創世記29章

創世記29章          ヤコブの新天地

ヤコブは逃亡者のように家を出たが、神はヤコブに現われ、真にあわれみ深く彼を取り扱われた。著者は「ヤコブは旅を続けて、東の人々の国へ行った」と表現する。これには示唆があると思う。母リベカは、ヤコブの向かう先を「ハランへ、私の兄のところへ」(27:43)と言い、イサクは「パダン・アラムの、おまえの母の父ベトエルの家に行き」(28:2)と行き先を示した。

しかし、著者は、東へ追放された人間の物語から始めて(3:24、4:16)東から約束の地に導き出されたアブラハムの物語を展開した。イサクはその地に定住したが、その子は再び東へと逆戻りする。

神は「見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない」(28:15)と約束されたが、東に向かう旅路は波乱万丈を暗示する。

Ⅰヤコブ、母リベカの故郷で

「ふと彼が見ると、野に一つの井戸があった」母リベカは井戸辺のロマンスを語った事であろう。旅先では、人は感傷的になる傾向がある。ヤコブも母が飲んだであろう井戸に親しみを覚えた事か。ダビデは、戦場で、幼少期のベツレヘムの井戸を想起している(Ⅱサムエル23:15)

ヤコブは、井戸辺で「兄弟たちよ。あなたがたはどこの方ですか・・・あなたがたはナホルの子ラバンをご存じですか」と訊ねる。アブラハムのしもべの接し方とは異なる。きっと、ヤコブの性格が反映しているのであろう。

7節の「ご覧なさい。日はまだ高いし、群れを集める時間でもありません。羊に水を飲ませて、また行って、群れをお飼いなさい」と言う言葉は、アドヴァイスというよりもお節介の感がある。初対面の人々に指示を与えるのは賢いことではない。案の定、ヤコブは、この人々の慣習としていた共同作業を知らなかったのである。

ヤコブがこのような提案をしたのには、他の意図があったことが推測される。近づいてくる羊飼いの娘ラケルと、誰をも交えないで語りたかったのであろう。実際、感極まった「ヤコブは、ラケルに口づけし、声をあげて泣いた」

旅路の厳しさ、孤独と恐れ、悔恨と将来に対する不安。感情の嵐が片時も心を休ませないような状況を経て、ついに、たどり着いた親戚との出会い。一条の光を見る思いがしたであろう。しかも、近づいてくる「ラケルは姿も顔だちも美しかった」(井戸辺のリベカも美しかった)

ヤコブは、ラケルに代わり、甲斐甲斐しく水を汲んだ。

余談だが、ヤコブには働く姿が似合う。ヤコブはラケルと初対面の日、彼女のために水を汲んだ。その後、ヤコブはラケルを娶るために14年間働くことになる。彼は、伯父のラバンに欺かれてもへこたれず、生産性の高い労働をしている。

ラバンは「あなたは、ほんとうに私の骨肉です」と言って、ヤコブを歓待した。

Ⅱヤコブとラバンの契約

1月後、ラバンはヤコブに提案した「あなたが私の親類だからといって、ただで私に仕えることもなかろう。どういう報酬がほしいか、言ってください」と。

この間、愛想も要領もいいヤコブは、親戚の居候ではなかった。ヤコブは、ラバンの家でも頼もしい働き手であったに違いない。したたかなラバンは、ヤコブを自分の所に留めるために、労働契約を持ち出したのではないだろうか。

ヤコブは、姿形の良いラケルを愛していたので「私はあなたの下の娘ラケルのために七年間あなたに仕えましょう」と応えた。結納金を持ち合わせないヤコブの、気前の良い返答であった

ヤコブが、美しく快活なラケルを愛したのは、ごく自然な成り行きであったと思われる。しかし、著者は殊更に「レアの目は弱々しかった」と記し、それが、ヤコブの選択の判断基準となったことを暗示している。このようにして、両者はそれぞれの打算の上で契約を交わした。

