創世記44章

創世記44章        ユダが頭角を現す

この章には、ヨセフのはかりごとが見える。読者は、その意図を見極める必要がある。ヨセフが復讐の意図をもって企んだわけではない。兄弟たちを困らせてやろうと考えたわけでもない(45:5-8)恐らく、20年の歳月の間に変わったかもしれない、兄弟たちの真相を知る必要を感じたのであろう。妬みと憎しみを募らせて自分を奴隷に売った兄たち。ヨセフが懐疑的な目で彼らを見るのは当然ではないか。今も同じように身勝手な兄たちなのか否か、私たちにも関心の有るところである。しかし、過去の経験だけで兄たちを裁かないところも、ヨセフの寛大さを物語るであろう。

Ⅰヨセフの謀り事

前章は「彼らはヨセフとともに酒を飲み、酔いごこちになった」と結ばれている。

しかし、この夜は“みなが寛いで、楽しい一夜を過ごした”ということで終わらなかった。もしかすると、これさえも計算済みであったのかもしれない。

兄たちは、先頃からの異常な不安が除かれ、食料の買い付けも済ませて、明日は帰るばかり。安堵すると同時に、心身疲れ果てたことであろう。

ヨセフには、まだ確認しなければならないことがある。彼に悪意はないが、謀り事を進めるために周到な準備をする。圧倒的な権力を持つヨセフが、どんな工作もできる自分の土俵で、虎視眈々と隙を窺っているのであるから、勝負は始めから決まっている。兄たちが罠に落ちるのは避けられない。5節の「まじない・・・悪らつだ」などという言葉の伝授は、念がいっている。

ヨセフは「私の杯、あの銀の杯を一番年下の者の袋の口に、穀物の代金といっしょに入れておけ」と命じた。

ヨセフは、ベニヤミンを罠に掛けるように指示する。随分と意地の悪い命令ではあるが、しかし、兄たちの心を見るには、もっとも適確で厳しい手立てである。兄たちが相変わらず利己的・無責任であれば“われ関せず”という事になる。或いは、ベニヤミン救出のために、どれほど懸命になれるかが見ものである。

事情を知らない兄たちは「それが見つかった者は殺してください。そして私たちもまた、ご主人の奴隷となりましょう」と、潔白を主張する。しかし、残酷なことに「その杯はベニヤミンの袋から見つかった。そこで彼らは着物を引き裂き、おのおのロバに荷を負わせて町に引き返した」

「着物を引き裂き」これは、古くから見られる絶望的な悲しみの表現である(創世記37:29)

ヤコブは、着物を引き裂いた時「荒布を腰にまとう」(創世記37:34、イザヤ15:3)ダビデ王の娘・美しい王女タマルは、誰にも言えない悲しみを「灰をかぶる」(Ⅱサムエル13:19)ことで表現した。(エゼキエル27:30-31)

イスラエルは、悲しみの祈りを断食でも表現した(士師20:26)こうして、表現方法は、だんだん重厚になる(ダニエル9:3)

ヨセフの物語では、衣装がキーワードの一つとなっていることも興味深い(美々しい袖つきの長服、血染めの長服、ヤコブやルベンが裂いた着物、ポティファルの妻に奪われた上着、パロの衣服等)

Ⅱ必死のユダ

ヨセフの前に引き出されて、ユダは悲痛な思いをする「神がしもべどもの咎をあばかれたのです」これは、言い逃れや弁解の類ではない。ユダの初めての神認識である。

前章でユダは、兄ルベンが失敗した父親説得を成し得た。そして、14節では「ユダと兄弟たち」と紹介され、16、18節では「ユダが答えた」これ以後、ユダは、絶体絶命の苦境に立たされているが、同時にユダの独壇場でもある。ユダが頭角を現したと申し上げる所以である。

ユダはこれまでヨセフを売った罪責を曖昧にしてきた。内心では忘れることなどできる筈がない。おそらく「御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです」(詩篇32:4)という心境を味わってきたであろう。

