創世記49章

創世記49章        ヤコブの預言的祝福

ヤコブは、祝福の相続者となることに異常な熱心を示した。その表れは、約束の地カナンに対する執着に見られる。しかし、彼の生涯は、この地に拘りつつ、この地を去らなければならない事情に迫られ、必ずこの地に帰ってくるという希望に支えられてきた。

ヤコブは、約束の地に対して熱心であったが、彼の生涯の主要な時期を、この地の外側で過ごす事を余儀なくされた。神の摂理は人知を越えていて、計り知れないものがある。

ヤコブ一族がエジプトに移住して17年の歳月が流れた。すでに飢饉は過ぎ去っている。なぜ、彼はこの間にカナンの地へ戻らなかったのだろうか。事情は明らかでない。彼の葬儀がパロの厚意のもとで行なわれたことを考えると、パロとの蜜月が終わったわけではない。ヤコブもカナンに帰ることを忘れていない。ヨセフには、エジプトを去れない事情があったであろう。老いたヤコブは、今更ヨセフを離れる気にはなれなかったのかも知れない。神の摂理のなかで許されなかったのである(15:13)ヤコブはエジプトにあって(充足の中で)神の約束を仰ぎ、死に臨んで子どもたちを祝福する。

Ⅰ各々に相応しい祝福

ルベン「あなたはわが長子」

初めての子に対する期待は並々ならぬものがある(4:1)兄弟を差別する次元のものではない。単純に、初めて子と対面する本性的な喜びや期待があふれ出てくるものである。最初の印象や感動が別格なのはごく自然なことではないか。

残念ながら、ルベンは漲りあふれる力を正しくコントロールすることができなかった。奔放な欲情に身を委ね、父を辱しめ、己を汚した(35:22)油断する事なく心を守れ。

シメオンとレビ「彼らの剣は暴虐の道具」

シェケムの事件(34:25-31)は、ヤコブに大きな苦しみを与えた。ディナに加えられた陵辱は見過ごせないが、シメオンとレビの怒りに任せた報復は度が過ぎていた。彼らには言い分があったようだが、自分たちが略奪者・虐殺者となっていることに気づいていない。正義を口実に振り上げた剣は、不正と暴虐の剣と化した。

ヤコブは「わがたましいよ。彼らの仲間に加わるな。わが心よ。彼らのつどいに連なるな・・・私は彼らをヤコブの中で分け、イスラエルの中に散らそう」と(モーセの歌にはシメオンが省略)

彼らには離散が運命付けられた。シメオンはユダに吸収されたと言われる。レビも相続地を与えられずイスラエルに散らされた。しかし、そのありようは同じではない。

ユダ「あなたの手は敵のうなじの上にあり、あなたの父の子らはあなたを伏し拝む・・・王権はユダを離れず、統治者の杖はその足の間を離れることはない。ついにはシロが来て・・・」

最初にヤコブの子らがひれ伏したのはヨセフの膝下であった。しかし、それは究極の権威を示すものではなかった。やがて、この部族から、カレブ、ダビデ、そして、私たちの主イエスが出現する。ヤコブはヨセフを偏愛し、晩年はヨセフによって慰められもしたが、神の計画がユダにあることを受容した。彼は、ここに至って公私を判別する節度を見せている。ヤコブは、自分の言葉をどこまで理解していたのだろうか。メシヤが見えたのか。

ゼブルン「海辺に住み、そこは船の着く岸辺。その背中はシドンにまで至る」

ゼブルンは地の利を得て、地中海貿易の雄フェニキアとの交友を得た。彼らは、海上貿易の民となる。しかし、イスラエル北辺の地は、侵略者による苦しみも避けられなかった(イザヤ9:1)

イッサカル「たくましいろば・・・彼の肩は重荷を負ってたわみ、苦役を強いられる奴隷となった」定かではないが、将来の苦悩が見え隠れする。

ダン「おのれの民をさばく」

「イスラエルのほかの部族のように」という言葉は、この裁きが特別なものでないことを語る。しかし「道のかたわらの蛇・・・主よ。私はあなたの救いを待ち望む」と言う言葉には、不安を覚える。かつてユダヤ人たちは、これらの預言的言辞を、避けられない宿命のように考え受け止めてきた。

