創世記31章

創世記31章      ヤコブはラバンの家を出る

この章は、ラバンの息子たちの中傷に始まる。ヤコブがラバン見る目は偏光し、ヤコブは疑心暗鬼に駆られる。不信は両者の20年来の関係を破綻させる。絆の脆さ。関係とは何か。

挨拶もせず、夜逃げするように脱出するヤコブ。身から出た錆などとは思いも寄らぬラバンは、激怒して後を追う。一触即発の前夜、主はラバンに介入する。かくして流血の惨事は免れ、最後は和解の食卓を囲み祝福を交わして別れる。恨みと怒りの衝突を平和に導かれる主は、ほむべきかな。

Ⅰヤコブの決意と決行

ラバンの息子たちは、義兄弟ヤコブ一家が富み栄えている様子を羨む。パウロは、キリスト者に高潔な生き方を示した。すなわち「喜ぶ者と一緒に喜び、泣く者と一緒に泣きなさい」(ローマ12:15)ラバンの息子たちに、そのような器量はない。しかし、この優れた道を逸脱すると、待ちうけている妬みの虜になる。カインが陥ったのもこの道ではなかったろうか。

息子たちは、父ラバンにヤコブを中傷する「ヤコブはわれわれの父の物をみな取った。父の物でこのすべての富をものにしたのだ」と(ヨハネ3:26)

ラバンは、息子たちの言葉が真実でない事を知っていた(不正は、自分の方にあった)筈である。しかし、ヤコブのことを忌々しく考えていたのであろう。偽りと知りつつも中傷に耳を貸す。

イスラエルでは「たきぎがなければ火が消えるように、陰口をたたく者がなければ争いはやむ。おき火に炭を、火にたきぎをくべるように、争い好きな人は争いをかき立てる。陰口をたたく者のことばは、おいしい食べ物のようだ。腹の奥に下っていく」(箴言26:20-22)と自戒した。それだけ、この問題は日常的で根が深いと言える。

ラバンのヤコブに対する態度が不自然になる。これまで、働き者のヤコブは自慢の婿であった筈である。しかし、今は、両者の間にわだかまりが生じて、ヤコブも居ずらくなる。

ヤコブの決意

ヤコブは噂を耳にし、ラバンの顔色を伺い、昔与えられた主の約束を思い出して帰国を決意する。ラバンの家のヤコブには、やり手のイメージは浮かぶが、敬虔な姿を思い浮かべるのはむずかしい。しかし、ピンチはチャンスになる可能性を持つ(詩篇119:71)

ヤコブはこの苦境に臨んで、長く忘れていた「父の神」が共におられる事を想起する。それが、夢の中での「神の使い」との出会いであろう。

先ず、妻たちに経緯を語って同意を求める。反目するラケルとレアの言葉が一つとなる「私たちの父の家に、相続財産で私たちの受けるべき分がまだあるのでしょうか。私たちは父に、よそ者と見なされているのではないでしょうか。彼は私たちを売り、私たちの代金を食いつぶしたのですから」

この言葉がどの程度公平で正確なものであるか知らないが、おそらく実情を反映しているだろう。ラバンの財産管理が公平でない事を物語るには十分である。

家族の意見の一致が見られ、ヤコブは躊躇わず行動を起こす。彼は「カナンの地にいる父イサクのところへ出かけた」と言えば聞えは良いが、その実、著者が言うように「彼は自分の持ち物全部を持って逃げた」のである。またまた逃亡である。

この時「ラケルは父の所有のテラフィムを盗み出した」

これは、ラバンの持つ偶像であるが、ラケルの意図がどこにあったかは明らかでない。ラケルにとって慕わしいものであったのか、或いは、手近にあったラバンの所有物を奪うことによって意趣を晴らしたのか、行きがけの駄賃・出来心に過ぎなかったのか・・・。

テラフィムを、ラバンは私の神々と呼ぶ。それは鞍の下に隠せるほどのものであったが(30:34)ダビデの妻ミカルの家にあったのは等身大であった(Ⅰサムエル19:13)テラフィムは、イスラエルで長く偶像の御本尊として用いられてきた(士師17:5、Ⅱ列王23:34)らしい。

