創世記35章

創世記35章        ヤコブ身辺の出来事

この章は、ヤコブの身辺で起こった事柄を告げている。

幼少の頃、甘やかしてくれたであろうデボラ(母リベカの乳母)最愛の妻ラケル、優しい父イサクとの死別(リベカとレアの死の記述は欠落。リベカとレアもアブラハム家の墓に埋葬された49:31)次々に家族の死が訪れる中でベニヤミンの誕生は喜ばしいが、ラケルの生命と引き換えによるもの。そして、長子ルベンの不祥事・・・。

33章以後、私たちはヤコブの新しいスタートを期待した(おそらく、彼自身も期するところがあったであろう)が、実際には、ヤコブの後半生は、長く厳しい日々で始まったのである。その旅路は、エジプトまで続く。しかし、目を留めていたのは約束の地であった。

アブラハムは、定かならぬ闇の中へ踏み出してカナンの地に辿り着いたが、ヤコブの生涯は、約束の地に留まり得ないで、さらに深い闇とも言うべきエジプトで終焉を迎えた。

これは、単純に“アブラハムが正しく、ヤコブが間違っていた”と言うことではない。神の約束の実現は、正しく両者の延長上にある「あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です・・・この人々はみな、その信仰によってあかしされましたが、約束されたものは得ませんでした。神は私たちのために、さらにすぐれたものをあらかじめ用意しておられたので、彼らが私たちと別に全うされるということはなかったのです」(ヘブル10:36、11:39-40)

Ⅰベテルで祭壇を築く

神は、ヤコブにベテルへ上ることを命じ、そこに祭壇を築き「異国の神々を取り除く」ように語られた。これは、彼の家に偶像が存在したことを示す。おそらく、このような宗教的曖昧さ(或いは無知)が、ディナの事件の下地になったと考えられる(民数記25:1-3)

顧と、ラケルは父ラバンの神々(テラフィム)を盗み出している(31:19)同様の感覚で、レアにも或いはビルハやジルパにも、神々があったことは想像に難くない。

ヤコブは、家族から徴収した神々と神事に用いたと考えられる装飾品を「シェケムの近くにある樫の木の下に隠した(ターマン)」出エジプト2:12、Ⅱ列王7:8、ヨブ3:16(共同訳)

ベテルは、ヤコブが家を出た時、神が夢に現れてくださった記念の地である。その地は、それまでルズと呼ばれていたが、ヤコブが神顕現を記念してベテル(神の家)と改名した(28:16-19)それ故ベテルは、ヤコブの原点と言える。ヤコブはベテルに「祭壇を築き、その場所をエル・ベテル(ベテルの神)と呼んだ」(ヤコブはわが子の命名に関心が薄かったが、神名には関心を示した)

デボラの死

私たちは、このデボラという女性について「リベカの乳母」であったこと以外、何も知らないが、彼女の扱いは異例である。創世記の著者は、リベカやレアの死を記していない。おそらく、正確な伝承・資料が見当たらなかったのであろう。では、なぜ、乳母に過ぎなかったデボラの死と埋葬について記したのか。デボラは脇役に過ぎなかったが、多くの人々に敬愛されていたのであろう。人々の心に留められたデボラの伝承は、忘れられず失われなかったのではないか。デボラの人柄が偲ばれる思いがするのだが、如何であろう。

徒然なるままに、なぜ、デボラは「ベテルの下手にある樫の木の下に葬られた」のか、ヤコブの帰還が待ちきれないで、出迎えたかのようだ“ヤコブ坊ちゃんに一目会いたい”とは、ありそうなことである。人々は、墓標となった樫の木を「アロン・バクテ(嘆きの樫の木)」と呼んだ。

Ⅱヤコブがアブラハム契約を継承する

「神は再び彼に現れ、彼を祝福された」

ヤボクの渡し場で受けた啓示の確認である。先の経験は、ヤコブにイスラエル性が加えられたように受け止められる(32:28)が、ここでの確信は「もう、ヤコブと呼んではならない。あなたの名はイスラエルでなければならない」と明瞭である。古き人の完全な脱皮が求められたと考える。