そして、それぞれの部族の事象を、全部取りまとめて理解しようとした(黙示録7:4-8)しかし、私たちは、福音が絶望的な状況から生み出された事を知っている。ヤコブが抱いた期待や懸念は理由のないことではなかったが、神は「石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになる」(ルカ3:8)のである。

英雄サムソンは、ダン部族の出身(士師13章)である。

ガド「襲う者が彼を襲うが、彼はかえって彼らのかかとを襲う」

以下の三部族については、ごく一般的な祝福が述べられている。

ガドは、非力に見えて、非力に非ず。侮る事を許さない。ガドには“泣き寝入りしないガド”という綽名を送りたい。

アシェル「その食物が豊かになり、彼は王のごちそうを作り出す」

食物が豊かであることは、なんとありがたいことであろう。飢饉を経た人々は、その意味を良く理解したであろう。王の前でも恥じないほど豊かさに恵まれるということか。モーセは、イスラエルに最後の祝福を与えた時、その理由は知り得ないが、アシェルには格別な思いを述べている。

すなわち「アシェルは子らの中で、最も祝福されている。その兄弟たちに愛され、その足を、油の中に浸すようになれ。あなたのかんぬきが、鉄と青銅であり、あなたの力が、あなたの生きるかぎり続くように」(申命記33:24-25)

ナフタリ「放たれた雌鹿で、美しい子鹿を産む」これは、嬉々として自由を楽しみ、羨むほどの繁栄を描写しているようにみえる。

ヨセフ「実を結ぶ若枝、泉のほとりの実を結ぶ若枝、その枝は垣を越える」隔ての中垣を越える手段は様々ある。歴史には侵略と略奪をこととする連中が絶えない。しかし、垣根を越える枝の描写には含蓄がある。垣根を越えて実を差し伸べる枝は好ましい。これは、エペソ書2章が語る福音の恩恵を暗示していないだろうか(エペソ2:11-22)

ヤコブは、王権をユダに託したが、ヨセフに与えた祝福は、ことばの限りを尽くしている。モーセの歌も、口を極めて、ヨセフを祝福する(申命記33:13-17)ヨシュアやギデオンがこの部族出身であることも記念せられて良い。

ベニヤミン「かみ裂く狼。朝には獲物を食らい、夕には略奪したものを分ける」

モーセの祝福は「主に愛されている者。彼は安らかに、主のそばに住まい、主はいつまでも彼をかばう。彼が主の肩の間に住むかのように」と穏やかである。

ベニヤミン部族が、イスラエルを二分する戦いの当事者となった(士師記19-20章)ことは、不幸なことであった。ベニヤミン部族は、イスラエルの初代王サウロや宣教者パウロを輩出している。

Ⅱ自身の埋葬に関する遺言

「私の先祖たちといっしょに葬ってくれ」

どんなに優遇されても、エジプトは安息の地・究極の地ではない。この地上にある間は、体が肉の制約を受けるように、信仰の理想もまったく自由とは言えない。妥協する時があり、譲歩せざるを得ない時があり、自己犠牲を払う時がある。しかし、肉体を離れたら、最早なにものにも制約されない。文字通り天翔るのである。

「先祖たちと一緒に・・・そこには、アブラハムとその妻サラとが葬られ、そこに、イサクと妻リベカも葬られ、そこに私はレアを葬った」

長寿を全うした老衰死が描写されている「ヤコブは子らに命じ終わると、足を床の中に入れ、息絶えて、自分の民に加えられた」(25:8、17、35:29)

信仰とは一代限りのものにあらず。子々孫々に継承されるもの。ここでは、墓がその証言をしているように見える。

ヤコブの生涯は、波乱万丈ではあったが、彼は死を静かに穏やかに迎えた。もう一度、ヘブル書の記者が記した言葉を掲げておく「信仰によって、ヤコブは死ぬとき、ヨセフの子どもたちをひとりひとり祝福し、また自分の杖のかしらに寄りかかって礼拝しました」(ヘブル11:21)