創世記37章

創世記37章           ヨセフと兄たち

ヤコブには四人の妻がいた。当然の事ながら、異母兄弟たちの間に生じる利害対立は熾烈なものであったと考えられる(ダビデ王の家庭は最悪でしたⅡサム13-15章他)

ヤコブは、愛妻ラケルの忘れ形見・ヨセフを溺愛した。ヨセフは、ヤコブにとって「年寄り子」であり、ヨセフは品行方正な子であったのだから、無理のないことだったかもしれない。

ヤコブの息子たちについては、既に、シメオンとレビの暴虐行為があり、ルベンの放縦な振る舞いが知られている。兄たちに比べると、ヨセフは文字通り良い子であった。老いたヤコブが盲目的な愛情をヨセフに注いだのは、自然の理であったろう。

しかし、父の偏った愛情が家庭内で様々に屈折して、ヨセフに戻ってきたのは皮肉なことである。かつて、両親の偏愛は、ヤコブとエサウの仲を裂いた。しかるに、ヤコブは、息子たちの間に同じ種を蒔くことになる。人間の愚かさ、そして、神の摂理の如何に深い事か(ローマ11:33-36)パウロの偉大な確信(ローマ8:28)は、ヨセフから学んだものであろう(創世記45:7-8、50:20-21)

Ⅰ父の家のヨセフ

17才のヨセフは「兄たちと羊の群れを飼っていた」

ヨセフは、未だ自立を果たしていない手伝いの少年に過ぎなかった。イスラエルの王となったダビデが頭角を現したのも、この年頃ではなかったろうか(Ⅰサムエル16:11-13)

「ヨセフは、彼らの悪いうわさを父に告げた」

年若いヨセフを侮り、ヨセフを憚らない兄たちの行為は、ヨセフを驚かせたことであろう。彼は、それを父に告げた。ここで、ヨセフを“告げ口屋”と批判するのは当たらないと思う。後に明かされるヨセフの倫理観からすれば(39:9)成人した兄たちの生活は、単純に見過ごせなかったのではないか。兄たちには小憎らしい振る舞いに見えるが、少年らしい正義感であり、告発するヨセフには他愛ないものであったと思う。

「イスラエルは、彼の息子たちのだれよりもヨセフを愛していた」

ヤコブは、自分の生い立ちを忘れたかのように、ヨセフに偏愛を注ぐ。そして「袖付きの長服を作ってやっていた」これは、後に、王女の装いとなる(Ⅱサムエル13:18)どうみても、羊飼いの労働着には不向きであろう。

“馬子にも衣装”という言葉にはユーモアを感じるが、ヨセフの「袖付きの長服」は、稚児衣装を連想させる。“ペット化している”と言えば言い過ぎだろうか。愛情表現も自己本位にすすめると、バランスを欠き、周囲に歪みを生じることを心したい。

その結果「彼の兄たちは・・・彼を憎み、彼と穏やかに話すことができなかった」不幸な事である。一つ一つは、どこにでも見られる些事だが、複合汚染ともいえようか。偏愛・羨望・悪習慣・告げ口・妬みと怒りが渾然と入り混じり、やがて発酵して狂気を生み出す。突然の暴発などではない。穏やかに話せぬほど(シャーローム)とは、日常的な挨拶もままならない硬直した関係を伺わせる。

Ⅱ夢二題

ある日、ヨセフは、自分が見た夢を兄たちに語る。この後も、夢は、二つ一組でヨセフに提示される(40、41章)それらは確証を与えるために、或いは対比するために二重に与えられたのであろう。

「どうか私の見たこの夢を聞いてください」

ヨセフは「私の束が立ち上がり、しかもまっすぐに立っているのです。見ると、あなたがたの束が回りに来て、私の束におじぎをしました」と、些か得意になって自分の見た夢を語る。ここには、意地の悪い思いはなかったと思う。ヨセフは無邪気だが、兄たちの心を慮る配慮が欠如している。

この夢が暗示することについては、兄たちの方が過敏に反応した「おまえは私たちを治める王になろうとするのか。私たちを支配しようとでも言うのか」と。

次の夢は「太陽と月と十一の星が私を伏し拝んでいるのです」その結果、父はヨセフを叱った。

「兄たちは彼を妬んだが、父はこのことを心に留めていた」(ルカ2:51)

