創世記3章

創世記3章          誘惑・堕落・失楽

Ⅰ誘惑者(3:1-6)

創世記の記者が次に取り上げなければならなかったのは、罪がどのように入ってきたかと言うことである。創造者の目に「非常に良かった」と映った世界ではあるが、創造の象徴的な存在である人間の罪深い現実は覆いようもない。イスラエルが人間の歴史を罪の考察から始め得たのは啓示の賜物である(メソポタミヤ伝承では、大洪水の原因にも罪は見られない。ノアの洪水物語と対比すると見えてくるものがある。些か飛躍するが、キリスト者は、主の十字架の死を「私たちの罪のため」と告白するが、他の文化では敵を外に見い出す。例えば忠臣蔵)著者は、何が罪をもたらせたのかを問い、最初に人を誘って罪に陥れた敵を考察する。

神が造られた世界に、悪がどのように侵入してきたのか明解に説明できない(預言者イザヤが、強大で不遜なサタン的バビロン王について書いた言葉(14:12-15)は示唆に富む。エゼキエル28:15)神の民は、罪と悪を見つめながら、多くの時を経てサタンの全体像を知るに至る(サタンの存在と本性について、聖書は随所で明らかにしている。サタンは旧約17回・内ヨブ記に14回、Ⅰ歴代21:1とゼカリヤに3回、新約には35回。旧約に悪魔表現はないが新約には34-36回)聖書には、分かりやすい善悪二神を持ち出す二元論は見当たらない。これも特筆すべきことではないか。

新約聖書はサタンと悪魔を併用しているが、黙示録は両者が同一であると語る(黙示12:9,20:2)サタン(ハッサーターン)はへブル語であり、語義は、訴える者・誹謗する者を意味する。ギリシャ語風に読むとサタナスであり、サタンに相当するギリシャ語はディアボロス(誹謗する者)である。日本語訳はこれを悪魔と訳出する(英訳はサタンとデヴィル)

この他、ベルゼブルが悪霊のかしら(マタイ12:24)と呼ばれ、サタンと同等の意味で使われている(ルカ11:15-19)これはⅡ列王1:2-16に登場するエクロン人の神バアル・ゼブブである。また、パウロが用いたベリアル(Ⅱコリント6:15)は「よこしまな者(或いは偽り者)」(申命記13:13)に起源が見られ、祭司エリの子らがそのように呼ばれている(Ⅰサム2:12)

創世記記者は、悪の存在を認識していたが、サタンの全貌を理解していたわけではない。しかし、悪がどのように人の心を奪い支配するかについては、確かな洞察を持っていた。

1、 誘惑者は蛇の装いで登場

古代宗教において蛇はしばしば神格化されている。私たちの聖書は、それを意識するかのように、蛇を初めから神の反逆者としてみる。それは黙示録においても継承されている(12:9、20:2)

しかし“蛇とは何ものか”という議論は無益である。何故なら、主はペテロに向かって「下がれ。サタン」と面罵した。そこでは、主の邪魔をする者が退けられている(マタイ16:23)

「蛇が一番狡猾(共同訳は賢い・アルーム)であった」主イエスも「蛇のようにさとく、鳩のように素直でありなさい」(マタイ10:16)と言われた。すると、ここでは、蛇の賢さが不正使用された典型と言えるだろうか「サタンは光の天使に偽装する」(Ⅱコリント11:3、14)

2、誘惑者は懇ろに同情者のごとく近づく

「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか」蛇は、ある日、突然襲いかかったのではあるまい。むしろ、両者の間は気を許す関係ではなかったか。蛇は、女の中に燻る満たされない欲求を、目敏く感じ取ったのであろう。自分だけが理解者であるかのごとく、いかにも親切な同情者のように近づく。

蛇は、女が保護の下にあるのを見過ごさせ、制限下に置かれていることを思い知らせて、潜在的な欲求不満を掻き立てる。こうして、心を乱された女の心を絡め取ったようである。そのアプローチは巧妙である。まことに老獪な敵(黙示録20:2)ではないか。

