創世記34章

創世記34章        激怒、復讐、その結末

前章で、ヤコブはエサウとの再会という最大の関門を無事に通過した。そこは、予期し得なかった素晴らしい和解の場となった。彼は、神の恵を心に刻み、祭壇を築いて「エル・エロへ・イスラエル」と名づけて御名を呼んだ。新生ヤコブの大胆な確信が感じ取れる命名である。読者はこの後、ヤコブの飛躍的な発展を期待したがるものである。

しかし、この章は、私達の安易な期待を裏切る。確かに、ヤボクの渡し場の経験は、ヤコブの生涯における記念碑的なでき事であるが、それに続くヤコブの生涯は“楽しき日々”とは言い難い。レアの娘ディナの好奇心に端を発し、彼女の陵辱、兄たちの激怒と復讐、そして一家の逃走。さながら、ヤコブが若き日に撒き散らした種の刈り取りをしているかのように見える。

Ⅰ事の発端

「ディナがその土地の娘たちを尋ねようとして出かけた」

ディナの動機は告げられていない。彼女は単に新しいもの見たさ、好奇心に駆られて出かけたのかもしれない。もしかすると、もっと大胆な性的アヴァンチュールを試みたのかもしれない。いずれにしても、不用意であった責めは負わなければならない。私たちは、アブラハムやイサクの出来事を通して、未知の世界では、思いがけない危険が待ちうけている事を学んだ。

案の定「ハモルの子シェケムは彼女を見て、これを捕え、これと寝てはずかしめた」

シェケムは、力ずくでディナを陵辱した。これを聞いて、イスラエルの子らは「イスラエルの中で恥ずべきことを行なった」と激怒した(申命記22:21、士師20:6、Ⅱサムエル3:12、ヨシュア7:15)ディナの兄たちの言い分はもっともであり、シェケムの蛮行には弁解の余地がない。

しかし、ことの発端は「ディナがその土地の娘たちを尋ねようとして出かけた」事にあるのを見過ごしてはならない。ディナは、先方の土俵に乗ったのである。文化的な伝統・風俗習慣が異なることは、いつの時代でも肝に銘じなければならないことではないだろうか。

シェケムは、欲情を堪えることが出来なかったが、自分の行為に悪びれるところがない。彼は「ディナに心をひかれ、この娘を愛し、ねんごろにこの娘に語」り、父親には「この女の人を私の妻に貰ってください」と願う(順序は正しくないとしても、心根は単純で誠実らしい)著者も「この若者は、ためらわずにこのことを実行した。彼はヤコブの娘を愛しており、また父の家のだれよりも彼は敬われていたからである」と解説する。要するに、両者の立つ倫理的なスタンダードが違うのである。

Ⅱ偽りの契約

ヤコブが当惑し、兄たちが激怒している時、シェケムの父ハモルが結婚の申し出をする。彼は息子が本気であることを告げ、これをきっかけに、結婚による平和共存を提案した。シェケム自身も「私はあなたがたのご好意にあずかりたいのです。あなた方が私におっしゃる物を何でも差し上げます。どんなに高い花嫁料と贈り物を私に求められても、あなたがたがおっしゃるとおりに差し上げますから、どうか、あの人を私の妻に下さい」と率直に願う。

先方は、胸襟を開いて近づいたが、ヤコブの息子たちは「悪巧みをたくらんで」応じた。兄たちは「割礼を受けていない者に、私たちの妹をやるような、そのようなことは、私たちにはできません。それは、私たちにとっては非難の的ですから。ただ次の条件であなた方に同意しましょう。それは、あなたがたの男子がみな、割礼を受けて、私たちと同じようになることです」

知恵と言うべきか、説得力のある主張である。しかし、彼らにとって、割礼はどれほどのものであったのか。彼らは、割礼の習慣の下に生まれ育ったことは明らかであるが、この概念が持つ神との契約の理解には至っていなかったであろう(17:10-14)

すると、彼らは、聖なる契約のしるし(割礼)を「悪巧み」の口実にしたに過ぎない。これは、神への冒涜行為ではないか。後に与えられた十戒は「あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない」と戒めている。神の恵を兇器として用いる愚かさに気づかない(律法主義も同様)