若年のサムエルが啓示を受けた時、彼はそれを口にするのを恐れた(Ⅰサムエル3:15)その意味では、サムエルはヨセフよりも苦労していたのであろう。

ヨセフは無邪気であったと思うが、それさえも、虫の居所の悪い相手の心をかきむしる。

Ⅲ野に於ける兄弟たち

「さあ、行って兄さんたちや、羊の群れが無事であるかを見て、そのことを私に知らせに帰って来ておくれ」

父は、兄たちの安否を知るために、ヨセフを使いに出す。ヨセフは、ヘブロンから出立して、シェケム、さらに移動先のドタンまで訪れて兄弟たちに出会う。直線距離でも100km余。

父は息子たちを案じてヨセフを派遣し、弟は久しぶりに会う兄たちを懐かしむ。しかし、兄たちは「見ろ。あの夢見る者がやって来る。さあ、今こそ彼を殺し、どこかの穴に投げ込んで、悪い獣が食い殺したと言おう。そして、あれの夢がどうなるかを見ようではないか」と敵意を剥き出しにする。

野にて兄弟の再会

兄たちの心にあるのは妬みと憎しみ。兄たちは、絶好のチャンスを得たと考える。彼らには制限なき野(カインがアベルを殺したのも野であった)ヨセフには、無防備な野であった。

ルベンは懸命に、兄弟たちの激情を静める「あの子のいのちを打ってはならない・・・血を流してはならない。彼を荒野のこの穴に投げ込みなさい。彼に手を下してはならない」と。彼は「ヨセフを彼らの手から救い出し、父のところに返す」つもりであった。善意である。父と弟に対する愛情も感じられる。結局、ヨセフは救われたが、ルベンの意図どおりではなかった。

ユダが提案する「弟を殺し、その血を隠したとて、何の益になろう。さあ、ヨセフをイシュマエル人に売ろう。われわれが彼に手をかけてはならない。彼はわれわれの肉親の弟だから」

ユダはキャラバンを見て、渡りに舟と考えたのかもしれない。兄弟たちに“小遣い稼ぎが出来るぞ”と説得したのであろう。ユダがどれほどの動機を持っていたのかは知りえない。結果的にヨセフの生命を救うことになるが、それでユダの行為が正当化されるわけではない。

しかし、創世記の著者は、このヨセフ物語を通して、ルベンとユダを二度まで対比している。そして、二度ともユダに軍配を上げている(42:36-38、43:3-9)それは、善意ではあるが、些か決断に欠けるルベンと、決断的なユダの対比であろう。

兄たちは「ヨセフを銀二十枚で、イシュマエル人に売った」(レビ27:5、成人男子は50シェケル)私たちの主も、御自分が愛した弟子ユダに銀三十枚で売られた(マタイ27:3)贖う(買い戻す)と言う言葉が、深く人間生活に即したものであることは言を待たない。

不義不正が悔い改めを避け、弁明に逃れると必ず矛盾が生じる。そして偽装工作の必要が生じる。従がって、罪は必然的に次の罪を生みだす。罪の上塗り。欲・罪・死(ヤコブ1:15)

ヤコブの悲しみ

彼は「自分の着物を引き裂き、荒布を腰にまとい、幾日もの間、その子のために泣き悲しんだ」彼は、頑として慰められることを拒んだ(エレミヤ31:15)

ヨセフに着せた袖つきの長服が特権(相続権)を暗示するなら、ヤコブの期待の星は輝かぬうちに落ちたかに見える。ヤコブの計画は挫折し、兄たちは安堵したであろう。

「よみにいるわが子のところに下って行きたい」とは、ヤコブの絶望的・悲痛な叫びである。しかし、神は、多くの日の後に、この言葉の悲しみを逆転して下さる「私の子ヨセフがまだ生きているとは。私は死なないうちに彼に会いに行こう」(45:28)と腰を上げる。

ヨセフの行方

「ミデヤン人はエジプトで、パロの廷臣、その侍従長ポティファルにヨセフを売った」

偉大なヨセフの物語は、利己的で未熟な愛がわざわいする形で始まる。それ故、神はヨセフを父ヤコブの手から取り上げ、御自分の溶鉱炉で鍛え直された。神の経綸とはかくも壮大なものか。やがてヨセフは神の心をしっかりと受け止め、精錬された輝きを見せてくれる(創世記45:7-8、50:20-21)