創世記42章

創世記42章     食物を求めるヤコブの子ら

エジプトで預言された飢饉は、当時の「全世界にひどくなったので、世界中が穀物を買うために、エジプトのヨセフのところに来た」

ヤコブは、飢饉を迎えても、エジプトへ下ることを潔しとしなかった。父祖の伝承によれば、飢饉の年でも、神はアブラハムやイサクがエジプトに下ることをよしとされなかったからである。

この物語を伝えているモーセは、イスラエルをエジプトから解放した立て役者である。モーセは、エジプトに下ることがどんなに大きな代償を払うことになったか、誰よりも良く知っていた。

しかし、背に腹はかえられません。ヤコブは、躊躇いを感じている息子たちを買出しに促します。

Ⅰ重い腰を上げてエジプトへ

「あなたがたは、なぜ互いに顔を見合っているのか」

ヤコブの目には、この期に及んでも、なお躊躇う息子たちの様子が訝しい。エジプトが、息子たちに禍々しい記憶をよみがえらせていることを、父は知らないからである。

ヨセフの兄たちにとって、エジプトを思い出すことは苦痛である。泣き叫んだであろう弟ヨセフを売ってから、すでに20年が経過している。しかし、古傷を思い出させられて心が痛む。彼らが躊躇した理由が此処にある。子らは、父と同じ痛みを経験することになる(ヤコブとエサウの再会)

「私たちは生きながらえ、死なない」

この物語の底流には「生きる」がある。生は、常に死と隣り合わせの緊迫した状況に置かれている(ヨセフのこと、冤罪、飢饉、エジプトでの監禁など)人は死を直視しながら、生への選択と決断を余儀なくされる。結局「死なない」ための方策を講じざるを得ない。

しかし、ヤコブはベニヤミンを手放せない。今は、ベニヤミンを温存するヤコブの主張が通るが、それは個人的な願望である。周囲の事情が変われば、固執することはできない。

ベニヤミンは、もはや子どもではない(46:21)ここには、ヤコブが克服しなければならない課題がある。ベニヤミンとの絆の聖別である。それは生木を裂くような痛みを伴う(42:38、43:14)

Ⅱヨセフの前に出る兄たち

ヨセフは、兄たちが食料を買出しに来る日を心待ちしていたであろう。復讐心はないが、情報を集めていたと考えられる。そこへ、兄たちが来て「顔を地につけて彼を伏し拝んだ」これは、かつての夢の実現である(37:9)ヨセフは夢を思い出したに違いない。ヨセフは、一目で兄たちを見分けることができたが、兄たちはヨセフを予期することもなかった。

「あなたがたは、どこから来たのか」

ヨセフは、荒々しい言葉を投げかけて見知らぬ者のように振る舞う。そればかりではない「あなたがたは間者だ。この国のすきをうかがいに来たのだろう」と難癖をつける。

これは、話の糸口を見出すためであったろう。また、身辺の事情を聞きだすには、都合の良い状況を造り出すことになる。それによって兄たちが身の上話をするように導く。

ヨセフには、父の消息や弟ベニヤミンの安否が気になる。自分を不当に扱った兄たちが、老いた父や弟ベニヤミンに酷い仕打ちをする可能性はあり得る。

ヨセフは、兄たちの言葉を鵜呑みにするには、余りにも多くの苦労を重ねてきた。かつては無防備であったが、今は、確証がなければ軽々しく信じることはできなくなっている。

Ⅲヨセフの提案

「あなたがたは間者だ・・・あなたがたをためそう・・・あなたがたの末の弟がここに来ないかぎり、決してここから出ることはできない・・・弟を連れて来なさい。それまであなたがたを監禁しておく。あなたがたに誠実があるかどうか、あなたがたの言ったことをためすためだ」

