創世記4章

創世記4章1-6         カインとアベル

「人は、その妻を知った」楽園を追放された人の営みが始まる。

「知る(ヤーダー)」とは、本来(神を知る、真理を知るなど)豊かな言葉である。ここでは、夫婦の関係を婉曲に美しく表現する(25節にも繰り返されている)が、言葉の意味の変遷は人間性の無残な歴史を証言する。後には凶暴な強姦者たちも用いる(創世記18:5-9、士師19:22)

私たちは、知識の本源が神にあることを知っている(箴言1:7)が、皮肉なことに動詞ヤーダーは、初めに蛇が発し、人が倣うという不幸な経緯を持っている(3:5,7)このように、人の罪は本来の美をゆがめ、創造の輝きを汚れに変えてきた(それでも、本来的なものを全く失ったわけではない)

Ⅰカインとアベル(4:1-6)

1、子どもたちの誕生と命名

二人の間に長子が生まれた。失楽園後、労苦に満ちた生活の中で初めて得た喜びである。堕落後、何もかも奪い取られたようで、疑心暗鬼にならざるを得なかったであろうが、創造の祝福「生めよ、ふえよ、地を満たせ」が、失われていないことを確信したときでもある。

なるほど、出産は苦しみであった。不安も募ったに違いない。しかし、彼らの喜びと期待は、子の命名に伺える。エバは産みの苦しみを忘れて「私は、主によってひとりの男子を得た」と歓喜の声を上げた(カインとは獲得するとの意を持つ)堕落以来、失うばかりの日々であったが、初めて無垢と見える愛児を手にしたのである。生命の誕生は苦痛を忘れさせた。

「彼女は、それからまた、弟アベルを産んだ」この度は、カイン出産のときのような賛美(或いは凱歌)が欠落している。不気味なほど無感動である。しかも、アベルとは「息、はかないもの」を意味すると言われる。カインの命名との落差は何故か。

想像する外ない。第一子の子育で、絶望的な悲しみを経験したのだろうか。実際、出産に続く育児の日々は単純な喜びではない。罪の侵入は、あらゆる創造の秩序を損なったのである。無垢と見えたカインも憎まれ口をきき、禁じられたことに興味を持ち、罪人の様子を伺わせたであろう(子煩悩な川越陽兄の言葉“人は生まれながらにして罪人なんですね”)

2、カインとアベルの生活

「アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった」

エジプトで宰相となったヨセフは、兄たちをパロに引き合わせるに先立って「私たちも、また私たちの先祖も家畜を飼う者でございます」と言わせる。その背景には「羊を飼う者はすべて、エジプト人に忌みきらわれている」(創世記46:34)事情があった。

創世記の著者は、人が肉食を許されたのは洪水後だと理解している(創世記9:3-4)すると、アベルが「羊を飼う者」となったことは、何を意味するのか。羊毛だけを利用していたと考えるのは不自然である。実際には、人は洪水以前から肉食をしていたと考えられる。アベルは、今日的に言えば非合法な職に就いていたということではないだろうか(されど「主は私の羊飼い」)

カインは「土を耕す者(オベイド・アダマー)」となる。これこそ正統的職業(2:15)ではないか。職業に貴賎はないと言われる。その通りである。しかし、この当時の常識では、カインの選択が正しかったと言えるのではないか。

この兄弟に、主イエスのたとえ話(二人の息子、或いは放蕩息子、ルカ15章)の淵源が見られる。兄息子は、忠実に義務を果たす模範的な子。弟息子は、自己中心で、周囲を気遣うこともない。親の財産を撒き散らして自由奔放に生きる。人生の第一場面は、良い子と悪い子の物語である。兄は飢えや寒さなど知らない。周囲の愛情を受け、義務を果たして誇り高く生きる。内心の欲望は、コントロールされてきたらしい。弟は、意気揚々として家を出たが、財産を失い、人間の非情を見せられ、身も心も傷ついた。さらに屈辱的なのは、身から出た錆に気づいたことか。

