創世記48章

創世記48章        ヤコブの感謝と祝福

私たちが知る若き日のヤコブは、極めて自己中心的でした。しかし、逞しく・不屈の意志を持って生きる彼の姿には、目を瞠はらせるものがあった。ヤコブの前半の生涯は、割り込み・押し退ける者の印象が強いが、後半、殊に晩年は祭壇・礼拝・祝福が特徴的である。ヤコブも、自分の弱さや醜さを知って苦悩しながら、神の憐れみなしには生きることの出来ない己を告白し続けたのであろう。

Ⅰ病床のヤコブ、神の恩寵を回顧する

「イスラエルは力をふりしぼって床にすわった」

これ以前から、ヤコブはすでに寝付いていた(47:31)らしい。ヤコブが重篤である事を告げられると、ヨセフはマナセとエフライムを連れて見舞う。

ヤコブは、大事な誓いをヨセフと交わした時「床に寝たまま、おじぎをした」ギリシャ語訳は、これを「杖のかしらに寄りかかって礼拝した」とする。ヘブル書もギリシャ語訳を引用する。

すると、ヤコブは、自分の最後を託す誓いをヨセフと交わした時にも見せなかった気力を、今、奮い起こしてヨセフ親子を迎えていることになる(もっとも、ヘブル書の著者は、47章28-31節と48章を一括して扱っている)従がって、ヤコブは、これからしようとしている事の重要性を、誰よりも深く認識していると考えて良い。

「全能の神がカナンの地ルズで私に現われ、私を祝福し・・・」(創世記28:10-19)

ヤコブは、自分に与えられた神の祝福を回顧する。ヤコブにとって、神の祝福は名状しがたいものであった。彼は、父を欺き兄を出し抜くほど、家督権相続に固執した。しかし、父の祝福を奪い取ってみると、それが何の力も持っていない事を思い知らされた。彼がそのとき得た報いは、妬みと憎しみの的にされることであり、逃走だけが救いであった。そして、その絶望的逃走の第一夜、神はヤコブを祝福してくださった(詩編136:23)

しかし、ルズの出来事を、ラバンの家に寄留するヤコブは殆んど心に留めていなかったであろう。実際、ラバンの家族との関係が悪化して、ヤコブがその地に居たたまれなくなった時、即ち、アラムの地から再逃走する前夜、思い出したのである(31:3)

意地の悪い言い方をするなら、神の古証文を自分本位に取り出したのである。それでも、神は契約期限が切れたとは言わない。永遠の神は、まことにヤコブに恵み深い。

彼が求めない時に神が現われ、彼が忘れていた時に思い出させ・・・と、神の取り扱いは、ヤコブに対して懇ろである。このような神の恩恵は、時を経るほど、深く心に沁みこんでくるのではないだろうか(賛美歌271番の心境)

この章は、ヨセフの子らに与えられた祝福で終始しているが、49章のイスラエル全体に語られた祝福の前座、あるいはそれを引き出したと考えたほうが良くはないだろうか(私から公へ展開)

「エジプトの地で生まれたあなたのふたりの子は、私の子となる」

これは、兄たちの敵意で失ったヨセフの復権と考えて良い。それは、特別なことではなく「エフライムとマナセはルベンやシメオンと同じように私の子にする」と。ただし、これによって、ヨセフは、イスラエルに二つ分の相続権を持つことになる。

他の子どもたちや孫たちはヤコブの身近にあったが、ヨセフとその子らは、この度、特別な機会を得たのである。それ故、これを特権の場と考えるよりも、遅まきながらヨセフと子どもたちもヤコブの祝福に迎え入れられたと理解すべきではないだろうか。ヨセフの家族は、これまでヤコブの視野の外に置かれていたが、いま、子たる身分を取り戻したのである。

アブラハムに祝福が与えられたとき以来、この家族は神の祝福の継承者となるために、葛藤し続けてきた。その中で、ヤコブほど翻弄され傷つけ傷ついた者はいない。

ヤコブが祝福について思い返すとき、複雑な感情を覚えたに違いない。老いた父イサクの傍らで、喜びよりも恐れを感じ、己を苦々しく思ったこともある。また、孤独と絶望感に苛まされていた夜、神が近づいて下さったことに慰めを受けたこともある。兄に迎えられ安堵した事が忘れられない。

