられた管理能力を失い、あらゆる場面で自己本位に活動して、他者との関係に支障をきたす。夫婦に不信感が生じ、兄弟間に殺人が起こり、以後、罪は奔流のように人の営みを飲み込んできた。それ故、豊かな祝福が大きな禍の新しい動因となってきているのである。

余談だが、問題が発生したとき、統計が駆使される。重要な要素ではあるが、事柄を数量的に扱うのは皮相的であり、対処療法的効果はあっても、根本的な解決にはなりえない。

数に因んで思い起こした聖句を引用したい。

「あなたがたに言うが、だれでも持っている者は、さらに与えられ、持たない者からは、持っているものまでも取り上げられるのです」(ルカ8:18,19:26)また「知らずにいたために、むち打たれるようなことをしたしもべは、打たれても、少しで済みます。すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます」(ルカ12:48)

ノブレス・オブリージ(特権を与えられている者たちの社会的な責任・義務)という言葉は、この聖句から生まれたと思われるが、実はギリシャ・ローマ世界にも同じ意識があったのである。

神の子らと人の娘たち

上記の表現は、天使と人の結婚とか、王と町の娘の結婚とか、セツ、エノシュの後裔とカインの後裔の結婚ではないかと、さまざまな推測がなされてきた。いずれにしても、ネフィリム伝説や地の堕落を説明するものであろう(主は、天使の結婚など容認しない・マタイ22:30)

神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分たちの妻とした」今日の私たちの間では何の問題もない記述である。しかし、著者は、結婚の関係性が、本来のものから微妙に変わってきている事に気づいている。

美しさも美を愛することも、神の恵みと考えて憚る必要はない(創世記12:14、Ⅱサムエル13:1、14:27、1列王1:3、ヨブ2:15、申命記21:11)が、箴言の警告を心に留めたい「美しいが、たしなみのない女は、金の輪が豚の鼻にあるようだ」(11:22)と教える。美はまさしく神の賜物であるが、美だけを追求する者はバランスを崩す(人は本質的に土の器なのである)

結婚は、どのような形をとった場合でも神の賜物に違いない。しかし、この頃、人々は「好きな者を選んで、自分たちの妻とした」この言葉は、私たちに楽園の結婚の場面を想起させる。しかし今や人々が好悪の感情に支配され、配偶者を神の賜物「相応しい助け手」とする概念は後退し、神が日常的に疎外されることになるのを憂えているのではないだろうか。

「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう」「肉にすぎない」とは(ヨブ4:15、詩篇78:39)

「百二十年」(モーセの寿命に符合する)これは、モーセの祈りの歌にある「70年。健やかであっても80年」(詩篇90:10)より大きい。この頃、人生は70-80年であった。その中で、モーセは健やかな120年を生きた(申命記34:7)創世記の系図によれば、洪水後にも長寿を生きた人々はいる。

ネフィリムの出現(七十人訳は巨人と訳す)民数記13:33

彼らは「昔の勇士であり、名のある者たちであった(アンシェイ・ハッシェイム)」

地上に人の悪が増大

前節のネフィリムの紹介は、単なる英雄伝説では終わらなかった。英雄たちの輩出は、人間を傲慢無礼な者に変えたであろう。謙虚さが失われ人間賛歌が歌われ(カインの末裔レメクのように)神からの距離を急速に遠ざけて行く。人は“神とは誰か”とうそぶき、己を神とする。

神の心痛

「神は人間ではなく、偽りを言うことがない。人の子ではなく、悔いることがない」(民数記23:19Ⅰサムエル15:29)しかし、人の言葉を用いれば、まさに神は後悔しているかのような痛みを覚えておられるのである。神は痛みを知っておられる(エレミヤ31:20)パウロも「神の聖霊を悲しませてはならない」(エペソ4:30)と諭す。

神は地を一掃しようと決意する。まさに絶望的な神がおられる。その中で「ノアは、主の心にかなっていた」これは、創造者の慰めである。このように、どんな時代、どんな状況下でも、神は御自分の民を残しておられる。それは、再びいのちの流れを期待させる。主イエスも「小さな群れよ。恐れることはない」(ルカ12:32)と呼びかけられる。

Ⅱ神はノアと契約を結ぶ

ノアは「正しい人」時代の邪悪な傾向のなかで正しく生きる事は、孤立を意味したであろう。ノアは「義の宣伝者」(Ⅱペテロ2:5)と言われるが、周囲の人々との接触は希薄だったのかもしれない。

「全き人」この徳は、後日アブラハムにも求められた(創世記17:2)さらに下っては、レビ人の霊的基準とされる(申命記18:13)主イエスは、一般民衆にも求められた(マタイ5:48)

「全き人」あるいは「完全」は、いわゆる欠点のない完全無欠を意味するものではない。むしろ、どっちつかずではない、純粋にひたむきな生き方をさすのではないだろうか。昔、預言者エリヤが指摘したのは、イスラエルのご都合主義であった(1列王18:21)ノアは「神と共に歩んだ」(父祖エノクの信仰が継承されている)

時代の様相

「地は神の前に堕落し、暴虐に満ちていた」

ここには、具体的な罪の目録がない。堕落と暴虐の実態はいかなるものであったのか。

堕落という語は「さあ、すぐ降りて行け。あなたがエジプトの地から連れ上ったあなたの民は、堕落してしまった」(出エジプト32:7)このように、人々の心が神を離れ、偶像に移っていく様子を語るのに用いる(申命記4:25、士師2:19)堕落(語源は滅ぼす)とは神からの離反であり自己破壊。

暴虐については「シメオンとレビとは兄弟、彼らの剣は暴虐の道具」(創世記49:5)と言われる。父ヤコブが息子たちを呪った背景には、彼らのハモル一族に対する虐殺があった(創世記34:25-30)彼らは、恵みの契約のしるしである割礼を、欺きの罠に用いた。

ヨブは、身の潔白を弁明した時「私の手には暴虐がなく、私の祈りはきよい」(ヨブ16:17)と。

神の啓示

「彼らを地とともに滅ぼそう」と言われる神は、先に救い出す手立てとして、箱舟作りを命じる。

大きさは、キュビトで300・50・30。メートルに換算すると135・22.5・13.5(一キュビトを45cmとした場合)の三階建て。箱舟と訳されたテーバーには、かご(出エジプト2:3)の意味もある。共にいのちを救った(英語では、箱舟も契約の箱もアークを用いる)

もはや洪水は避けられない。しかし、神は生き残るものについても語る。

神との契約

「箱舟に入りなさい」契約の詳細は未だ明らかではないが、神の提示に応じることが不可欠。

生物の保存(動物や鳥などをつがいで)が命じられる。これは興味深い。神は創造を悔やまれたのである(6:6)それ故、地は今や滅ぼされようとしている。しかし、神は他方では、動物たちが「生き残るようにしなさい・・・生き残るために」と命じる。

食物の確保も指示する(服従とは、大きな労苦であったに違いない)

不信仰が不従順を生む。ノアは、全て主が命じられたとおりにした(7:5)