人生劇場の第二場面はどうか。どん底で我に返った弟は「父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。立って、父のところに行って、こう言おう『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください』」と決意する。しかし、父は「急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから」と。

兄はどうか、初めて自分を露にする。父に怒りを向け「長年の間、私はおとうさんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか」と。どうやら、この辺に、カインとアベルの祭壇の秘密を解くカギがあるのではないだろうか。

3、二人のささげ物(ヘブル11:4、ルカ18:10-14)

収穫の季節に「カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来た」“カインの捧げ物が劣等であった”などと即断してはならない。カインの労苦の結晶(大地の実り)は、品評会なら優秀賞もの、彼は誇らかに携えて来たに違いない。

「アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持って来た」新改訳第三版は「アベルもまた彼の羊の中から、それも最上のものを持って来た」と改めている。

ところが「主は、アベルとそのささげ物とに目を留められた。だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった」のである。その理由は明らかにされていない。

ヘブル書の著者は大胆に「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています」(11:4)と理解している。これによって、アベルのささげ物が、信仰的であり、すぐれたいけにえであり、義人の証明となったことは分かるが、なぜそうなのかは不明である。小生は、先に述べたように、放蕩息子のたとえ話との関連で読むのが適切であると確信する。

ダビデは「たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません」(詩篇51:16-17)と歌う。この類の告白は多い(詩篇34:18、147:3)

優等生カインの誇らかなささげ物よりも、わが身を恥、顔も上げられないアベルのささげ物を、主は愛でてくださったのではないだろうか(賢い親が、いつも失敗ばかりしている子を、時には過剰にほめるように)しかし、いつも自分が真っ先に話題にされないと面目を失ったように錯覚するカインは、自分が蔑ろにされたように考えて激怒する。そして怒りが正しい判断力を奪う。

4、主はカインに勧告する

カインは、癒しがたい屈辱を受けたと激怒するが、主は事も無げに「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか」と問われる。一体、カインは誰に向かって怒りを覚えているのであろうか。不公平と見える主に対してか、栄誉を失った不甲斐ない己に対してか、横から割り込んできて不釣合いな称賛を博している弟アベルに対してか。普通は、これらが程よくバランスを取って脱線しないですむのである。バランス感覚が壊れると怒りは一番弱い所に出口を見い出す。カインの場合、それがアベルへの怒りであり、殺意であり、殺害である。

カインのささげ物は拒まれたが、カイン自身は決して拒まれていない。主はカインに呼びかける。「罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである」(治めるには様々な見解があるが、スタインベックは治めることができると、可能性をほのめかす)怒りは罪の温床になる。パウロは「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません」(エペソ4:26)と警告している。

怒りは猛威を振るう。そこから離れないと、罪の誘惑に纏わりつかれて身を滅ぼすことになる。神はカインに、怒りを退けて危機を脱することを求める。カインは、際どい瀬戸際に置かれていることを警告されている。決して成り行きに任せてはならないのである。

Ⅱ殺人の代償(4:7-15)

1、兄が弟を殺す

カインは弟アベルに「野に行こうではないか」(七十人訳)と誘う。こうして「ふたりが野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり」兄は弟を殺した。これは謀殺(重罪)と考えられる。カインは治めるべき罪に自ら屈し、罪に支配されることになった。使徒ヨハネは「カインのようであってはいけません。彼は悪い者から出た者で、兄弟を殺しました。なぜ兄弟を殺したのでしょう。自分の行ないは悪く、兄弟の行ないは正しかったからです」(Ⅰヨハネ3:12)と解く。

私たちの耳には、未だカイン誕生の歓喜が余韻を残しているのに、早くもアベルの絶叫を聞くことになる。殺人とは恐ろしい行為であるが、いとも簡単に行なわれる。

自分の身勝手な行為にも拘わらず、カインも罪を悔い改めることを知らない。主がカインに「あなたの弟アベルは、どこにいるのか」(3:9)と尋ねると「知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか」と、平然として白を切る。兄弟の絆は「ふさわしい助け」ではなかったか。