「わたしは全能の神である。生めよ。ふえよ・・・」

これは、まさしくアブラハム契約の更新である。打ち続く苦難の中ではあったが、ヤコブは神からの明白な啓示を賜り、ついに契約の当事者と成り得た。

祝福の内容も「わたしはアブラハムとイサクに与えた地を、あなたに与え、あなたの後の子孫にもその地を与えよう」と、祖父や父に与えられた祝福に遜色のないものである。

ヤコブの応答は速やかである「神が彼に語られたその場所に柱、すなわち、石の柱を立て、その上に注ぎのぶどう酒を注ぎ、またその上に油をそそいだ」

Ⅲベニヤミン誕生とラケルの死

ベテルからエフライムに向かう途中「ラケルは産気づいて、ひどい陣痛で苦しんだ」ラケルが出産の日を喜び待ち望んでいたことは、誰もが知っていた(30:24)助産婦は、生まれてきた子が男子であることを告げてラケルを励ます。

ラケルは、出産に際して全生命力を使い果たした。彼女は、死に臨んで「その子の名をベン・オニと呼んだ」これは、私の苦しみの子という意味である。

しかし、父ヤコブは「ベニヤミン(右手の子)と名づけた」これは、特筆すべきことである。ヤコブはこれまで、子どもたちの命名に関わらなかった。妻たちに任せていた。しかし、この最後の子を、深い悲しみの中で希望を抱いてベニヤミンと命名した。ヤコブの決意の程が伺える。

ヤコブにとって、ラケルの死が大きな悲しみであった事は言うまでもない(48章7節の記述)

Ⅳルベンの不祥事

家族の構成が複雑になると、家庭内の調和を保つのは難しくなる。ダビデ王は多くの妻を持ったので、異母兄弟間に近親相姦や兄弟殺しがあった。ルベンの行為がヤコブに与えたダメージは測り知れない。ヤコブがあれ程執着した長子権であったが、ヤコブの長子ルベンは、それを蔑ろにした。

ヤコブの嘆きを聞こう「ルベンよ。あなたはわが長子。わが力、わが力の初めの実。すぐれた威厳とすぐれた力のある者。だが、水のように奔放なので、もはや、あなたは他をしのぐことがない。あなたは父の床に上り、そのとき、あなたは汚したのだ」(49:3-4)

おそらく、このためにルベンは契約の継承者となり得なかったのであろう。レビとシメオンに加えルベンの脱落で、ユダにお鉢が回る(ユダが傑出していたというよりも、先行者の脱落による幸運、言わば、敵失によって勝利が転がり込むに似ている。それ故、誇る理由はない)

ルベンにも、好ましいところはあった。兄弟たちがヨセフを殺そうとした時、彼は後で救出しようと努力した(37:21-22)惜しむらくは、善を行なうのに遠慮がちで中途半端な感がある。

42章37節では、父を説得するために「もし私が彼(ベニヤミン)をあなたのもとに連れて帰らなかったら、私のふたりの子を殺してもかまいません。彼を私の手に任せてください。私はきっと彼をあなたのもとに連れ戻します」と主張するが、父の信頼を得られなかったらしい。

Ⅴイサクの死

「ヤコブはキルヤテ・アルバ、今日のヘブロンのマムレにいた父イサクのところに行った」

マムレは、アブラハム以来、住み慣れた地である。アブラハムは甥のロトと分かれてこの地に移住し(13:18)この地で主の使いを迎えた(18:1)サラに先立たれた時、アブラハムは、この地に墓地を購入した(23:19-20)

イサクも老いの日々を、この地で過ごしたらしい。ヤコブがこの地を訪れたのは、父の病状が伝えられたからであろう(病気見舞い)親子が数十年ぶりに再会したと考える必要はない。

しかし、物語としては、父の家を飛び出したヤコブが、イサクのもとに帰ってきたことを伝える。イサクは「長寿を全うして自分の民に加えられた」エサウとヤコブが、一緒にイサクを葬る(25:9)

この章は、ヤコブ身辺の出来事を要約している。ことに、悲しみの経験に彩られている。以後も、ヤコブの物語であるが、見方によれば、ヤコブの生涯も終わったかのような思いに駆られる・・・。