女は、あの豊かな楽園にあって、すべてが許されているにも拘らず、唯一つの制限課題に引きずり込まれたのである。唯一つの制限が、他のすべての恩恵よりも大問題なのだろうか。決してそんなことはない。それにも拘らず、全体を見失わせられる展開となる。最早、相手の土俵である。

3、 誘惑者は偽り者

彼は親しげに近づき、一度懐に入ると、速やかに高飛車となる「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです」と偽って憚らない。両者のパイプがひとたび繋がると、あとは、偽りの情報が蛇から女へ濁流のように流れ込み、女は最早冷静に吟味することができない。何故なら、水が高いところから低いところへ流れるように、蛇と女の関係では誘惑者のほうが圧倒的に優位な立場に立ち、その流れは一方通行である(これよりも遥かに大きな落差のある神と人の間に交わりが可能なのは、神が哀れみ深いからである。御子は栄光を捨てて人と同じ姿を取られるほど恵み深い、Ⅱコリント8:9、ピリピ2:6-8)。

彼は、神の言葉を否定し、神に悪意があるかのように思い込ませる。彼の言葉には根拠がなく、偽りそのものであるが、一度耳を貸すと、神と人の間に打ち込まれた楔のような効果を発揮する(陪審制度のもとで、検察も弁護側も、記録から削除されるのを承知で際どい発言の応酬をする。陪審員は一度耳にした言葉から完全に自由になる事ができないからである)

主イエスは「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」(ヨハネ8:31-32)と言われたが、頑ななユダヤ人に向かって「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者・・・悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです」(ヨハネ8:44)と喝破された。

人が真理である神の言葉から逸脱すると、速やかにサタンの偽りの支配に捻じ伏せられてしまう。サタンの巧言令色に耳を傾けてはならない。

4、誘惑者は訴える者

ヨブ記は、サタンを文字通り「訴える者」として描き出している。妬み深いサタンは、敬虔で誠実なヨブを神の御前で訴える(ヨブ1:6-2:7、ゼカリヤ3:1)

旧約聖書では、サタンの正体は未だ明らかではない(Ⅰ歴代27:1に見られる記事が、サタンを超自然的な力を持つ敵として描写した最初であろう。新約聖書は、サタンの存在に関して、すでに広く共通の認識を持っていることを前提としている。

5、 新約聖書におけるサタン(或いは悪魔)の主な働きを取り上げてみる。

マタイ4:16には、御子イエス・キリストにも挑みかかる姿が描かれている。

マタイ16:23、これはペテロの経験であるが、サタンの本性が「神のことを思わず、人を思う」ことにあると教えられる。

主は「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました」(ルカ22:31)と警告された。ペテロはサタンの執拗な攻撃を「獲物を求めて咆哮するライオン」になぞらえている(Ⅰペテロ5:8)恐怖の経験であった。

マルコ4:15では、蒔かれた御言葉の種を、人の心から奪い取る敵として描かれている。

パウロも「私たちは、あなたがたのところに行こうとしました。このパウロは一度ならず二度までも心を決めたのです。しかし、サタンが私たちを妨げました」(Ⅰテサロニケ2:18)と報告している。

ルカ13:61では、人を病苦に閉じ込めている元凶として描かれている。

エペソ6:11は、悪魔に対抗する武具について教えている「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい」これは、サタンの力が、人間の知恵や力で対処できるようなものではないことを教える。

しかし、いたずらにサタンを恐れることはない。ヤコブも「神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります」(4:7-8)と教えている。

ついでながら、悪霊たちさえも、主の御名のまえでは「身震いしています」(ヤコブ2:19)

結論的には、サタンを知るために費やすエネルギーを、神を知るために用いたら良いと思う。



Ⅱ敗北と結果(3:7-13)

パウロの言葉に「アダムは惑わされなかったが、女は惑わされてしまい、あやまちを犯しました」(Ⅰテモテ2:14)というのがある。アダムも妻から与えられた木の実を食べたのであるから、弁解の余地はないのであるが、園の誘惑の場面が見えるようで興味深い(蛇は園の管理者に近づいたが拒まれ、女を組し易いと見て執拗にアプローチしたのであろうか。弱さが攻撃の的になる)

このように書いたパウロではあるが、彼は、堕落を女の責任として男の責任を回避しているわけではない。罪を正面から論じる時は「ひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がった」(ローマ5:12-21)と受け止めている。

