創世記5章

創世記5章            アダムの系図

はじめに

「神は人を創造されたとき、神に似せて彼を造られ、男と女とに彼らを創造された。彼らが創造された日に、神は彼らを祝福して、その名を人と呼ばれた」(新改訳第2版がアダムと訳出していたものを、3版では人と改めた。他の翻訳聖書も人類としての人として訳出している。英訳聖書はMankind、Human-Beingsなどを用いる)

それ故、人の尊厳は、神がご自分に似せて人を造られたことにある。人は、様々な計りを用いて互いを測る(区別する)が、創造者の目から見れば、すべての人は神のかたち(イマゴ・デイ)を持ち、それ以上でも以下でもない。堕落以後、すべての人は原罪(ペッカートーム・オリーギニス)の下に置かれている(ローマ3:23)これ以外の基準は利己的優越感・偏見に基づく。

神は、人を男と女とに創造されたのである。男も女も人である限り、同等の尊厳をもって造られている。しかし、神は人を男と女に造られたのであるから、男と女には相違がある。この違いは、生活の場でそれぞれ特質を表わしている。男女が公平に扱われるのは結構だが、近代の機会均等の考え方には、創造者の意図された秩序を考慮することが欠落していないだろうか。

小生は、基本的に男女の社会や家庭における役割は異なると考えている。そこで「ふさわしい」関係が発揮されることを願う(もちろん、融通は利く。本来男性の役割だと思われる領域でも、男性に人材がなければ、神は女性を自由に起用する。ちょうど、胃が全摘出されても小腸が代役を担うように。しかし、過負担になる事は避けられない)

「その名を人(アーダーム)と呼ばれた」これも、心しておきたい。

日本語の人という文字には美しくも優しい示唆がある。何よりも小さな単位である一が二つ互いに寄り添っているように見える。想いを馳せれば、人は一人では立てないが、二人なら力士が組み合っているような力強さが感じられる。これは意外と聖書的に見えるが・・・。聖書は「二人は一人よりもまさっている・・・もしひとりなら、打ち負かされても、ふたりなら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない」(伝道者4:9-12)と言う。二人は神の恩恵であるが、神と共に生きる者には、三つ撚りの第三の糸がカギを握っている。インマヌエルの秘密である(マタイ18:20)

ギリシャ語では、人をアンスローポスと言う。語義は“顔を上げる”上を向いて歩く姿である。ちょっと気取ったギリシャ人の理想主義を感じる“上を向いて歩こう”これも悪くないが、ここには「イエスから目を離さないで(イエスを仰ぎつつ)」(ヘブル12:2)という、明確な目標がない。

聖書では、人はアーダームと呼ばれた。地のちり(アダマー)から造られたからである。何と謙虚な名称ではないか。自虐的と嫌う輩もいるだろうが、人は、土の塊に過ぎないことを忘れてはならない。その上で「私たちは、この宝を、土の器の中に入れている」(Ⅱコリント4:7)と感謝したい。

Ⅰ人は、創造のみ業を継承する

5章を読む者は、先ず人々の長寿に圧倒される。今日の常識からは理解できない長寿である。何とかして、受け入れやすい数字に変えようと努めてきた者たちもいるが、いずれも成功していない。

小生は(解明不可の弁解であるが)年齢そのものには関心がない。洪水以前の年齢を確認するすべはない。著者は、伝えられてきたものを尊重しているが、高齢そのものを誇る意図はない(ついでながら、シュメールの王名表は8代で24万年以上も統治したとする。そこでは、数字が大きくて、年齢が長いことは、偉大さの証しとされている。それに比べると、アダムの系図は、同様な価値観を持っていなかったことが明らかである)

いずれにしても、洪水前、洪水後、アブラハム以後、モーセ時代と、人の寿命は段階的・急速に短縮されて、モーセ自身は「私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年」(詩篇90:10)と詠う。

以下、5章のメッセージを拾いあげてみたいと思う。

1、 長寿とみえるが神の一日に及ばず

人々は長寿であったとされるが、神の一日(詩90:4)と言われる千年を越えた者は一人もいない。

罪が死をもたらしたので、人の生は誰一人として神の一日にも及ばないのである。著者は、長寿を誇っているというよりも、死に終わる人生が短く儚いことを物語っていないだろうか。

2、 墓標の前に立つ如し

この章は、長寿の記念碑と言うよりも、墓標の前に立つ感を強くさせられる。

特徴的な重要句は「生きて・・・生んだ・・・生んだ後・・・生き・・・生んだ・・・こうして死んだ」にある。彼らの生涯は「息子、娘たちを生んだ」という一語に要約されているが、結末は死がもたらす。

実際には、彼らは既に「主の御名によって祈ることを始めた」(4:26)筈である。カインの子らにも記すべき事柄があったのである。アダム・セツの子らにも記録すべき事柄はあったに違いない(エノクの生涯以外に)何一つなかったとは思えない。しかし、著者はそれらをおいて、生と死に要約された人生を見つめている(或は、死に飲み込まれていく生を見ているのではないか)

人々は懸命に生きた。ひたすらに生きている。しかし、みな、生きて(2-3回)生んで(3回)結局死んでいった。ここでも、死が最後の敵、支配者である。どんなに懸命に己の分身を生んでも、死んで終わる人生を避けられない。裁きの下にある(2:17、3:19)のに、どうして長寿を誇り得るか。