アブラハムは、ソドムの王やゲラルの王アビメレクと向かい合った時(14:22、20:17)憚らず主の御名を掲げた。イサクも、アビメレクとの契約に際して主の御名を持ち出した(26:28)

しかし、ヤコブの物語の前半には、神も主も見当たらない(夢の啓示は、まったく受動的)アブラハム・イサクの子としては、些か気がかりである。

7年仕えたヤコブは「私の妻を下さい。期間も満了したのですから」と、契約の履行を申し出る。「そこでラバンは、その所の人々をみな集めて祝宴を催した」

祝宴は、結婚が公的なものである事を物語るのであろう。有頂天のヤコブ、ラバンの策謀など知るよしもない。ラバンはラケルの代わりにレアを押し付けた。

朝になって、事情を知ったヤコブは「何ということを私になさったのですか。私があなたに仕えたのは、ラケルのためではなかったのですか。なぜ、私をだましたのですか」とラバンを詰問する。

ラバンの言い分は「われわれのところでは、長女より先に下の娘をとつがせるようなことはしないのです・・・」と。これはまったくの詭弁だ。

しかし、ラバンの心中を覗いて見よう。誰にも愛される美しいラケル、いつも取り残されるレア、彼の父性は痛みを覚えなかっただろうか。“とにかく、ヤコブに押し付けてしまえ”とは、ラバンの苦肉の策ではなかったろうか。

こんな理不尽で一方的な主張を、ヤコブは、それ以上何も言わずに受け入れた。なぜであろうか。ヤコブは、始めに「なぜ、私をだましたのですか」とラバンを責めたとき、自分が父と兄をだましたことを想起したのではないだろうか。他者の悪意は、彼にとって思い当たることばかり。

Ⅲ子供たちの誕生

「主はレアがきらわれているのをご覧になって、彼女の胎を開かれた」

ラケルには子が授からなかったが、レアは次々に子を生んだ。彼女は命名に当たり、自分の胸中をさらけ出している。その心情は、いつも同じではない。感謝や賛美もあるが、自己満足的なものもある。ライバルに勝ったというのもある。

長子の名を、ルベンと名づけた「主が私の悩みをご覧になった。今こそ夫は私を愛するであろう」ルベンはヨセフには好意的であった(37:21-22)が、不品行に陥った(49:3-4)

第二子はシメオン「主は私が嫌われているのを聞かれて、この子をも私に授けてくださった」と。シメオンは、シェケムに暴虐の剣を振るった(49:4-7)

第三子はレビ「今度こそ、夫は私に結びつくだろう。私が彼に三人の子を産んだのだから」レビもシメオンと同罪である。しかし、神は、レビ人からモーセとアロンを得、祭司の家系とする。

第四子はユダ「今度は主をほめたたえよう」ユダについては「王権はユダを離れず」(49:10)と言われた。ヤコブは、ユダの相続を容認したのであろう。ユダからダビデ、主イエスにつながる。



命名について考えてみたい。

イシュマエルと名づけたのはアブラハムであった(16:15)

イサクと名づけたのもアブラハムである(21:5)

エサウ場合(25:25)「名づけた」(ワイイックレウー)の主語は、複数である。ヤコブも同様であろう。この場合は、イサクとリベカということである。いかにも、この夫婦らしい。

さて、ヤコブの子らは12男と1女が知られている。その命名は、レア9人、ラケルが4人であるが、最後のベニヤミンは、ヤコブがベン・オニをベニヤミンと修正している(35:18)

母系社会、父系社会、様々なことが言われる。しかし、聖書の中で、名前が極めて重要な意味を持っていることは周知の事実である。そして、命名は、慣習に束縛されずに、大胆に行なわれている。推し量るに、若き日のヤコブは、命名に殆んど関心を持っていなかったと言わざるをえない。

しかし、ヤコブ自身が、後にイスラエルと改名させられる(32:27-28)そして、そのあとで誕生した末の子に、ヤコブ自身が始めて命名した。その子が、ベニヤミン(右手の子)である。