2、殺人の代償

「あなたの弟の血が、その土地からわたしに叫んでいる。今や、あなたはその土地にのろわれている。その土地は口を開いてあなたの手から、あなたの弟の血を受けた。それで、あなたがその土地を耕しても、土地はもはや、あなたのためにその力を生じない。あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となるのだ」

実に、血は叫ぶ。主イエスは「アベルの血から、祭壇と神の家との間で殺されたザカリヤの血に至るまでの、世の初めから流されたすべての預言者の血の責任を、この時代が問われるためである。そうだ。わたしは言う。この時代はその責任を問われる」(ルカ11:50-51)と言われた。

しかし、傲慢なユダヤ人は、主イエスの血に対して「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい」(マタイ27:25)と豪語した。

けれども、あわれみ深い神は、御子の血を贖罪の血として受け入れ、呪いを逆転された。これによって、ヘブル書の著者は「さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る注ぎかけの血に近づいています」(ヘブル12:24)と言い得たのである。

もう一度、立ち止まって考えてみたい。御子の血は、他ならぬ「私たちの罪のために」(Ⅰコリント15:3)流されたのである。それにも拘らず、私たちは「御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめる」(Ⅰヨハネ1:7)と確信する。一体、私たちとカインに、どんな違いがあるのだろうか。これはひとえに、人知を越えた神の救済の奥義である。

「土地はもはや、あなたのためにその力を生じない」

大地に心があれば、どんなに悲しんだことだろう(三国志・骨肉の争いに“豆を煮るに、豆のまめ殻をもって煮る。豆は釜の中にあって泣く。もと、これ同根より生ず。何ぞ、甚だ急なるか”とある)

かつて、大地は耕作されることを楽しんだ。しかし、今や無気力な者のようにみえる。

「あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となる」

モーセは、出エジプトを果たしたイスラエル人に警告した。彼らが約束の地に入った後も「私の父は、さすらいのアラム人でした」(申命記26:1、5)という謙虚な告白を忘れないようにと。預言者風に言えば「切り出された岩、掘り出された穴」(イザヤ51:1)から目を背けるなと教えたのである。なぜなら、この時すでに彼の心には「主は、地の果てから果てまでのすべての国々の民の中に、あなたを散らす。あなたはその所で、あなたも、あなたの先祖たちも知らなかった木や石のほかの神々に仕える」(申命記28:64)との憂いがあった。

創造者の祝福は「地を満たせ」ということであったが、カインは流浪の旅人としてさ迷い出すことになった。人は全地に満ちて「主に向かって喜びの声を上げ」(詩篇100:1)るように造られたが、今やカインの行く先々は、悔恨と恐れの波紋を広げる。

「地を満たす」のと「全地に散らされる」のとは、現象はともかく決定的に異なる。しかし、絶望することはない。主イエスの福音も、迫害によって散らされ、追いやられて広がったではないか。

3、カインの恐れ

「私の咎は、大きすぎて、にないきれません」これが、裁きを宣せられたカインの第一声である。自責や悔恨の念が乏しい。罪の本性は、徹底的に自己本位なものと言えよう。彼は「大きすぎて」と言うが、咎はいずれも人には負いきれないものであることを認識すべきである。

カインは「私に出会う者はだれでも、私を殺すでしょう」と恐れる(今日、凶暴な殺人事件が相次ぐ。被害者の家族は加害者に極刑を望む。報復的な死刑を求めても何一つ回復されるわけではない。しかし、遺族の心情は理解できなくもない。死刑制度を廃止している国がある。制度存置を主張する人々もいる。理解できないのは、犯罪者が死刑を逃れようとすることである。従容として裁きに服する者は滅多に見受けられない)