誘惑者を気安く近づけたのは油断ではなかったろうか。イスラエルの知恵は「油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、これから流れ出るからである」(箴言4:23)と教える(堺屋太一に“油断”という著作がある。油断とは示唆に富んでいる。主のたとえ話も油断を戒めている、マタイ25:1-13)いずれにしても、神の恵みに感謝することを忘れると、心の隙間に楔を打ち込まれる。

1、女の抗弁

女も神との約束事をすっかり忘れていたわけではない。蛇に対して懸命に弁明した。しかし、彼女の返答には、真理の為ではなく、蛇にからかわれて自己弁明に躍起となっている様子が感じられる。心の中を見透かされ、自分の体面を取り繕うとすると、このような曖昧なニュアンスになるのではないだろうか。園にはただ一人の主人がおり、その方の御心は「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」(2:17)と明解である。

「それに触れてもいけない」という表現は、女のなかでいつの間にか変質していたものが噴出しているように見える。戒めは神の主権を語るものであるが、彼女の恐れは神ご自身よりも、目前に置かれた木そのものに移っているように見える(ここから迷信が発生する)女の抗弁は、狡猾な蛇には隙だらけの防衛に過ぎない。結果的に、彼女は蛇を傍らに引き寄せることになる(Ⅰテモテ6:9-11)

2、女は自分の感性に従う

女は、神の言葉を傍らに置いて蛇の主張に耳を傾けた。神に対して反逆の意思があったとは思えないが、結果的に、女は神の言葉よりもサタンの声を優先した。彼女自身は、神を捨てたとの意識を持たず蛇に信頼したわけでもなかろうが、巧みに自分の欲望に従わされたのである(ピリピ3:19)

「女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われた」女は最早この魅力に抵抗することができず、さっそく「その実を取って食べた」(ヨハネも「すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、持ち物の誇は、父から出たものではなく、世から出たものである」(Ⅰヨハネ2:16)と見抜いている)

主イエスは「罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です」(8:34)と言われたが、まさに唯々諾々。

3、 悲劇的知識、恥の発見

ある種の薬は、目先の効果よりも後から明らかになる副作用が問題である(サリドマイドやエイズの非加熱製剤は、取り返しの付かない悲劇を生み出した)

罪の誘惑にも同様なことが考えられる。それは「食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましい」外観を持っている。どんな不正行為にも束の間の達成感があるらしい。しかし、いつまでも欺きの美酒に酔いしれている事はできない。間もなく正体が判明する“後悔先に立たず”

人が禁断の木の実を食べると、なるほど目が開かれた。しかし、そこで知りえた最初の知識は「自分たちが裸であることを知った」にすぎない。何と無残な知識であることか。罪を犯す前「人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった」(創世記2:25)これは“羞恥心が芽生えた”などと言って済ますことはできない問題である。

あれほど憧れていた知識への開眼であったが、結果はパンドラの箱を開くに等しかった。知識が見せてくれる真価を見るに至らず、自分たちの惨めさ・儚さ・危うさの発見に留まった。

パウロの開眼と比べてみよう「私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています」(ピリピ3:7)知識とは神を知ること(ヨハネ17:3)

4、 最初の労作

裸の恥を知った人は「いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った」人の知恵は、健気にも恥を覆うために最初の労作を生み出した。綻びやすい木の葉の衣装、それは、あの時だけの急場凌ぎではない。その後に展開する人間の文明を象徴している。

楽園を追放するに先立って「神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった」(3:21)この時すでに、いちじくの葉衣が無益であることを物語っている。顧みると、皮の衣は流血があったことを暗示している。

人間の文明は自己主張・自己義認の上に築かれる。しかし、預言者イザヤは「私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。私たちはみな、木の葉のように枯れ、私たちの咎は風のように私たちを吹き上げます。しかし、あなたの御名を呼ぶ者もなく、奮い立って、あなたにすがる者もいません。あなたは私たちから御顔を隠し、私たちの咎のゆえに、私たちを弱められました」(イザヤ64:6)と、人間性の本性を直視している。

