創世記38章

創世記38章          ユダのエピソード

私達には、エジプトに売られたヨセフのその後の成り行きが気になる。しかし、創世記の著者は、前後の脈絡を無視し、説明なしにユダの私的な物語を挿入する。これは、後に明らかになった事実、即ち、ユダが契約の継承者となった背景を伝えるためなのであろう。

これまでは、イシュマエルではなくイサク、エサウではなくヤコブと言う、選びの経緯が鮮やかに語られてきたが、ユダが継承者となった事情は物語られていない。むしろ、王制が確立するまでは、イスラエルは12部族が一単位を構成しているように描かれている。敢えて言うなら、脚光を浴びたのは祭司として選ばれたレビ族である(モーセを輩出し、アロン家は祭司に任じられた)

ヤコブの遺言は「ユダよ・・・あなたの父の子らはあなたを伏し拝む(37:7,9にも拘わらず)。ユダは獅子の子。わが子よ。あなたは獲物によって成長する・・・王権はユダを離れず、統治者の杖はその足の間を離れることはない。ついにはシロが来て、国々の民は彼に従う」(49:8-10)と洞察した。しかし、この言葉は、私たちが考えるほど重視されてはいなかった。因みに、イスラエルの初代の王は、ベニヤミン出身でした(Ⅰサムエル10:1、17-24)それにも拘わらず、歴史を振り返るとユダの継承権は明白である(この部族からダビデ・・・キリストに至る)

ユダは、レアの四男なので、家の中ではごく平凡な立場にあった。しかし、ヤコブの家では、長男ルベンの不行跡が発覚し、次男レビと三男シメオンは、暴虐な復讐と略奪事件で汚名を蒙る。四男ユダは、必然的に兄弟たちを代表する(重要局面でユダは際立つ36:26、43:8、44:16、46:28)

しかし、ユダが自覚的に、アブラハム契約の継承者となったとは言いがたい(少なくとも明記されてはいない)実際、ヤコブの晩年、イスラエルは約束の地を離れることになり、家督相続などは絵に描いた餅に過ぎなかったが・・・。

その傍証となるのは割礼である。モーセの家庭では、ミデアン人の妻のほうが割礼に関して積極的な関心を示している(出エジプト4:26)また、エジプトを出た人々は割礼を受けていたが、モーセが導いた荒野の40年間、割礼は保留されていた(ヨシュア5:2-8、士師14:3)割礼は、レビ記にただ一度言及されているに過ぎない(レビ12:3)それが暗示するのは・・・。

創世記の読者一般には、契約の継承者として、ヨセフが一番好ましく見えるのではないだろうか。従がって、38章のユダの物語は、私たちが考える以上の存在意味を持っているように思われる。

Ⅰユダと息子たち

ユダが住み着いた「アドラム」は、ダビデがサウルの手を逃れた場所でもある(Ⅰサムエル22:1)ユダの結婚「ユダは、あるカナン人で、その名をシュアという人の娘を見そめ、彼女をめとって彼女のところにはいった」(これは、創世記6:2を想起させるが、2:18までは遡らない)

ユダの息子たち

長男エルは、タマルと結婚した(この結婚は、父ユダが奨めたものである。ユダは妻を自身で選んだが、息子の結婚には関与したらしい)

「エルは主を怒らせていたので、主は彼を殺した」。彼が、何故、また何をして主を怒らせたのかは告げられていない。詮索無用ということであろう。

次男オナンは、父の勧告に従い、兄嫁タマルを妻とする。兄嫁との結婚は珍しくなかったらしい。オナンは、不本意であったが、表向きは父の期待に応える。おそらく、強制的な制約はなかったと考えられる。オナンは良い子を演じたが、不誠実と言わざるを得ない。後に律法が制定され、イスラエルでは、レビラート婚と呼んである種の義務化がなされる(マタイ22:24)が、それには、責任を回避する選択もあった(申命記25:5-10)