「彼らの言ったことは、ハモルとハモルの子シェケムの心にかなった」

シェケムは、この提案を受けて「ためらわずにこのことを実行した」彼がヤコブの娘を愛していたからである。こうして、欺かれたシェケムは広告塔の役割を果たした「父の家のだれよりも彼は敬われていた・・・・町の門に出入りする者はみな、ハモルとその子シェケムの言うことを聞き入れ、その町の門に出入りする者のすべての男子は割礼を受けた」

悲しいことだが、ヤコブの息子たちの悪巧み、相手の弱みにつけ込んだ思惑は見事に当たった。

Ⅲ暴虐の剣(49:5)

「三日目になって、ちょうど彼らの傷が痛んでいるとき、ヤコブのふたりの息子、ディナの兄シメオンとレビとが、それぞれ剣を取って、難なくその町を襲い、すべての男子を殺した」。二人の兄は怒りを治めることが出来ないで、激情に駆られて報復した。怒りは濁流のように荒れ狂い、敬虔や理性の堤防を決壊してすべてのものを押し流す。

彼らは「イスラエルの中で恥ずべきことを行なった」と糾弾したが、彼らが口にした誇りは、もはや彼らのものではない。彼らは暴徒と化し、虐殺と略奪の道をまっしぐらに歩んだ。それにしても、ヤコブはどうしたのであろうか。彼は息子たちに「あなたがたは、私に困ったことをしてくれて」と言うが、何とも歯切れが悪い。

息子たちは「私たちの妹が遊女のように取り扱われてもいいのですか」と憤る。理屈である。しかし、後に彼らがしたことは、決して彼らを正当化しない。イスラエルの箴言は「怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は町を攻め取る者にまさる」(箴言16:32)と教える。人が蛮勇を奮うのは勇気でも知恵でもない。

ヤコブ一家は、二人の息子の暴挙により、この地を去る。新たなさすらいの始まりである。この出来事は、ヤコブの心に生涯忘れることのできない傷を残した。ヤコブは臨終の床で、息子たちに予言的な祝福を残している。そこで語られたレビとシメオンに関する言葉を一瞥してみる(あたかも、二人は一括処理されている)

「シメオンとレビとは兄弟、彼らの剣は暴虐の道具。

わがたましいよ。彼らの仲間に加わるな。わが心よ。彼らのつどいに連なるな。

彼らは怒りにまかせて人を殺し、ほしいままに牛の足の筋を切ったから。

のろわれよ。彼らの激しい怒りと、彼らのはなはだしい憤りとは。

私は彼らをヤコブの中で分け、イスラエルの中に散らそう」(49:5-7)

創世記の著者は、ヤコブが息子たちを祝福したとき「おのおのにふさわしい祝福を与えたのであった」と書き添えているが、レビとシメオンに関する限り、祝福と言うにはあまりに過酷な言葉に聞える。のろいの宣言と言うに等しい。人は、このような呪縛から自らを解放することができない。しかし、人知を越えた神のあわれみに委ねることはできる。この2部族が、歴史の中でどのように展開していったかは興味深い。そして、同時に恐れを抱かせられる。

シメオンも約束の地の分配を受ける(ヨシュア19:1-9)が、後日、ユダ部族に吸収されて、文字通り「イスラエルの中に散らそう」という言葉が成就した。

レビは、奇しくもアロンやモーセを生み出し、祭司の部族として聖別された。しかし、所領を持たない部族として、その生活権は全イスラエル委ねられた(ヨシュア21章)これもまた「イスラエルの中に散らそう」と言われた言葉の、一つの結果である。

レビとシメオンが同じ道を辿らなかったのは、神の深い知恵に基づいたことである。神は、いつでも、どこからでも、敗者復活の道をお開きになる。神の恵は計りがたい。因果応報や積善・積悪の論理で安易にパターン化されるものではない。

最後に、シメオンはどうしたのか。案ずることはない。主イエスは12部族にちなんで12弟子を選ばれた。イスラエルはいつでも12単位で語られ続けている。主の弟子ヨハネは、黙示録で神の民を語るとき、シメオンにも所を得させている(7:7、21:12、14)

しかし、御心が天で行なわれるようには、地上では行なわれない痛みを負う。