創世記40章

創世記40章       夢見る男が、夢解く男に

ヨセフは、獄中で献酌官と調理官の夢を解き、やがてパロ王の夢をも解く事になる。しかし、読者にとって一番興味深い彼自身が見た夢は、依然として謎に包まれたままである。

登場する夢は、皆一対で語られている。繰り返された夢は、見た者の記憶に深く止まり、解かれるまで重荷となったことであろう。夢見るヨセフは、自分が見た夢のために妬まれ苦難を受けたが、他人の夢を解きながら、自分自身の役割を認識しつつ成長し、解放を待つ。

Ⅰ献酌官と調理官の夢

「エジプト王の献酌官と調理官とが、その主君、エジプト王に罪を犯した」

王の二人の近臣が「王に罪を犯した」彼らが何をしたのかは告げられていない。彼らが拘留された理由は不明であるが、王の逆鱗に触れて投獄された。聖書の目的は、週刊誌のように、それらを暴き出すことにあるのではない。しかし、二人とも飲食に関する職務についていた事を考え合わせると、理由はいくらでもある(私たちの時代を顧と連想が働く。儀礼上の躓き、権利の乱用、物資の横流しや盗用、或いは王の気まぐれ等・・・と、枚挙に暇がない)

「侍従長はヨセフを彼らの付き人にした」

侍従長とは、ポティファルのことらしい(39:1)侍従長と監獄の長とは別人と考えれば、この計らいは、侍従長の特別な肝いりと考えられる。彼のヨセフに対する好意の表れであろう。

「献酌官と調理官とは、ふたりとも同じ夜にそれぞれ夢を見た」

「その夢にはおのおの意味があった」と解説されている。意味のある夢なら、それが明らかにされるまで、心は穏やかでない。彼らの様子は、ヨセフの目に「いらいらして(ザーアフ)」見えた「ザーアフ」は、手の付けられないような苛立ちをも表現する・箴言19:12)

二人の内心の苛立ちを目ざとく発見したのはヨセフである。ヨセフは「彼らのところに行って、よく見て」気づいた。他の者であれば見過ごしたかも知れない。職務は、監獄の中で仕えることであったが、ヨセフの忠実さが光を放つ。怠慢が引き起こす事故が繰り返し報道される昨今、ヨセフの配慮は小事に忠実な模範である(ルカ16:10)

「なぜ、きょうはあなたがたの顔色が悪いのですか」と、ヨセフは訊ねる。

問題が大事であることを知った後も「解き明かすことは、神のなさることではありませんか。さあ、それを私に話してください」と踏み込む。こんな時、普通の常識人は遠慮をする。しかし、ヨセフは天真爛漫、天衣無縫だ。

人はなぜ、路傍の占い師に自分の未来を訊ねるのだろうか。そこには信頼関係などある筈がない。それでは何故。行きずりの興味だけではあるまい。周囲に心を許す相談相手がいないからではないだろうか。一方では、藁にも縋りたい思いを抱え、他方では、容易に心を開けない自己矛盾を抱えるのが多くの人間の現実であろう。人とは、なんと悩み多いものであることか。

Ⅱヨセフの夢解き

献酌官の夢は、一本のぶどうの木、三本のつる。それが、芽を出し、花が咲き、実が熟する。その実を摘んで、杯に絞り、パロにささげるというもの。

私達の目にも、不安を暗示するものは何一つ考えられない。それでも、当事者には不気味で、苛立ちを押さえることができなかった。当事者心理とは楽観できないものであることを理解したい。

ヨセフは明解に「三本のつるは三日・・・三日のうちに、パロはあなたを呼び出し、あなたをもとの地位に戻す。あなたは、パロの献酌官であったときの以前の規定に従って、パロの杯をその手にささげましょう」と、解放を告げた。この時ヨセフは、幸運な献酌官に自分の希望を託した。

「あなたが幸せになったときには、きっと私を思い出してください。私に恵み(ヘセド)を施してください。私のことをパロに話してください。この家から私が出られるようにしてください」

ヨセフは、自分がヘブル人であること、さらわれて来たこと、ここでも冤罪を蒙っている事を弁明し、助力を要請する。自分を語らなかったヨセフが初めて上げた叫びである。小生は、ここにも「キリエ・エレイソン」の源流を見る思いがする(ルカ17:13、18:13,38、マタイ15:22、17:15)