父の意図は「兄のために子孫を起こす」ことにあった。オナンはそれを望まず、父の意図を挫く。彼は「その生まれる子が自分のものとならないのを知っていたので、兄に子孫を与えないために、兄嫁のところにはいると、地に流していた」オナンの行為は、今日言うオナニーとは異なるが、オナンの名は、オナニーの語源となる「彼のしたことは主を怒らせたので、主は彼をも殺した」

ユダの心配

二人の息子たちが次々と死に、ユダは恐れた。ユダには、タマルが死神のように思えたのであろう(徹底的な原因の究明はない。迷信的な取り扱いだけが残る。ユダが責任を弱い立場のタマルに押し付けた結果である)ユダは、タマルに「わが子シェラが成人するまで、あなたの父の家でやもめのままでいなさい」と言って、タマルを体よく遠ざけた。彼は「シェラもまた、兄たちのように死ぬといけないと思った」からである。

こうして、ユダは、シェラの成長後も、タマルを放置した(約束違反などとは思いも及ばない)

Ⅱ行動するタマル

タマルは希望の言葉を与えられてはいたが、その扱いは事実上の離縁と変わるところがなかった。タマルは、半信半疑でシェラの成長を心待ちしていたであろう。しかし、シェラが成長した後も、ユダからは何の音沙汰もない。

タマルに「ご覧。あなたのしゅうとが羊の毛を切るためにティムナに上って来ていますよ」と、耳打ちする者(その人の動機は知り得ない)があり、タマルは、義父を欺き誘う決断をする。

彼女の行為は、律法を確立した後のイスラエルでは、あるまじき事に違いない。忌まわしい行為に見える。しかし、彼女の時代の道徳感は彼女を責めてはいない(マタイは、救い主の系図に訳ありの女性を4名登場させた。いずれも、当時の社会が白眼視する問題を抱えていた・マタイ1:3-6)

タマルの売春行為やユダの買春行為は、おぞましく見えるが、今日のキリスト教倫理観で裁くことはできない。

タマルには、躊躇いがあったとしても、この他に方法を思いつかなかったのであろう。

ユダは、妻の喪が明けて心に隙が生じたか(おそらく罪悪感は無かったであろう)

抜かりのないタマル

タマルは、売春行為の代償に、印形と紐と杖を求めた。これが、ユダを識別できる固有の物だから。タマルは、懐妊した事を知ると身をひそめる。しかし、その事実は、ユダの知るところとなる。

激怒するユダ

「あの女を引き出して、焼き殺せ」我が家の嫁の不行跡は赦しがたい。随分と激しい言葉ではないだろうか。タマルを嫁らしく扱っていなかったにも拘らず(いつでも一方的論理が働く)

後に、ダビデもこの類の言葉を発した。彼は預言者ナタンの訴えが自分を糾弾していることに思い至らず「主は生きておられる。そんなことをした男は死刑だ」(Ⅱサムエル12:5)と叫んだ。

もしかすると、自分の罪に苦悩している時に、他人の所業を聞かされて、怒りが出口を見出したと言うことも出来よう。

不幸中の幸いは、ユダもダビデも、自分自身の過ちを指摘されると、謙虚に公平な判断を下した。ユダは、タマルが証拠の品々を提出すると「あの女は私よりも正しい。私が彼女を、わが子シェラに与えなかったことによるものだ」と、自分の不正を認めた。

ユダの行動は身勝手なものに見えたが、その判断は良心的で潔い。ヨセフに関するユダの数々の対応とも一致している。

タマルの行為の意味

この物語は、今日の読者に不快感を残すかもしれないが、マタイ伝冒頭のイエスの系図を読む時、救い主の源流が汚濁にまみれていることの例証でもある。

タマルの出産

ペレツ(割り込む)とは、出産の状況を物語るが、タマルの行為とも重ね合わせることができる。

ゼラフ(輝く)

省みると、アブラハムに与えられた祝福は、途絶えることのない血統によって連綿と続いているようではあるが、絶えず誘われ、挑戦され続けてきたのである。イシマエルではなくイサク、エサウに代えてヤコブ、ルベンを捨ててユダと。この章では、タマルの自己保身が、図らずも効を奏した。

かくの如く、神の国は今日も激しく奪い取られている(マタイ11:12)