モーセは「人を殺せるほどの木製の器具で、人を打って死なせたなら、その者は殺人者である。殺人者は必ず殺されなければならない。血の復讐をする者は、自分でその殺人者を殺してもよい。彼と出会ったときに、彼を殺してもよい。もし、人が憎しみをもって人を突くか、あるいは悪意をもって人に物を投げつけて死なせるなら、あるいは、敵意をもって人を手で打って死なせるなら、その打った者は必ず殺されなければならない。彼は殺人者である。その血の復讐をする者は、彼と出会ったときに、その殺人者を殺してもよい」(民数記35:18-21)と復讐を許容する。彼は、社会の制度として復讐(死刑)を容認したが、神が望んでおられない事を承知していた(主イエスは、離婚の問題で、モーセの立場に理解を示した。申命記24:1-4、マタイ19:3:9)それ故、彼はもっと高い倫理観を提示する「復讐と報いはわたしのもの」(申命記32:35)と。

パウロは明解なギリシャ語七十人訳を引用して「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる』」(ローマ12:19)と、ローマの教会に書き送る。

4、主のあわれみ

「だれでもカインを殺す者は、七倍の復讐を受ける」

報復する事は正義であり義務であると考える者たちがいる(米国の同時テロと報復に対する世論)しかし、報復には終わりがない。また被害者が報復したとき、溜飲を下げることはあるだろうが、一体、どこに正義が見られるのか。カインに報復する者は、自分たちがカインと同じことをすることを認めるべきである。報復者は、見下げ果てたカインと自分が同列に並んだことを承知すべきだ。

これが、罪の持つ伝播力の脅威である。カインが罪を犯した時、カインの場が霊的な地盤沈下をしたのである。一つの小さな穴が開いたと言えようか。しかし、周囲が立ち上がって報復を行なうと、カインを囲む周辺全体が、カインと同じように地盤沈下する。すると最早、一つの小さな穴では済まされない。これが罪の破壊力ではないか(されど主は、私たちの所まで下られた・Ⅱコリント8:9)

「だれでもカインを殺す者は、七倍の復讐を受ける」

私たちの耳には、随分むちゃくちゃな宣言に聞える。カインを殺す者は“よくやった”と、称賛されるべきではないのか。こんなルールは未だかつて誰も聞いたことがない。モーセの時代に知られていたのは、ハムラビ法典の“同態復讐法(目には目を、歯には歯を)”である。

これは、人が未だかつて思いも及ばなかったことである。神だけが語りうる言葉である。言うまでもないが、神がカインを贔屓しているのではない。報復を止める神の意志を聞く思いである。

「主は、彼に出会う者が、だれも彼を殺すことのないように、カインに一つのしるしを下さった」創造者が人に与えたしるしは、神のかたちである。神のかたちを汚したカインは、いかなるしるしを得たのか。知るよしもない。しかし、推測してみよう。

イスラエルでは、ツァラアトに冒された者は、自ら「汚れている、汚れている」(レビ13:45)と、言葉のしるしを発した。破滅的な屈辱「罪から来る報酬は死」(ローマ6:23)との告白ではないか。

しるしと言えば「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい・・・これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい」(申命記6:4-9)カインのしるしは福音的だったかも。死すべき者に和解を委ねた如く(Ⅱコリント5:18-19)

Ⅲカインの末裔(4:16-26)

1、エデンの東

「カインは、主の前を去って、エデンの東、ノデの地に住みついた」ノデは放浪・逃亡を意味する。夕べが訪れ、入陽に誘われるようにして西方に目を向けるとき、美しく暮れなずむ光景は、西方浄土を偲ばせたことか(因みに、園を追われた人は、エデンの東に住んだ、3:23。カインはさらに東に向かったのであろうか。或いは、東に特別な意味があるのか。2:8の東は何処から見るのか)

東の引用(エゼキエル43:2,4、44:2、47:1、創世記13:4,28:14、申命記3:27、詩107:3)

