創世記41章

創世記41章       ヨセフ、パロの夢を解く

献酌官長は「ヨセフの事を思い出さず、彼の事を忘れてしまった」ヨセフといえども、期待が大きかったであろうから、腹立たしく失望・落胆の思いを抱いたであろう。恩知らずと言うべきか。

「それから二年の後」

二年の空白は長いか短いか。ヨセフはどのような日々を過ごしたのか。時は希望によって支えられる。空しく過ごす日々は、耐え難いほど長く感じられるものだ。子供たちが“もういくつ寝るとお正月”と待つのは楽しい。昨今は、様々なカウント・ダウンがある。待ち侘びつつ諸般の条件を整え、希望の日に向かって一日ずつ近づいて行く。

ヨセフの場合、一条の光が差し込んできたかと思えたのも束の間、その光は一向に増幅しない。ヨセフは、この2年をどのように凌いだのであろうか(39:21,23)

しかし,ついに、神の遅延の理由が明らかになる。神はヨセフの時が来るまで、ポティファルの獄中でヨセフを保護したのである。後日、ヨセフが兄達に向かって語った言葉は、この体験を通して、神の経綸を学んだ者だけが言い得るものではないか。

「私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです」(45:5)

「恐れることはありません。どうして、私が神の代わりでしょうか。あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした」(50:19-20)

私たちは、祈りの答えを待たされる時、このように厳しい真実に耐えられるだろうか(ヘブル11:1)

Ⅰヨセフがパロの夢を解く

パロを困惑させた夢も一対であった。

「肉づきの良い七頭の雌牛・・・醜いやせ細った七頭の雌牛・・・醜いやせ細った雌牛が、つやつやしたよく肥えた七頭の雌牛を食い尽くした」

「肥えた良い七つの穂・・・東風に焼けた、しなびた七つの穂・・・しなびた穂が、あの肥えて豊かな七つの穂をのみこんでしまった」

夢としても、見過ごすには後味が悪い、不気味な夢である。神は、パロがこの夢に心を留めるようにと、二度語りかけてくださった。神の懇ろな取り扱いである。しかし、その意味が明らかにされるまでは心を安んじることの出来ない類の夢である。

「朝になって、パロは心が騒ぐ・・・人をやってエジプトのすべての呪法師とすべての知恵のある者たちを呼び寄せた。パロは彼らに夢のことを話したが、それをパロに解き明かすことのできる者はいなかった」

呪法師とすべての知恵のある者たちは、王の高官・近臣であり、高禄を貪る連中だが、彼らは、真に必要なときに役に立たない者たちである。

二つの夢の不気味さは、先在する良いものを、後から来た悪いものが食い尽くす(飲み尽くす)ことにある。パロの心が騒ぐのも無理はない(ダニエル2:1、3、4:19)

その時、献酌官長は、忘却という長い眠りから覚めた。彼は、勇気を奮い起こしてパロの前に立ち「私はきょう、私のあやまちを申し上げなければなりません」と上奏する。

献酌官長は、自分が獄中で見た夢を、ヨセフと言うヘブル人の青年が解き明かしてくれたこと、その言葉通りに自分が解放された事を証言した。こうして、ヨセフは「ひげをそり、着物を着替えてから、パロの前に出」ることになった。

ヨセフは自分に向けられたパロの評価「あなたは夢を聞いて、それを解き明かすということだが」を正す「私ではありません(ビルアーダーイ)神がパロの繁栄を知らせてくださるのです」(44節)概して、王や高官の周囲には、自分を売り込みたくて虎視眈々としている連中が多いものである。パロが名君であるなら(ヨセフを起用したパロは尋常の人ではなかった)ヨセフの言葉に感服したであろう。ヨセフには、誰もがやりたがる自己顕示が見当たらない(成長の証か、37:7,9)