そのような経過をたどった自分が、いま、祝福を与える者の立場に置かれている。それ故に、ヤコブは、神の祝福について、新しい理解を見出したのではないだろうか。

これまで、祝福は“一子相伝”として受け継がれてきた(27:33,35,38)が、ヤコブは「おのおのにふさわしい祝福を与えた」(49:28)

ここには、イエス・キリストに収斂していくメシヤ待望と共に、そこから全世界に拡散していく福音的祝福の兆しがうかがえる。それゆえ、長く失われていたヨセフ一家の祝福が先行している、と考えられるのだが如何であろう(ここでも、後の者が先になる)

Ⅱヤコブはヨセフの子らを祝福する

「彼らを私のところに連れて来なさい。私は彼らを祝福しよう・・・それから、ヨセフを祝福して」

この時、ヤコブは意図的に、祝福の手を交差させている。彼の念頭には、ふたりの子どもたちが明白に意識されている。ヤコブはマナセとエフライムに手をおいて祝福を祈る。16節では「この子どもたちを祝福してください」と対象が明らかにされている。

しかし、著者は、これをヨセフに与えられた祝福であると理解している。これを理解する為には、5節の言葉が助けになるであろう(子どもたちに個別の祝福は未だ見当たらない)

ヤコブは老いて「目は老齢のためにかすんでいて、見ることができなかった」(147歳の老人に白内障が生じるのは当然)しかし、心を集中させると思いがけない洞察力を発揮した(イサクが、視力を失って欺かれたのと対比できる)

ヨセフは、長子のマナセがヤコブの右手の祝福を受けるように按配した。それまで孫たちが傍にいるのも気づかなかったヤコブが、一度注意を喚起されると、彼の心眼は見抜く。ヨセフは秩序を重んじたが、ヤコブは預言的見地から大胆な判断を下す。ヤコブは未だ健在なり(ヤコブは双子の弟という立場にあった。年齢の差があれば致し方ないが、双子の長子権はタッチの差が決定的となる。ヤコブは、その矛盾に承服できなかったのではないか)

ヨセフにはヤコブのような霊的洞察力はなかった。老いた父が不用意に、或いは混乱してマナセとエフライムを取り違えたと考えたのも無理はなかった。

「わかっている。わが子よ。私にはわかっている」

この時のヤコブは、興奮させられたことであろう。肉眼は衰えているが、ヨセフに見えない世界がヤコブには見えるのである。

ヤコブはその日「彼もまた一つの民となり、また大いなる者となるであろう。しかし弟は彼よりも大きくなり、その子孫は国々を満たすほど多くなるであろう」と預言的な祝福を与えた。自ら兄に優る祝福を受けたヤコブにとって、この発見と感動はいかなるものであったか。これは、マナセを貶めることにはならない。後日、エフライムは北イスラエルを代表する部族となる。

「神があなたをエフライムやマナセのようになさるように」

こうして、子どもたちは、後々諺になるほどの祝福が与えられた。

「右の手」を置くことについて。右が力と威光を暗示する表現は初めてではない。ヤコブは、末に生れた子をベニヤミンと名づけた。すなわち右手の子という意味である(35:18)出エジプト15:6,12では、右の優位が明らかである(ベニヤミンとサウスポー、士師3:15、20:16、Ⅰ歴代誌12:2)

Ⅲヨセフを励ます

「私は今、死のうとしている」ヤコブは、エジプトに滞在すること17年(47:9)己の死期を悟る。「神はあなたがたと共におられ・・・先祖の地に帰してくださる」ヤコブのこの確信は、彼が父の家から逃げ出したとき、神が現れて約束して下さった言葉に基づく。ヤコブは、主の約束通り、多くの歳月の後に父の家に帰還したが、図らずもエジプトに寄留する身となった。彼も未だ途上にあるか。

しかし、老いたヤコブがしっかりと見定めているのは、約束の地である。ヤコブが「私が剣と弓とをもってエモリ人の手から取ったあのシェケム」という表現は難解だが、その地をイスラエルの受け継ぐ地と確信する信仰に揺るぎはない(15:16)