カインは、とにかくノデの地に住み着くことになった。

2、カインの家族

カインの妻の名は知られていない(これは、5章のアダムの系図においても同様である。私たちはエノクやノアの妻の名さえも知り得ない。このスタイルは、マタイ1章の系図でも同様である。女性の名が出てくるのは例外的であるが、皆無ではない)

カインの系図は、七代目まで記録されている(因みに、セツの系図はノアの子どもで十代)名を一覧すると、カイン、エノク、イラデ、メフヤエル、メトシャエル、レメク、レメクの子はヤバル、ユバル、トバル・カイン、その妹がナアマ(カインの家系とセツの家系の名前には類似性がある)

3、六代目レメクとその家族

レメクは、二人の妻を娶った(最初の複数妻)アダとツィラである。

アダの子ヤバルは「天幕に住む者、家畜を飼う者の先祖となった」遊牧民の祖ということか。

ヤバルの弟ユバルは「立琴と笛を巧みに奏するすべての者の先祖となった」音楽家の誕生である。

ツィラの子トバル・カインは「青銅と鉄のあらゆる用具の鍛冶屋であった」科学技術の革新は、不幸なことに兵器の開発に貢献してきた(原子物理学の申し子は核兵器)

レメクの子供たちは、それぞれ文明の創始者となった。ある人々は、楽器はカインの末裔が生み出したものだと言う理由で、音楽を否定的に見る(極端な例だが、ある人々は礼拝に楽器を用いず、賛美は詩篇だけを詠う)楽器に限らず、文明の申し子を享楽的なものにするか否かは、それを操る人々の問題ではないだろうか。

出エジプトを果たした時、モーセの姉ミリアムとイスラエルの女たちは、タンバリンをたたいて賛美し踊った(出エジプト15:20-21)

イスラエルの預言者たちは、早くから礼拝に楽器を用いていた事実がある(Ⅰサムエル10:5)

ダビデは若い日から音楽を愛した。彼がかきならす立琴の音色は、狂気のサウロ王の心を静めるのに役立った(Ⅰサムエル16:14、16、18、23、18:10-11)

ダビデは、宮中のまつりごとのために聖歌隊を組織させている。「四千人は、私が賛美するために作った楽器を手にして、主を賛美する者となりなさい」(Ⅰ歴代23:5)

「祭司たちは、その務めに従って立ち、レビ人も、主の楽を奏する楽器を手にして立っていた。これは、ダビデ王が作ったものであり、ダビデが彼らの奏楽によって賛美したとき『主の恵みはとこしえまで』と主をほめたたえるための楽器であった。また、祭司たちは、彼らの前でラッパを吹き鳴らしており、全イスラエルは起立していた」(Ⅱ歴代7:6)

「私のたましいよ。目をさませ。十弦の琴よ。立琴よ、目をさませ。私は暁を呼びさましたい」(詩篇57:8)この類の詩は枚挙にいとまがない。

4、レメクの不穏な歌には、どんな背景があったのであろう。

「アダとツィラよ」と、妻たちに呼びかける歌い出しは、いかにも酔どれのたわ言に聞える。彼が受けた傷が何か、私たちには明らかでない。彼が常軌を逸した振る舞いをした事「私の受けた傷のためには、ひとりの人を、私の受けた打ち傷のためには、ひとりの若者を殺した」ことは明らかなようである。しかも「カインに七倍の復讐があれば、レメクには七十七倍」とうそぶく。

レメクを全人的に知ることは不可能だが、彼が自分の暴虐な行為を正当化して恥じない独善主義、自己顕示欲の強い男であることは明瞭である。専制君主の中には、レメクの同類を見ることがある。