ラバンの家庭にそのようなものがあることは、少しも不思議ではない。

ヤコブにどれほどの理由が有ったとしても、20年も生活を共にしたラバンの家を挨拶もせずに立ち去るのはどうか。とにかくこれがヤコブ流である。父の家を出たときも密かに逃れる者のようであった・・・。事情や理由はともかく、行動の様式が20年経っても変わらないのは、些か気がかりである。

Ⅱラバンの追跡

「三日目に、ヤコブが逃げたことがラバンに知らされた」これは、30:36の記事を想起させる。この時間と空間を設けたのはラバンであった。これは彼の狡猾で周到な知恵の所産であった。それが、今や、ラバンの足枷となっている。そのために事態の発見に遅れ、追跡に数日を要した。

「神は夜、夢にアラム人ラバンに現われて言われた」

発見の遅れが、激怒するラバンの心に神の声を聞く冷静さを取り戻すことになったと考えられる。ラバンにとって、自覚的な神々はテラフィムに過ぎない。ラバンの神認識は、アブラハム家のものとは異なる。しかし、アブラハムの神は、ラバンにも語りかけることができる。

ラバンは「あなたはヤコブと、事の善悪を論じないように気をつけよ」と、神の声を聞く「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう」(ローマ11:33)

ラバンの理性と感情が調和を取り戻すには、多少の排気ガスを撒き散らすのも致し方ない。ラバンは、拳こそ上げなかったが、ヤコブの非礼を咎める。ついでに、自分の言辞を飾る事をわすれない。「何という事をしたのか。私に内緒で私の娘たちを剣で捕えた虜のように引いて行くとは」と責め、「私はタンバリンや立琴で喜び歌って、あなたを送り出したろう」と見栄を張る。

「私の神々を盗んだ」

これは、ラケルが盗み出したテラフィムのことであるが、面白いのは「神々を盗んだ」という表現である。盗まれる神、保護されなければならない神々、世には、人々の重荷となっている神々が何と多いことか。

イザヤの描写は痛烈である「ベルはひざまずき、ネボはかがむ。彼らの偶像は獣と家畜に載せられ、あなたがたの運ぶものは荷物となり、疲れた獣の重荷となる」(イザヤ46:1-4)

ラケルは、盗んだものを隠し、今、父親に偽りの弁明をする。罪の一歩は、人を決して立ち止まらせない。追われるように進む。立ち返ることは殆んど不可能。

今度は役者が入れ替わり、ヤコブが鬱憤を晴らす「野獣に裂かれたものは、あなたのもとへ持って行かないで、私が罪を負いました。あなたは私に責任を負わせました。昼盗まれたものにも、夜盗まれたものにも。私は昼は暑さに、夜は寒さに悩まされて、眠ることもできない有様でした・・あなたは幾度も私の報酬を変えた・・・」どれもこれも、ラバンには思い当たることばかり。

Ⅲ契約の石塚

ラバンは、ラケルとレアの言葉によれば(14-15節)人でなしのようであるが、彼にも父性愛の片鱗がみられる(50,55節)罪のもとにある人間は、このように複雑怪奇な生きものなのである。

ここで、ラバンがヤコブに契約を提唱する。

ヤコブは「石を取り、これを立てて石の柱とした」(28:18,22)ラバンはエガル・サハドタと呼び、ヤコブはガルエデ(あかしの塚)と名付けた(後にミツパと呼ばれる。Ⅰサムエル7:5)

契約の意図は、相互の不可侵条約であったらしい。

ラバンが(自分の)神の名を呼ぶとき、ヤコブは「父イサクの恐れる方」に誓う。表現とその内実の違いを、著者は注意深く書き留めたのであろう。

こうして、いけにえをささげ、食事を共にした。

ラバンは娘たちを祝福して、自分の家に帰る。とにかく、怒りと憎しみが激突するかと思われた危機は免れた。

「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし」(エペソ2:14)