そして、いまや追い込まれて「私のそむきの罪を主に告白しよう」(32:5)という境地に引き出されたのではないか。誰に咎められなくても、自らが糾弾する。

「神がしもべどもの咎をあばかれたのです」

ユダは、初めて主の前に立った。それ故、だれを恨むわけでもない。置かれた境遇を呪うわけでもない「あなたさまの奴隷となりましょう」と申し出る。古来“身を捨ててこそ、浮かぶ瀬もある”と言われるが、ユダはまことに潔い。

しかし、ヨセフは「杯を持っているのを見つかった者だけが、私の奴隷となればよい。ほかのあなたがたは安心して父のもとへ帰るがよい」と、執拗に筋を通して来る。

これは、一つ間違えれば兄弟の関係を分断する言葉である。兄たちは試されている“一人の犠牲で済むのなら、それが最善だ”とは、今日も見られる論理である(ヨハネ11:49-50)しかし、その背後に蠢くのは自己保身ではないか。このような場合、選択を間違えれば、分立抗争が避けられない。

「ユダが彼に近づいて(ワィイッグァシュ)言った」

ユダは、自分たちが置かれた状況で、見事にリーダーシップを発揮した。ユダがスポークスマンとなっているが、これは、ユダが兄弟たちを代弁していると考えて良いだろう(ユダ一人の考えではなく、兄弟たちの総意と考えてよい)

ユダは、ヨセフに対して謙虚に言葉を選びながら語りかける。しかし「近づいて」という言葉のニュアンスは、腹を刺し違えるほどの気迫、不退転の決意を感じさせる(創世記18:23,20:4、出エジ3:5)

「父は彼を愛しています」

以前、ヨセフに向けられた父の愛は、兄たちを惨めにした。父の愛は彼らに殺意を抱かせるほど、妬ましいものであった。彼らは、ヨセフに対する父の愛を断じて認めることが出来なかった。その結果、どれほど苦しんできたことか。しかし、今は、ベニヤミンに向けられた父の愛を躊躇いなく口にする(小生の観察では、この時のヤコブの愛は、かつてヨセフに向けられた愛よりもさらに偏執狂的であったと思うのだが・・・)ユダの成長の証か。

「その子は父親と離れることはできません。父親と離れたら、父親は死ぬでしょう」

ユダの念頭にあるのは、自分たちの利害ではない。老いて、ベニヤミンを生き甲斐としているヤコブのために、ひたすら案じる。時は空しく過ぎなかった。時の経過は、兄たちを成熟させた。

また、父ヤコブの嘆きも伝えた「あなたがたがこの子をも私から取ってしまって、この子にわざわいが起こるなら、あなたがたは、しらが頭の私を、苦しみながらよみに下らせることになるのだ」と。そして「私が今、あなたのしもべである私の父のもとへ帰ったとき、あの子が私たちといっしょにいなかったら、父のいのちは彼のいのちにかかっているのですから、あの子がいないのを見たら、父は死んでしまうでしょう。そして、しもべどもが、あなたのしもべであるしらが頭の私たちの父を、悲しみながら、よみに下らせることになります」と訴えた。

「どうか今、このしもべを、あの子の代わりに」

自分を差し出すユダ(この自己犠牲の姿に、やがて来るメシヤの贖罪の萌芽を見ることができる)これ故に、ユダはヤコブの霊的家督権を相続する者にふさわしいと見なされたのではないだろうか。歳月は、しばしば人の心を頑にすることがあるが、また、円熟して柔和にすることもできる“過ちは人の常”と言うが、過去の過ちを如何に克服するかは、人生を決定する大事である。

「あの子が私といっしょでなくて、どうして私は父のところへ帰れましょう。私の父に起こるわざわいを見たくありません」

ユダの懇願は、ベニヤミンに対する思いやりもさることながら、ひたすら、老父ヤコブへの労りに支えられている。これは、特筆すべきことではないか。

ヤコブは勝手気ままに生きてきた男である。これまで、自分の子どもたちから祝福を受け取ったことはなかった。ルベン、シメオンとレビ、ディナ、ベニヤミン、ヨセフのことども、みな悲しみの種であった。この父に、ユダは成し得る限りの誠実を示している。

ユダの利己心を取り除かれた誠実な訴えを、ヨセフはどのように聞いたであろうか。ユダの熱誠を込めた執り成しは、ヨセフのトラウマを癒すことが出来るか。熱誠は実を結ぶだろうか。