懸命に懇願するヨセフの姿が見える。外界と直接な関係を持ち得ないヨセフにとって、これは、千載一遇・滅多にないチャンスと思えたことであろう。しかし、献酌官長は、自分が解放された喜びと、復職して激務に追われたのであろう「ヨセフのことを思い出さず、彼のことを忘れてしまった」(ルカ17:18)他意はなかったであろうが、人生には良くある擦れ違いだ。しかし、これさえも、遠大な神の計画のもとにあったことを、私たちは後に知ることになる。

事の重大性と優先順位は、それぞれの見方によって異なる。ヨセフにとって、監獄からの釈放は、目下のところ最重要課題と思われる。しかし、献酌官の立場に立ってみると、彼はいつでも自由にパロに話しかけることが許されているわけではない。それ故、チャンスを待たなければならない。そして、チャンスの訪れが遅いと、いつしか忘れ去ることになる。

情けないことである。ヨセフは忘恩を罵りたい気持ちになるであろうが、世間では良くあることではないだろうか。しかし、物語を読み進めると、神の配剤を心に刻むことになる。

イスラエルの知者は「黙っているのに時があり、話をするのに時がある」(伝道者3:7)と言うが、時は、神の手の中にある。神の時は、早すぎることも遅すぎることもない。

もし、この時ヨセフが解放されていたら、ヨセフはエジプトの市井の中に紛れ込んでしまったであろう。神は、絶妙の時が訪れるまで、ヨセフを言わば獄中に冷凍保存されたのである。蛇足ではあるが、今日、不遇の身を囲う者があるならば、神に信頼せよ「主に信頼する者は、失望させられることがない」(ローマ9:33、10:11、イザヤ28:16)主は必ず訪れてくださる。

調理官の夢は「枝編みのかごが三つ・・・一番上のかごには、パロのために調理官が作ったあらゆる食べ物がはいっていたが、鳥が私の頭の上のかごの中から、それを食べてしまった」

意味は不明だが、私たちの耳にも、些か不気味な響きを持つ。専制君主であるパロへの献上物を、野鳥が啄ばむ。そんなことが許されるだろうか・・・。

ヨセフは「三つのかごは三日のこと・・・ 三日のうちに、パロはあなたを呼び出し、あなたを木につるし、鳥があなたの肉をむしり取って食うでしょう」と告げなければならなかった。これもまた、辛い勤めである。こうして、二人の夢は明暗を分けることとなった。

Ⅲ夢解きの結末

「三日目はパロの誕生日であった」

パロは「自分のすべての家臣たちのために祝宴を張り、献酌官長と調理官長とを、その家臣たちの中に呼び出した。そうして、献酌官長をその献酌の役に戻したので、彼はその杯をパロの手にささげた。しかしパロは、ヨセフが解き明かしたように、調理官長を木につるした」

献酌官は恩赦にあずかり、調理官は死刑に処せられた。生と死の間は一歩のみ(Ⅰサムエル20:3)それにも拘わらず、献酌官はヨセフが念を押した約束を忘れる。彼に悪意はなかったと思うが、亡恩・違約には違いない。彼自身の事を顧ば、すぐにしなければならないことがたくさんあったであろう。解放後は忙殺されていたに違いない。

かくして、ヨセフに与えられたチャンスは、献酌官の不注意で潰えたように見える。しかし、神はヨセフの為に、さらに絶妙な機会を持っておられた。ヨセフは何処へも行くことの出来ない獄中で、最大のチャンスの為に、今しばらく忍耐が求められている。

後日の展開を知る私達は「神のなさることは、時に適って麗しい」(伝道3:12)と言えるが、獄中に取り残されたヨセフの落胆は想像に難くない。軽々しく“後の展開を考えれば、あれで良かったのだ”などと言ってはならない。ただ、神が万事を益としてくださる(ローマ8:28)

このような経験を通して、ヨセフは、神の摂理を受け止める心(創世記50:20)を養っていただいた。もう一度掲げる「主に信頼する者は、失望に終わることがない」これが、信仰の先輩たちが見出した確信であり結論である(坂本竜馬が絶望した時、陸奥宗光が高杉晋作の信念を伝えたとか)