創世記45章

創世記45章         再会そして和解

ユダがわが身を賭して訴えた言葉は、ヨセフの心を動かす。構えていたヨセフの障壁は崩れ落ち、ついに「自分を制することができなくなって」人払いを命じた。

ヨセフは、兄たちに名乗りを上げるタイミングを腐心していたであろう。スマートな場を演出したかったに違いない。しかし、何もかも自分の計画通りに進むわけではない。ユダの言葉がヨセフの琴線に触れ、激情がこみ上げ、溢れ出る涙が地すべり的に蟠りを一気に押し流した。

ヨセフは、万事が神の摂理の下にあることを知る(45:5、7、50:20)パウロが、ローマ教会に書いた手紙の一節「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」(ローマ8:28)これは、あまりにも有名な言葉であるが、このような背景から生れた事を心に留めたい。

Ⅰヨセフが自分を明かし、和解の手を差し延べる

ヨセフは「自分を制することができなくなって・・・声をあげて泣いた」

ヨセフは感極まり堪えきれなくなって泣いた。突然のことに、周囲の者たちは怪しんだであろう。パロの家の者たちは、ヨセフが外国人である事を知っていたので、さまざまな憶測を巡らせたかもしれない。いずれにしても、兄たちには晴天の霹靂であった。

「私はヨセフです。父上はお元気ですか(ハオード・アビー・ハーイ)」

ヨセフの挨拶は、一番気がかりな父の安否を訊ねることから始まる。兄たちは「ヨセフを前にして驚きのあまり、答えることができなかった」こんな簡単な問いに答えられない兄たち、茫然自失ということか。恐怖に貫かれ、金縛りにされたことであろう。兄たちは、これまで執拗に問い詰められた事情を、彼らなりに納得して、恐れおののいたことであろう。

「私はあなたがたがエジプトに売った弟のヨセフです」

3節の言葉よりも念が入っている。この言葉は、兄たちに禍々しい過去を思い出させるが、決して後ろ向きのものではない。兄たちを糾弾する意図は微塵も感じられない。むしろ、その事実に立ち往生している兄たちを、その呪縛から解き放ち、広い霊的な視野を持つように呼びかけている。

「神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです」

人生を導く神の主権をこのように捉えるのは、信仰の奥義ではないだろうか。このような境地に立てないと、人は天を仰ぐよりも伏目がちになる。ヨセフは、このような神観、人生観を、いつ、どこで、誰から学んだのであろうか。師はなく、心を許せる同信の友もなかった。

神が、苦々しい日々の中で、清澄な心に懇ろに語りかけてくださったと言う外ない(エィミー・カーマイケルの自伝に登場するインドの女性や、ヘレン・ケラーの言葉を想起する)

かつて、兄たちはヨセフの死を謀った(37:20)が、ヨセフは「大いなる救いによってあなたがたを生きながらえさせるためだったのです」と理解を示す。

ヨブは苦難に直面し「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名は、ほむべきかな」と歌い上げた。これは、素晴らしい発見であるが、ヨセフの告白は、摂理の理解がさらに深められたと言える。人の愛憎が渦巻く中で、背後にあって歴史を支配する神を見る目は、何と幸いなことか。

「私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです」

誰の目にも明らかな事実は、兄たちがヨセフを売ったことである。しかし、ヨセフが見つめているもっと確かな真実は「私をここに遣わしたのは・・・実に、神なのです」

パウロはコリント教会に「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです」(Ⅰコリント4:18)と書く。

「神は・・・私を遣わして」

イエス様の顕著な自己認識は「遣わされた者」であった。そして、主もまた弟子たちを励まし遣わされた(ヨハネ20:21-23)ヨセフの認識や良し。

世間では、謝罪を姦しく叫ぶ。しかし、真の和解は、傷のある手を自ら差し延べる所に生れるものではないだろうか(驚愕した兄たちは、謝罪の言葉さえ思い浮かばないほど度肝を抜かれている)