Ⅳほのかな希望

アダムにセツが与えられる

カインのアベル殺害は、アダムから一日にして二人の子を奪うことになった。一人は殺され、もう一人は殺人者として失われた。後年、イサクの妻、エサウとヤコブの母リベカが恐れたのは、この二重喪失の再現であった。リベカは弟息子ヤコブに「兄さんの憤りがおさまるまで、しばらくラバンのところにとどまっていなさい。兄さんの怒りがおさまり、あなたが兄さんにしたことを兄さんが忘れるようになったとき、私は使いをやり、あなたをそこから呼び戻しましょう。一日のうちに、あなたがたふたりを失うことなど、どうして私にできましょう」(創世記27:44-45)と言って逃亡させる。リベカのヤコブ贔屓には弁解の余地がないが、エサウを憎んでいたわけではない。

「カインがアベルを殺したので、彼の代わりに、神は私にもうひとりの子を授けられたから」と言って、セツと命名する。子どもらを失って後、生命の重さを実感したことか。

ところで、命名者は誰か(5:3)アダムの妻である。カインとアベルに命名したのも彼女であった。アダムの家で、子どもの命名に父親が関わっていないことには、何らかの意味があったのだろうか。アダムは、命名が苦手ではなかった(創世記2:19)しかも、聖書は名前を大切にする書物である(創世記4:26、17:5,15)

セツは男子を与えられた時、わが子の命名者となっている。彼は、子の名をエノシュと命名している(ギリシャ語エノースは“死すべきもの”)

因みに、イスラエルの父祖たちは、命名をどのように扱ってきたのだろうか。

アブラハムは、イシュマエル(16:5)とイサク(21:3)に名を与えている。

イサクもエサウとヤコブの命名者と考えるのが正しいであろう(25:25-26)

ヤコブは異例、12人の息子と一人の娘を得たが、彼が名づけたのはベニヤミンだけである(35:18)他の子どもたちの名は、姉妹でありながら争い続けた二人の妻(レアとラケル)が、思い思いに名づけた(ヤコブには、入り込む余地がなかった。29:32-30-24)

しかし、ヤボクの渡し場でペヌエル(神の顔)体験(32:22:30)をした後に生まれた最後の子は別である。母ラケルは、出産後の死の床でベン・オニ(苦しみの子)と名づけたが、ヤコブはこれを改めてベニヤミン(右手の子)とした。

ヨセフも、エジプトで得た子どもたちにマナセとエフライムと命名している(41:51)

命名の歴史を知るモーセは、自分の子どもたちの命名にどのように関わっていたのか。彼の二人の名は、ゲルショム「私は外国にいる寄留者だ」とエリエゼル「私の父の神は私の助けであり、パロの剣から私を救われた」(出エジプト2:22、18:3-4)である。いずれも信仰の告白である。

こうして一瞥してみると、著者モーセの観点からみれば、わが子の命名に父親が関わっていないことは、不自然ではないか。

断っておくが、モーセ自身は硬直した考え方に捕らわれてはいない。パロの娘によって命名された自分の名前モーセ(出エジプト2:10)を、神の奇しき配剤として受け止めている(彼は異教徒によって命名された禍々しい名前だなどとは言わない。世界は主の下にあるのであるから、経緯に拘泥すべきではないのである)しかし、自分の子の名は祈りと信仰と感謝を込めて命名している。以上のことを考慮すると、アダムは何故わが子の命名に関わらなかったのだろうか、疑問が残る。

さて、人々は「主のみ名によって祈り始めた」直訳「主のみ名を呼ぶことを始めた」がよい。

契機は何か。エノシュが“死すべきもの”の意味であるなら、人間の儚さを思い知ったことが、神を呼ぶ契機となったことに頷ける。

3章以来、悲しい人間の歴史が語られてきた。4章では、取り返しのつかない悲劇が起こった。わが子をエノシュと名づける人生は苦悩に満ちている。それにも拘らず、この章の終わりは、一条の光を投げかけ希望を掲げている。このような世界観・人生観を見い出した人々は、確かに「主のみ名を呼ぶことを始めた」者たちの後裔である。