Ⅱエノクの生涯

この墓所には、一箇所だけ特異な輝きを放っている所がある。エノクの名が刻まれている墓誌には、死(没年)が刻まれていない。彼の生涯は「神とともに歩んだ。そして、息子、娘たちを生んだ」と記されている「彼は死んだ」という決定的な語が見当たらない。替わりに「神が彼を取られたので、彼はいなくなった」とある。

エノクの日常生活も「息子、娘たちを生んだ」ことにおいて、他の者たちと変わるところがなかった。しかし「神とともに歩んだ」エノクを、死は脅かすことができなかった。

「神とともに歩む」という表現は、私たちには慣れ親しんでいるものであるが、ここでは、いかなる意味を持っていたのであろうか(エノク以後は、ノアについて語られ・6:9、神がアブラハムに求められたことで知られている・17:1)

神が人を造られた時、人は神と共に歩む者として造られたと言えるだろう。神と人は、涼風が立つ頃、ともに散歩するのを楽しむほど親密であった(3:8)しかし、堕落以後、人は園を追われたのである。最早神と連れ立って歩くことは、憧れることはあっても適わぬ願望となった。

エノクが「神とともに歩む」ことを求めるのは、一面から見れば“身の程知らず、非常識”なのではないか。しかし、人間の行動は内なる衝動に駆られることがある。

預言者エレミヤは神の懐の深さを知っていた「もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう」(エレミヤ29:13)と記す。

それでは、何がエノクを駆り立てたのか。私たちは詳細を知らないが、著者は彼の転機を「エノクはメトシェラを生んで後、三百年、神とともに歩んだ」と記している。メトシェラの誕生が、エノクの人生の転機となったと考えることは間違いではあるまい。

1、 メトシェラを生んで後

誕生が転機であるなら、その命名に手がかりを求めてもよいのではなかろうか。預言者イザヤは、わが子の命名に際して、イスラエルの歴史的啓示を受けている(「シェアル・ヤシュブ」7:3「マヘル・シャラル・ハシ・パズ」8:3と)

メトシェラの語義は「死を遣わす」と言われる(異論があるのは承知している)もちろん、エノクが大洪水を予知していたと言うのではない。しかし、エノクは放縦な人間の営みに神の裁きが下ることを敏感に受け止めたのではないだろうか(次元は異なるが、単身者よりも子育て世代の方が、将来の地球環境問題などに敏感である)

小生の論拠は、新約聖書がエノクの日常を「アダムから七代目のエノクも、彼らについて預言してこう言っています『見よ。主は千万の聖徒を引き連れて来られる。すべての者にさばきを行ない、不敬虔な者たちの、神を恐れずに犯した行為のいっさいと、また神を恐れない罪人どもが主に言い逆らった無礼のいっさいとについて、彼らを罪に定めるためである』」(ユダ14-15)と描写するにある。

伝承は、エノクを世捨て人にしたのではない。むしろ、ノアに先駆けた義の宣伝者としている。

メトシェラは、アダムの系図の中で最長寿であり、彼の没年は大洪水の始まった年とされている。(187+182+600=969)これは、厳密な解釈ではないが、示唆に富んでいると思う。

ペテロは「愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです」(Ⅱペテロ3:8-9)と証言している。メトシェラの長寿は、神の忍耐とあわれみを物語っているのである。

著者が、メトシェラの没年と大洪水を同年としているのは、偶然ではないと思う。

2、神と共に歩んだ

エノクの生涯を際立たせているのは「神とともに歩んだ」の一語である。しかし、前述したように、エノクの日常が変わったわけではない(例えば、エノクがこの世の生活を捨てて修道院に入ったわけではない)なぜなら、彼の生活も他の人々と同様に「息子、娘たちを生んだ」(これは生活の要約表現である)と描写されているから。

「神とともに歩む」ことは、以後、イスラエルの霊的スタンダードとなる(ノア6:9、アブラハム17:1、イサク48:15)

3、神が彼を取られたので、彼はいなくなった。

ヘブル書は「信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました」(11:5)と記している。これについては、二つの聖句を引用しておく。

「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか」(ヨハネ11:25-26)

「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです」(ヘブル9:27-28)

一番短い生涯と一番長い生涯、短いのが不幸なのではない。長いのは、神の忍耐であった。



かつて、死が絶望的に受け止められていたとき、エノクが死を見ることのなかったのは幸いであった。しかし、キリストが復活されて死を無力なものにした時、パウロはもはや死から目を背けない。死を正面から見据えて「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか」(Ⅰコリント15:55)と凱歌をあげる。

Ⅲノア誕生の慰め

レメクは労苦の中に生きていたが、子どもが与えられた時「主がこの地をのろわれたゆえに、私たちは働き、この手で苦労しているが、この私たちに、この子は慰めを与えてくれるであろう」と、期待の命名をした。

ノアの語義(ヌーアッハ・休む)の派生語をいくつか拾ってみた。

1・イザヤ28:12(敵からの解放)

2・イザヤ14:3(苦しみからの解放)

3・箴言29:17(心の静かさ)

4・民数記32:15(現状に止まる)

5・伝道者10:4(離れる)

6・詩篇119:121(放置する)

語の意味は、時代とともに変遷するものである。