創世記43章

創世記43章        再びエジプトへ

飢饉は初めてではない。アブラハムもイサクも経験済みである。それは、いつも死活問題である。この度は、7年も続く(ヤコブの家族は、預言を知るよしもない)先行した7年の豊作は、人心を奢らせ油断させたことか。小泉首相は、米百俵の教訓を巧みに利用した。日本の山村には、今なお、百年以上経た米が保存されていると聞く(食用には不適だが警告になる)

7年飢饉の食糧問題は、一度の買い出しで解決を図れる筈がない。ヤコブは、ベニヤミンを危険にさらすエジプト行きには断固として反対したが、飢えが迫れば背に腹はかえられない「また行って、私たちのために少し食糧を買って来ておくれ」と要請する。

不本意な問題を、しばらく遅延・回避することはできるが、問題の解決には至らない。見せ掛けの建前は崩れ去る時が来る。神に委ね、心を据えて正面から取り組む時に道は開ける(43:13)

Ⅰ決断を迫られるヤコブ

飢饉を迎えると、私たちは“来年は収穫が有るだろう”と楽観したがるが“来年も不作が続いたらどうしよう”と、心は揺れる。翌年も収穫を得られなかった。

食料が底をついた時、ヤコブは再び買出しを要請する。このときユダは、この家ではタブー視されていたことを口にする。彼は父に、エジプトの高官が「あなたがたの弟といっしょでなければ、私の顔を見てはならない」と、命じたことを思い出させる。

父が子に使いを命じることは容易だが、命じる者は事柄の周辺を誰よりもよく理解していなければならない。衝動的、手前勝手な要求であってはならない。ユダは、その事をヤコブに思い出させる。ヤコブは愚痴る「なぜ、あなたがたにもうひとりの弟がいるとあの方に言って、私を酷い目に会わせるのか」原因の究明は重要ではあるが、しばしば、責任のなすり合いに終わる。淵源を訪ねると、ヨセフに対する兄たちの仕打ち、父の偏愛、複数妻の家庭環境・・・と果てしなく広がる。

かつて、ヤコブは決断的な人であったが、老いて、自分の行動が制限されるに及び、消極的・悲観的になったかに見える(老いを老化・後退とせずに、願わくは老成でありたい)

ユダも決意を表明する。彼は、ベニヤミンの同行が不可欠である事を二度念を押す。そして「私自身が彼の保証人となります。私に責任を負わせてください。万一、彼をあなたのもとに連れ戻さず、あなたの前に彼を立たせなかったら、私は一生あなたに対して罪ある者となります」

先に、ルベンの言葉には耳を貸さなかったヤコブであるが、今や、ユダの真情に打たれ勇気づけられて、ヤコブらしさを取り戻す(もちろん、時間の経過も影響している)

ユダの言葉とルベンの言葉(42:37)は、そんなに違うのだろうか。敢えて言えば、ルベンの言葉の方が感情的に聞こえる。ユダの方が好感を持てるが、それがすべてではあるまい。むしろ、切羽詰り、状況が整ったと言うべきである(箴言25:11)ついに、ヤコブが心を動かす(カーマイケルの父が、石切り場で娘に語った教訓を心に留めたい)

ヤコブは決意する「弟を連れてあの方のところへ出かけて行きなさい。全能の神がその方に、あなたがたをあわれませてくださるように。そしてもうひとりの兄弟とベニヤミンとをあなたがたに返してくださるように。私も、失うときには、失うのだ」

悲壮な心情を覗かせているが、心は既に整った。後に、ペルシャの王妃となったエステルも、イスラエルの娘であることを証した(エステル4:16)

かつてヤコブは、神の時を待ちきれないで父の祝福を欺き取った。彼は両親の家を離れ、裸一貫から巧みに財を形成した。彼は、いつも労苦の実を確保してきた。しかし、どんなに迂回しても、通過すべき関門は回避できないようだ(信仰の奥義は、握る事ではなく手放すことか)

状況こそ異なるが、ここには、イサクを祭壇に捧げるアブラハムの心に通じるものが有る。信仰の父たちは、肉の弱さを帯ながらも、極限状況で神に委ね信頼する事を学んだと言えよう。

