創世記39章

創世記39章       神と共に生きるヨセフ

37章は、ヨセフがエジプトに奴隷として売られた時の経緯を描写している。最後の場面は、父ヤコブの嘆きであった。ヤコブは「自分の着物を引き裂き、荒布を腰にまとい、幾日もの間、その子のために泣き悲しんだ。彼の息子、娘たちが、みな来て、父を慰めたが、彼は慰められることを拒み『私は、泣き悲しみながら、よみにいるわが子のところに下って行きたい』と言った。こうして父は、その子のために泣いた」

不思議なことだが、著者は、ヨセフの悲嘆には一言も触れていない。アブラハムがイサクを伴ってモリヤの山に向かった時も、イサクの心に波風が立たなかった筈はないが、イサクの感情には一言も言及していなかった。偶然のようには思えない。

人間の罪が造り出す苦しみの道は、主イエス・キリストの十字架への道(ドロローサ)において極まる。しかし、主が辿られたのは沈黙の道であった「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない」(イザヤ53:7、Ⅰペテロ2:21-24)義人と言われた佐倉惣五郎と対比。

こうしてみると、イサクやヨセフが沈黙の道を辿ったかのように描かれているのは、示唆に富んでいる。創世記の著者がドロローサを想定していたと言うのではない。無抵抗を推奨しているのでもない。しかし、沈黙の中に崇高な道を見ていたのではないだろうか。

Ⅰ奴隷の家で

「主がヨセフとともにおられたので、彼は幸運な人となり」

神は、アブラハムに「私の前を歩み(生きよ)」(17:1)と命ぜられた。これは万人の目標である。ヨセフは、アブラハムより遥かに過酷な状況に置かれて、主と共に歩み、主と共に生きた。

「主がヨセフとともにおられた」とは、ヨセフ物語のキーワードである(39:2,3,21,23、使徒7:9)ここで、主が主語であることは見過ごせない(エノクの場合・創世記5:22,24)

私たちは、ヨセフが少年の頃から良い子であったことを知っている。彼は「夢見る者」と綽名されていたが、敬虔な人というよりも、無邪気な少年の印象が優る。

それ故、ヨセフがどのように神を求めたのか、私たちには分からない。むしろ、泣き叫ぶヨセフの声を、主が聞いてくださり、主が近づいて下さったのであろう(出エジプト2:23-25)ヨセフは素直な魂の持ち主であるから「彼は幸運な人となり」得たと言える。

「彼の主人は、主が彼とともにおられ、主が彼のすることすべてを成功させてくださるのを見た」ヨセフに与えられた祝福は、主人のポティファルの目にも明らかであった。ヨセフは主人に愛され信頼された。主人は「全財産をヨセフの手にゆだねた」ほどである。

神は、ヨセフを厚遇したポティファルを恵み「ヨセフのゆえに、このエジプト人の家を祝福された。それで主の祝福が、家や野にある、全財産の上にあった」このような関係が生じることこそ、信仰の報酬と言えるのではないか。

誘惑にさらされて

ヨセフによる祝福は、邪悪な主人の妻にまでは及ばなかった。ヨセフが魅力的な青年であったが故に、主人の妻から誘われる。この時ヨセフは「どうして、そのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか」と言って、誘惑を退けた。

古今東西、有閑マダムの姦通など珍しくもなかったと思う。巷では“据え膳食わぬは・・・”と言う。或いは、奴隷という弱い立場のことを考えると“長いものには巻かれろ”と言うことに成りかねない。健康なヨセフにも、異性への関心は多分にあったであろう。そして、みな踏み外していく。ヨセフに身近なところでは、ルベンの不祥事があり、ディナの悲劇もあった。

さあ、どうするヨセフ。ヨセフは「私は神に罪を犯すことができましょうか」と応えた。このような危険な状況に置かれて、かくの如く応じることが出来るなら、間違いを回避することが出来よう。ここでも、ヨセフは主の前にいる(ダビデには、このような潔い良心が見えなかった)

主人の妻は、執拗にヨセフを追い続ける。ヨセフは、細心の注意を払い彼女を避けた。しかし、虎視眈々と隙を窺う敵の罠を逃れるのは容易ではない。

目的を果たせなかった主人の妻は、愛憎が一変する“可愛さ余って、憎さ百倍”ということか。欲望の満たされない怒りを、あたりかまわず発散させる。サタンは偽り者だというが、その支配下にある者もなりふりかまわない。嘘をつく。人を陥れる。

主人は、妻の讒言を聞かされて「怒りに燃えた」

主人としては、当然のことであろう。ヨセフには弁明の機会も与えられないで、投獄されることになった。しかし、主人のこの処置は、比較的穏便であったと言えないだろうか。もし、信頼していた奴隷が自分を裏切り、たとえ未遂としても、妻を辱めようとしたのであれば、主人の怒りは心頭に達した筈である。容赦なく殺害したのではないだろうか。もしかすると、彼には、品行の悪い妻の言葉を鵜呑みに出来ない思いがあったのかもしれない。

さらに「ヨセフの主人は彼を捕え、王の囚人が監禁されている監獄に彼を入れた」というのも、興味深い記述である。王の高官たちと奴隷を一緒に投獄することは、普通では考えられない。神のあわれみの中で主人がなしえた配慮と言うべきではないか。

40章3節は、この監獄が侍従長ポティファルの管理下にあることを明らかにしている。

Ⅱ獄中のヨセフ

ヨセフの置かれた状況は変わったが「主はヨセフとともにおられた」

主人に気に入られて優遇されていた場から、犯罪者たちの中に入れられたのである。しかし、共にいます神を誰も妨げることはできない。

パウロは「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません」(Ⅱコリント4:8-9)と言い得た。

神は「彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされた」

ここでも、愛されるヨセフがいる。ヨセフはいつでもどこでも変わらない。しかし、ヨセフに対する周囲の受け止め方は二分する。父の家でも愛されたが故に憎まれた。ポティファルの家でも、主人には信頼されたが、主人の妻には弄ばれた。投獄された獄中では、監獄の長に優遇された。周囲は変わるが、変わらないのは、共にいます神と、神に信頼するヨセフ。

ここでもヨセフは「そこでなされるすべてのことを管理するようになった」そして、ここでの出会いが、ヨセフの将来に道を開く。

「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう」(ローマ11:33)

ヨセフに触れる人々の考察

(兄弟、イシマエル人の商人、ポテパル、その妻、神)

ヨセフと上着(37:3、31、39:12、41:42)

父の偏愛の長袖は、兄弟たちの妬みと憎しみを増幅させ、彼の死の証拠として偽装されるが、それは、新たな世界へと彼を導く。

ポテパルの妻のもとに残した上着は、偽証の証拠とされ、投獄の憂き目を見る。それも、彼を破滅させることはない。

パロに抜擢されて、権威の装いに身を飾る。やがて、兄たちは彼の前に跪く。

上着とは、象徴的ではないか。時には、特権の象徴であり、妬みや憎しみの的となる。或いは、自らおごり高ぶることもあろう。しかし、これは、虚飾に過ぎない。創造者に着せられ、贖い主に着せられた衣装だけが、真に我々を覆い、保護してくださる(コロサイ3:8-10、12-14、黙示録3:5)

義認とは義を着せられることでもある。