顧と、主イエスは十字架の上で「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」(ルカ23:34)と執り成し祈られた。愛が罪を覆い尽くした場面である。すると先ず、十字架上の犯罪者が目覚めて主を仰ぐ。続いて百人隊長が「この人は神の子だ」と告白する。

Ⅱパロの関心

ヨセフのことを聞いて「パロもその家臣たちも喜んだ」

ヨセフが果たしたエジプト全土への貢献を思えば、ごく自然な展開と言えよう。パロは自分の事のように喜び「あなたがたの家畜に荷を積んで、すぐカナンの地へ行き、あなたがたの父と家族とを連れて、私のもとへ来なさい。私はあなたがたにエジプトの最良の地を与え、地の最も良い物を食べさせる」と厚意を見せる。

パロは機嫌が良かったのであろう。この上ないサービス精神を発揮して「子どもたちと妻たちのために、エジプトの地から車を持って行き、あなたがたの父を乗せて来なさい。家財に未練を残してはならない。エジプト全土の最良の物は、あなたがたのものだから」と命じた。

“故郷に錦”と言うが、ロバで買出しに出かけたヤコブの子らにとって晴れがましい限りである。王の車が提供されるとは別格な扱いである。これに贈り物が添えられた。

これは、パロの善意を語る“親切なパロの物語”ではない。ヨセフが、エジプトでどんなに貢献しているか、パロに信頼され優遇されているかを物語るものである。そして、兄たちを圧倒するためではなく、父ヤコブへのメッセージでもある。

「途中で言い争わないでください」と、ヨセフは言い添える。

この場面、兄たちは、先の異常な緊張が解け、信じがたい境遇に身をおいていることになれて、平素の軽口でも交し合ったのではないだろうか。根が遊牧の民である。平常に戻れば、上品であろう筈がない。子犬がじゃれ合うように、思いがけない幸運を喜んではしゃいだか。

ヨセフは、初めから良い子だった。奴隷の境遇に置かれ、今では王の補佐官として威儀を正している。さて、この言葉は、ヨセフのジョークか、或いは、思い過ごしの警告か。

Ⅲ父の喜び

「ヨセフはまだ生きています(オード・ヨーセーフ・ハイ)しかもエジプト全土を支配しているのは彼です」

父は、この朗報を直ちに信じることが出来なかった。時薬という言葉がある。時の経過が、悲しみや嘆きの痛手を癒すのである。ここには、忘却という効果が相乗作用を働かせる。それ故、やっと忘れた頃に、古い傷を思い出させられるのはやりきれない。

ヤコブにとって、ヨセフの思いでは圧倒されるばかりの悲しみであり、容易には受容れられない。しかし、新しい事実は、否定しようもない「彼はヨセフが自分を乗せるために送ってくれた車を見た。すると彼らの父ヤコブは元気づいた」(疎開先で弟が“母さん、大人になったら車買ってあげる”)

「元気付いた(ワッテヒー・ルーアッハ)」(英訳はrevived,recoveredを使用)

ヨセフを失い、シメオンも人質に取られ、ベニヤミンも諦めなければならないかも知れないという状況に置かれたヤコブは、生ける屍のような一面をもっていたであろう。しかし、新しい状況が飲み込めて、昔日の元気を取り戻したのである。

「それで十分だ。私の子ヨセフがまだ生きているとは。私は死なないうちに彼に会いに行こう」

これまでの記述には、若い頃を精力的に生きたヤコブの老いばかりが目立った。しかし、今よみがえったヤコブは、失われたものを取り戻すために心が逸る。

ヨセフの時代のパロは、エジプト人王朝ではなく、異民族支配(ヒクソス・BC1700-1550 年)と考えられる。古代エジプトの記録にヨセフの業績を見いだすことが出来ないのは、異民族支配を屈辱と考えたエジプト人によって削除されたのであろう(形跡がある)