創世記30章

創世記30章           ヤコブの家庭

レアは、次々と四人の息子を出産したが、ラケルは不妊であった。人は、自分に与えられたものを数えるよりも、他人に与えられているものを数える事が得意なようだ。ラケルは、姉のレアとヤコブを共有する立場にあったが、夫の関心が自分に向けられていたことを知っていた筈である。しかし、それで慰められたわけではない。ハンナも夫エルカナの愛に保護されていたが、子どものない事を悲しみ、主の前に切に祈った(Ⅰサムエル1:1-10)そこに誕生したのがサムエルである。

Ⅰ妻たちの葛藤

「ラケルは、自分がヤコブに子を産んでいないのを見て、姉を嫉妬した」家庭内で、騒がしいが活気に満ちた子どもたちの声を聞くことは楽しい。しかし、もし喜びでなかったら、耐え難いことになるのは想像に難くない。

妬みはどこから沸き起こるのか。妬みは理不尽なものだが、一度ところを得ると、容易に消し去ることができない。神への信頼と充足感があれば、克服できるのではないか。

バプテスマのヨハネは、軒を貸して母屋を取られたが「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることはできません・・・私はキリストではなく、その前に遣わされた者である・・・花嫁を迎える者は花婿です。そこにいて、花婿のことばに耳を傾けているその友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。それで、私もその喜びで満たされているのです。あの方は盛んになり私は衰えなければなりません」(ヨハネ3:27-30)と、高潔でした。

パウロも、状況は異なるが、神の恵について言及している「主は『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」(Ⅱコリント12:9)と。

ラケルには、嫉妬の感情を制御できない。鬱憤を、夫ヤコブに向けた「私に子どもを下さい。でなければ、私は死んでしまいます」と。そして、私達の知る最初の夫婦喧嘩の幕開け。

ヤコブは「私が神に代わることができようか。おまえの胎内に子を宿らせないのは神なのだ」と決め付ける。まったくその通りに違いない。しかし、彼には父イサクが、不妊の妻リベカのために祈った(25:21)ような敬虔は、未だ身についていない。

怒りの炎は、燃え易いものから焼き尽くす。接続詞の「すると」は、誤解を招きかねない。おそらく、当り散らして、疲れ果て、やがて名案(迷案)が浮かぶ。

「では、私のはしためのビルハがいます。彼女のところにはいり、彼女が私のひざの上に子を産むようにしてください。そうすれば私が彼女によって子どもの母になれましょう」

これは、サラが辿った苦悩の道ではなかったか。女性として、払った犠牲はサラの場合と同じである。しかし、ここには当面のライバルがいるので、紛れているにすぎない。

ラケルの命名

ビルハの最初の子をダンと名づけた。ダンの原義は裁くである「神は私をかばってくださり」との訳語は適確ではない。ラケルはそんなにしおらしい女性ではない。共同訳の「わたしの訴えを神は正しくお裁き(ディン)になり、わたしの願いを聞き入れ男の子を与えてくださった」がベター。この命名は、彼女の手前勝手な勝利宣言に過ぎない。ダンについては、ヤコブが不気味な預言をする(創世記49:16-17)ので、推測が尽きない(黙示7:5-8)が、この部族から名工オホリアブが出た(出エジプト35:30-34)外にサムソン(士師13章)

次に生まれた子をナフタリと名づけた。ラケル劇場の第二幕である。

ラケルは「私は姉と死に物狂いの争いをして、ついに勝った」と凱歌をあげる。しかし、これは「死に物狂いの争い」を促すような場面ではない。私たちも、子が与えられなかったラケルに同情はするが、彼女の興奮だけが伝わってくる気がする。読者は、素直に喜べないのだが・・・。

レアも負けじと、ヤコブにジルパを与える。

私達の前に展開しているのは、偉大な先祖の美しい家庭物語ではない。自己中心な罪人がくり広げる家庭内闘争の物語である。こうして見ると“私達の先祖はアブラハムだ”などと誇るのは、愚者のたわ言に過ぎない。実に、この汚濁に塗れた営みの中から「定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました」(ガラテヤ4:4)栄光、主にあれ。

ガドは「幸運が来た」と言う喜びの表明である。

アシェルは「なんと幸せなこと」と、自己陶酔かもしれないが、感嘆の声を象徴している。

父ヤコブの目に、この二人の印象は余り強くない(49:19-20)しかし、モーセの祝福は、レビとヨセフを除けば、例外的である(申命記33章)しかも、アシェルからイスラエルへと。

ルベンの恋ナスビ(マンドレイク)

ルベンが恋なすび(妊娠促進の効果があると考えられていたらしい。麻酔剤の原料になるとか)を母レアに持ち帰ると、ラケルが強引に奪う“何でも欲しがるラケル”と呼ぼうか。

レアは自分に与えられた子をイッサカルと名づける「神は私に報酬を下さった」と神を仰ぐ。

次の子をゼブルンと名づける「神は私に良い賜物を下さった」レアの命名には神が顕在する。

ディナ(裁き・ダンと同じ語根)彼女が紹介されているのは、後の事件のためか。

ついに、ラケル自身が出産

「神はラケルを覚えておられた」神が忘れたのでもなければ、見捨てたのでもなかった。しかし、見事なタイミングである。ラケルの口に「神は・・・主が・・・」と、御名が浮かぶ。この子がヨセフである。ヤコブはヨセフを溺愛した(37:3)その愛は、兄弟に妬みを起こさせた。

Ⅱヤコブ、ラバンに掛け合う

ヤコブは義父ラバンに「私を去らせ、私の故郷の地へ帰らせてください」と申し出る。その動機は何であったのか。

ラバンがヤコブを誉め「あなたの望む報酬を申し出てくれ。私はそれを払おう」と、逆提案するのを見ると、労使関係の不平等に対する不満の表れと見ることができるだろう(30節)

慰留されて、ヤコブは「ぶち毛とまだら毛のもの全部、羊の中では黒毛のもの全部、やぎの中ではまだら毛とぶち毛のものを、取り出してください。そしてそれらを私の報酬としてください」と要望する。これが、二人の間の新しい労働契約となる。

したたかなラバンは、ヤコブに属すべき物の中から、あるものを「取り出して、自分の息子たちの手に渡した。そして、自分とヤコブとの間に三日の道のりの距離をおいた」これが、後に、ヤコブが逃走するときのハンディーとなる(知者は知に溺れると言われる)

「ヤコブは、ポプラや、アーモンドや、すずかけの木の若枝を取り、それの白い筋の皮をはいで、その若枝の白いところをむき出しにし、その皮をはいだ枝を、群れが水を飲みに来る水ため、すなわち水ぶねの中に、群れに差し向かいに置いた」

ヤコブの繁殖方法が独創的なものであったのか否かは知れない。とにかく、ヤコブは、彼の知りうる手段と方法を用いて、自分に属するものの繁殖に全力を傾注したのである。同じサービスを、ラバンから預かっている群れにはしなかった。

ヤコブの子ヨセフは、その忠実な働きによって、エジプトの主人ポティファルを富ませたが、ヤコブにはそんな寛容さは伺えない。ここには、自分のためにだけ生きるヤコブがいる。

ヤコブは強引で、その名の通り(25:26)自分の腕を頼みとする(エレミヤ17:5)男の面目躍如ということか。とにかく「この人は大いに富み、多くの群れと、男女の奴隷、および、らくだとロバとを持つようになった」

ヤコブのような男は、21世紀の大都会でも、自分の道を切り開くことが出来るだろう。だが、それがすべてではない事を知るのに、そんなに多くの時間はかからない。