問答無用・一方的で乱暴な主張であるが、これは、兄たちが払わねばならなかった代償である。

「次のようにして、生きよ。私も神を恐れる者だから」

ヨセフの兄たちは、三日間とは言え、いきなり投獄されて肝を冷やしたことであろう。ヨセフは、三日目に、主張を改める。内容は、たいそう譲歩したものとなる。最初は「あなたがたのうちのひとりをやって、弟を連れて来なさい」と高飛車であった。その条件は緩和され「あなたがたの兄弟のひとりを監禁所に監禁しておいて、あなたがたは飢えている家族に穀物を持って行くがよい。そして、あなたがたの末の弟を私のところに連れて来なさい」と。ヨセフの発言や行動には、ベニヤミンの無事を確認したい、無事な姿を見るまでは・・・との思いがある。

「ああ、われわれは弟のことで罰を受けているのだなあ。あれが我々にあわれみを請うたとき、彼の心の苦しみを見ながら、我々は聞き入れなかった。それで我々はこんな苦しみに会っているのだ」

兄たちが、格別な悪人集団だったわけではない。しかし、あの時は、誰かが言い出した言葉に流されてしまったのであろう。それは、拭いきれない悔恨の苦しみとなって後々まで纏わりつく(加害者のトラウマ)

ルベンは、取り返しのつかない繰り言をいう。彼は「今、彼の血の報いを受けるのだ」と、自分の罪を肯定している。これは、絶望的な認罪と悲嘆の場である。

「ヨセフは彼らから離れて、泣いた」

こうして、シメオンが残ることになる。理由は定かではない。しかし、シメオンを選んだのはヨセフだった(遺恨なしとは言えない)断定的なことは言えないが、適当な人選だったのであろう。

ヨセフは、兄弟たちに、食料購入代金を戻す。これは、単純な善意(後にベニヤミンを陥れる罠に通じる)だが、兄たちはそれさえも恐れおののいた。

Ⅳヤコブの悲しみ

とにかく、兄たちは食料を手にしてヤコブのもとに帰る。彼らは、エジプトで経験したことを、詳しく父に報告するが、シメオンを置いてきた事については一言も弁明がない。兄たちは、神の摂理におののく一面を見せるが、余り深く悲しんでいる様子はない。

父ヤコブは嘆く「あなたがたはもう、私に子を失わせている。ヨセフはいなくなった。シメオンもいなくなった。そして今、ベニヤミンをも取ろうとしている。こんなことがみな、私にふりかかって来るのだ」と。シメオンはヤコブを悩ませた不肖の子であるが、父ヤコブには、シメオンもヨセフやベニヤミンと等しく悲しみの子なのである。

ルベンは長男らしく、兄弟を代表して父に約束する「もし私が彼をあなたのもとに連れて帰らなかったら、私のふたりの子を殺してもかまいません。彼を私の手に任せてください。私はきっと彼をあなたのもとに連れ戻します」と。

しかし、ヤコブはルベンを信頼することができないようだ。ヤコブは、ヨセフのことでは、思い出しても身震いがする。ヨセフが戻らなかったあの日のことを、ヤコブは生涯忘れることができない。今、ベニヤミンを行かせるのは、同じ悲劇を再現させることだと予感する。老いたヤコブには、最早かつての覇気が見られない。

この章では、ルベンの発言が目立つ。しかし、問題を解決したり、光明を与えるようなものではない。取り戻せないことへの愚痴であったり、父の前で何とかして長子の面目を保つように努力はしているが、父の信頼を勝ち得る説得力はない。

ヤコブはベニヤミンを案じ「もし彼にわざわいがふりかかれば、あなたがたは、このしらが頭の私を、悲しみながらよみに下らせることになるのだ」と嘆く。

ヤコブはベニヤミンを手放すことが出来るだろうか(因みに、ベニヤミンは、すでに子どもではない。10人の息子の父である。46:21)

見方を変えると、ヨセフのことは、ヤコブの偏愛に端を発している。それは、今、ベニヤミン問題に引き継がれている。外の兄弟たちのためには、ヤコブはこれほど苦しんだとは思えない。乱暴な言い方ではあるが、自縄自縛である。その間に、様々なことが入り込んでいるが、本質的には、ヤコブの偏愛が問われていると言えないだろうか。それにも拘わらず神の経綸は進む。