5、 主のみ顔を避ける

人は裸の恥を知り、緊急避難的にいちじくの葉衣を腰に巻いたが、それは何の助けにもならなかった「彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した」

神のかたちに似せて造られた人は、神を仰ぐことによって輝く(詩34:5)人は初めから、神と向かい合って生きるように造られたのではなかったか(神を求めずにはいられないほどに)そして、神がアブラハムに求めたのも「わたしの前を歩み」(創世記17:1)であった。

詩篇の記者は「わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを」(詩篇42:5)詩人は、主のみ顔(臨在)が救いだと詠っている。しかし、罪を犯した者には、神の臨在が恐れとなる。自ら「主の御顔を避け」た(ヨナ1:3)預言者もいたが、彼はその愚かなことを思い知らされた。

人は、神から身を隠すことができないことを知るべきである。詩人は「私はあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。私はあなたの御前を離れて、どこへのがれましょう。たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられます。私が暁の翼をかって、海の果てに住んでも、そこでも、あなたの御手が私を導き、あなたの右の手が私を捕えます」(詩篇139:7-10)と告白している。この事実は、神から逃れようとする者には厄介だが、神を求める者にとってはありがたい。いずれにしても、光との交わりが恐れならば、残るは闇である。

6、責任転嫁

罪を犯して進退窮まっている者に「あなたは、どこにいるのか」と、神は呼びかけられる。実に、この日から、創造者は捜しものをし続けておられる。主イエスは「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです」(ルカ19:10)と言われる。

人は「園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました」と答えるが、この言葉には、恥の感覚や後悔の念は感じられても、認罪や悔い改めの意思は伺えない。無知なのであろうか、或いは頑ななのであろうか、未だ明らかではない。

しかし「あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか」と追い詰められて、事実が明らかになる。彼の弁明は「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです」全くの責任転嫁である(マタイ27:24と使徒信条)

人の言葉には、反省も悔い改めも謝罪もない。自己弁護の主張だけが空しく響く。女は夫の言葉をどんな気持ちで聞いたであろうか。彼女の耳には未だ「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉」(2:23)と叫んだ男の感動の言葉が残っていなかっただろうか。罪はこれほど自己中心的で、人を自己保身に走らせる。それにしても、愛の冷え行く事、何と甚だ急なことか。

女も弁明に躍起となる「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです」と。いずれの弁明も100%偽りというわけではないが、逃れられない責任を後回しにして問題を複雑にする。未だ「キリストは私たちの罪のために死なれた」(Ⅰコリント15:3)という告白に遠い。

Ⅲ裁きとあわれみ(3:14-24)

「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ」これが、園における厳正な神の戒めであった。肉体的な死は直ちに訪れなかったが、人は生命の源泉である神との交わりを自ら断つ。かくて楽園の追放である。後日、イスラエルは「人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる」(申命記8:3、マタイ4:4)と学ぶ。

裁きの日にもあわれみを忘れない神は「皮の衣を作り、彼らに着せてくださった」が、人を楽園から追放して「いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた」避けることのできない厳正な審判である。パウロは「見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを。倒れた者の上にあるのは、きびしさです。あなたの上にあるのは、神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り落とされるのです」(ローマ11:22)と肝に銘じている。

1、 誘惑者に破滅の宣言

「神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾(賢い、美しい)であった」と言われた蛇は、今や「おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。おまえは、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない」と屈辱的な宣言を受ける。

この聖句から「蛇と腹ばいとちり」について深入りするのは無意味である。預言者は「狼と子羊は共に草をはみ、獅子は牛のように、わらを食べ、蛇は、ちりをその食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても、そこなわれることなく、滅ぼされることもない」(イザヤ65:25、創世記1:24)と。しかし、蛇の背後にある者に対しては「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく」と言われる。著者がこれをメシヤ預言と理解していたとは思えないが、新約聖書はこの聖句にメシヤ預言を汲み取っている。

パウロは救い主を「定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました」(ガラテヤ4:4)と書き、また「平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます」(ローマ16:20)と表現する。

ヘブル書の著者も「子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした」(2:14-15)

黙示録は「竜は女に対して激しく怒り、女の子孫の残りの者、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている者たちと戦おうとして出て行った」(12:17)と。