パロがヨセフに語った夢は、始めの紹介よりも詳細に語られている。たとえば「弱々しい、非常に醜い、やせ細ったほかの七頭の雌牛が上がって来た。私はこのように醜いのをエジプト全土でまだ見たことがない。そして、このやせた醜い雌牛が、先の肥えた七頭の雌牛を食い尽くした。ところが、彼らを腹に入れても、腹にはいったのがわからないほどその姿は初めと同じように醜かった」

これは尾鰭のついた誇張ではない。夢を見て以来、パロの中で苦悩の日々が続き、恐れが増幅したことを反映しているのではないだろうか。

ヨセフの夢解きは明解「パロの夢は一つ・・・七頭のりっぱな雌牛は七年・・・七つのりっぱな穂も七年・・・七頭のやせた醜い雌牛は七年・・・東風に焼けた萎びた七つの穂もそうです。それはききんの七年」と、将来を予測する。

ヨセフは「神がなさろうとすることをパロに示されたのです」と、賢明に語る。

それは、七年の大豊作と、それを忘れさせる七年の飢饉の到来を告げるものである。ヨセフは、夢が二度繰り返されたのは「このことが神によって定められ、神がすみやかにこれをなさるからです」と理解した。

ヨセフは、行政上のアドバイスをする。その心は「啓示に応えて行動し、飢饉に備え、滅びを免れよ」と要約できる。見事ではないか。少しも自分の利害を考えていない。自分の立場を自分の利益に直結させる為政者は、爪の垢を煎じて飲むが良い。

Ⅱパロはヨセフを行政長官とする

こんなに知恵にあふれ、公正で、利己心のない潔いアドバイスを、パロはかつて聞いた事があっただろうか。ヨセフのこの精神は、先にポティファルの家を富ませた。この後、エジプトを富ませることになる。忠実と言う言葉は、忠君愛国によって汚されたが、神の前に忠実でありたい。

賢明なパロは躊躇わなかった。彼は「神の霊の宿っているこのような人を、ほかに見つけることができようか」と言って、ヨセフを認め「神がこれらすべてのことをあなたに知らされたのであれば、あなたのように、さとくて知恵のある者はほかにいない。あなたは私の家を治めてくれ。私の民はみな、あなたの命令に従おう。私があなたにまさっているのは王位だけだ」と断言する。

パロが全権を委任したので、ヨセフはエジプトのナンバー2となる。その権威は「指輪、衣服、首飾り、車」などのしるしによって明らかにされる(ルカ15:22)

ヨセフ時代のパロは、外来の侵入民族(ヒクソス)と考えられる。エジプト人王朝よりも、ヨセフを起用し易い立場にあったであろう。この王朝が倒れると、イスラエルの子らの立場は一転して奴隷の境遇に追いやられる。それまで得た特権に対する反動と考えられる。

ところで、パロは賢者か愚者か。王として恐れられているが、神を知らず・・・(ルカ10:21-24)

ヨセフの結婚。パロはヨセフをツァフェナテ・パネアハと呼び「オンの祭司ポティ・フェラの娘アセナテ」を妻とさせた。

高潔なヨセフが家督権を継承しなかったのは、異教の祭司の娘と結婚したからだと論じる者もあるが、根拠がない。この結婚は特に咎められてはいないと思う。王が介入しているのは、王の厚意の証と考えたら良いのではないか(ヨセフは、マナセとエフライムの2部族となる)

ヨセフに二人の男の子が与えられた。それぞれの名は、マナセが「神が私のすべての労苦と私の父の全家とを忘れさせた」に基づき、エフライムは「神が私の苦しみの地で私を実り多い者とされた」に由来する。いずれも、慰めと喜びと感謝の告白である。

ヨセフの手腕

繁栄の中で怠りない(バブル経済の時代に、日本国民はヨセフが居なかった悲劇を味わった。日銀総裁は、ゼロ金利時代に富を増やした)

豊作が続くとたちまち持て余し(古古米)1年凶作が訪れるとたちまち米価が高騰する我々の政治の貧困さが情けない。

エジプトに食物が集まり、必然的に人々がエジプトに集まる。