こうして、兄たちは、父のアドバイスに従い「贈り物を携え、それに二倍の銀を持ち、ベニヤミンを伴ってエジプトへ下り、ヨセフの前に立った」

Ⅱ兄弟の再会

誰よりもこの時を待ち侘びていたヨセフが、ベニヤミンを見るや、管理者に特別な指示を出した。「この人たちが昼に、私といっしょに食事をするから」とは、別格な扱いである。ヨセフとしては、兄弟との再会に公的な場を避けたのであろう。

しかし、兄たちは恐れた。思い当たることが、みな悪い予感を引き出す。代価の事も弁明しきり。しかし、管理者は「安心しなさい。恐れることはありません」と、最高の挨拶で応対する。かくして、ヨセフの家に導かれ、良い待遇を受ける。

「ヨセフが家に帰って来たとき」彼らは「地に伏して彼を拝んだ」(37:7、9)夢の成就である。

「あなたがたの年老いた父親は元気か」

ヨセフは真っ先に父の安否を問う。他人は、老人の偏愛と言うかも知れない。しかし、ヨセフには“愛してくれた父、かけがえのない父”である。

「まだ生きているのか」

生きているなら、一目会いたいと願わないだろうか。帰れぬ身ではあるが、帰心は矢の如くか。

「わが子よ。神があなたを恵まれるように(エローヒーム・ヤーヘンカー・ベニー)」

ヨセフはベニヤミンを見て祝福を与えた「わが子よ」というのは、父が、或いは高位にある者が、親しみを見せる呼びかけである。実際には、エジプトの高官が、買出し人の若者に呼びかけるような言葉ではない(もちろん、冗談交じりに、或いは歓待表現として儀礼的にも使うことはあるだろう。ここでも、ヨセフはさりげなく用いたのであろう)

ヨセフは、自分をひどく扱った兄たちが、弟ベニヤミンを公正に扱っているとは、とても期待できなかったであろう。ヨセフが疑い深くなっているのは致し方ない。

「神があなたを恵まれるように」

この言葉は、モーセによって、祭司たちの祝福の定型句とされた言葉の源流と言えるだろう。祭司たちは、イスラエルの子らに「主があなたを祝福し、あなたを守られますように。主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように」(民数記6:24-26)と、懇ろな祝福を祈る。

ヨセフが号泣する。

ヨセフは未だ、自分の正体を明かすわけにはいかない。理性は堪えるが、感情はこれを突き破る。冷静沈着なヨセフといえども、この感情の高まりをコントロールすることはできなかった。彼は、涙を見せるわけにはいかないので「急いで奥の部屋にはいって行って、そこで泣いた。やがて、彼は顔を洗って出て来た」

「エジプト人はヘブル人とはいっしょに食事ができなかったからである。それはエジプト人の忌みきらうところであった」

これは、後の律法が教える食物禁忌の故ではない。しかし、王の近臣たちの食卓と、遊牧民たちの食卓では、食材も調理方法も、食卓のマナーも異なるのは当然である。そして、ある人々には、それは見過ごしにできない事柄である(ガラテヤ2:11-12)

兄たちの座席を指定したのはヨセフであった。共同訳は「兄弟たちは、いちばん上の兄から末の弟まで、ヨセフに向かって年齢順に座らされたので、驚いて互いに顔を見合わせた」と訳出する。

もしかすると、ヨセフは兄たちに、気づくチャンスを与えたのかもしれない。もちろん、一座の余興として笑い過ごしたかも知れない。

「ベニヤミンの分け前は、ほかのだれの分け前よりも五倍も多かった」五は、エジプトの吉数と言われる(47:2)この度、ベニヤミンが特別な立場にあることは明らかである。お祝儀という形をとって、ヨセフがベニヤミンに厚意を見せたのであるが、尋常ではない。しかし、常識を超えていることで、冗談として受け入れることができるのかも知れない。

シメオンの件は「シメオンを彼らのところに連れて来た」(23節)として、それ以上の言及がない。著者の関心は、もっと大きなテーマに向けられている。