神の御子は、人類の贖いのために無傷ではすまなかった。御子はご自身の死をもって死を滅ぼされたのである。十字架の死は「彼のかかとにかみつく」という表現に値する。主イエスは十字架の上で「完了した」(ヨハネ19:30)と勝利宣言をされている。

2、女に下された裁き、栄誉は苦しみに、愛の絆は服従のくびきに

「わたしは、あなたのみごもりの苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない。しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる」

出産は、女性に与えられた栄誉である。神は創造の最高傑作である人の継続的な誕生を人に委ねてくださったのである“結婚すれば子どもが生まれるのは当たり前”とする考えは改めなければならない。詩人は「見よ。子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である」(詩篇127:3)と神を讃える。人は生命誕生を驚きと感動をもって受け止めるべきもの。しかし、今や苦悩となる。

「あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配する」

当然の事ながら、罪は夫と妻の関係をも破壊した。愛と喜びと信頼の関係は、恐れと隷属に変わった。先にも述べたが「私の骨からの骨、私の肉からの肉」という感動は忘れられた。今日、夫の暴力の下に置かれている妻は少なくない。これは、罪の現実を指摘しているのであって、この歪んだ関係を肯定しているのではない。

3、人に下された裁き、誇りは労苦に

「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない」

「土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった」人がのろわれるのは分かるが、人の罪によって土地がのろわれるのは何故か。このことを、どのように理解すべきであろうか。

人は園の管理者に任ぜられ、土地を耕す職務をあたえられた。人と土地の関係は明らかである。人が勤勉であれば土地は豊かになり、人が怠慢であれば土地は速やかに荒地となる。人は神に対して罪を犯す者である(創世記39:9)が、人の罪は現実的であり、周囲との関係を破綻させる(女との関係破綻は先に見た)本来、耕作(奉仕)は喜びであり誇りであった筈だが、今や労苦だけが目に付くのであろう「顔に汗を流して」とは、労苦の様を描写するが、これまでの農作業に汗水流す必要がなかったと言っているわけではない。

「あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない」

ちりは、創造者の手によって「神のかたち」をおびたのである。しかし、神との交わりを捨てた人がちりに帰るのは当然のことである。それにも拘らず、神はいつくしみ深い。詩人は「父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。主は、私たちの成り立ちを知り、私たちがちりにすぎないことを心に留めておられる」(詩篇103:13-14)と賛美する。

キリストに贖われて、パウロは「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです」(Ⅱコリント4:7)と。「神のようになりたい」との野心は潰えて、人は塵に帰る。

4、裁きの日にもあわれみ

神は裁きを曲げる事ができない。しかし、神は裁きの日にもあわれみを忘れない。主も「わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない」(マタイ9:13、12:7、ホセア6:6)と引用する。

「神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった」皮の衣が、人の労作であるいちじくの葉衣と対比されていることは紛れもない。

手作りの葉衣は、緊急避難的で間に合せであるが、神の賜物である皮衣は恒久的である。人は裸の恥を知ったが、自分の手ではその恥辱を覆うことはできない。人の成し得ないことを神は恩恵として賜る。皮衣は動物の血が流されていることを暗示している。

賛美歌に“主の義をまといて”という表現があるが、今日いわれる義認・宣義の淵源をなすものか(エンドゥオー。エペソ4:22-24、コロサイ3:9-15、ローマ13:14・・・黙示録3:18、19:13-14)

5、エデン追放、園は閉じられる

こうして、人は、創造者が設けてくださった最高の生活環境から放逐された。園は管理者を失い、管理者である人は園を失ったのである。人にとって、裁きは当然の報いであるが、被造物全体は人の罪に巻き込まれたと言えるだろうか。パウロは「被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです・・・私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています」(ローマ8:19-22)と。

いのちの木への道は封じられ、人は虚しく「ちりに帰らなければならない」者となったが、神は御子イエス・キリストによって、再びいのちに至る門・道を開いてくださった(マタイ7:13-14)

「わたしは門である・・・わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません・・・わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」(ヨハネ10:9、28、14:6-7)

人間の歴史が楽園追放から始まることを肯定しながら、救済を待ち望む信仰の不屈なことを銘記。