創世記28章

創世記28章          ヤコブの旅立ち

山野を楽しんだエサウが家に留まり、天幕を愛したヤコブが家を後にする(25:27)

ヤコブとリベカの謀略の結末は、人間というものがどんなに近視眼的であるかを、今更のように考えさせる。一つの家族の中で、父を欺き兄を出し抜けば穏やかに済む筈がない。こんな単純な結果も予測しなかったようである。

主イエスはユダヤ人たちに「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今『私たちは目が見える』と言っています。あなたがたの罪は残るのです」(ヨハネ9:41)と言われた。私達の目は、自分が見たいものを見る。無関心なことには目が届かない。時には目を覆う。もし、周囲に対して僅かなりとも公平な眼差しを向ければ、後始末に費やすエネルギーを大きく削減できるのではないだろうか。

リベカは、片時も自分のそばから離したくない愛息ヤコブを、自分の入れ知恵で遠く旅立たせることになる。彼女が夫イサクを納得させる口実は、いささか芝居がかっている「私はヘテ人の娘たちのことで、生きているのがいやになりました。もしヤコブが、この地の娘たちで、このようなヘテ人の娘たちのうちから妻をめとったなら、私は何のために生きることになるのでしょう」と。

確かに、エサウの妻たちは、以前から「イサクとリベカにとって悩みの種」(26:35)であったが、受忍限度を超えていたとは思えない。不満を噴出させるチャンスにもなったのであろう。

Ⅰ父イサクの祝福と命令

「イサクはヤコブを呼び寄せ、彼を祝福し・・・カナンの娘たちの中から妻をめとってはならない。さあ、立って、パダン・アラムの、おまえの母の父ベトエルの家に行き、そこで母の兄ラバンの娘たちの中から妻をめとりなさい」と命じる。そして「全能の神がおまえを祝福し、多くの子どもを与え、おまえをふえさせてくださるように。そして、おまえが多くの民のつどいとなるように。神はアブラハムの祝福を、おまえと、おまえとともにいるおまえの子孫とに授け、神がアブラハムに下さった地、おまえがいま寄留しているこの地を継がせてくださるように」と祝福する。

私たちが知る限りでは、ヤコブは未だ一人で神の御前に立ったことがない(父イサクは、アブラハムと共に22章の経験を経てきたが、三代目ヤコブは温室育ち)ヤコブが神の前に立つのは、これから経験することである。

それ故、イサクの祝福は父の祈りであり、ヤコブが神との契約の継承者となり得たとはいえない。しかし、これが転機となって、彼は自立の道を歩み出す。

パウロは「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」(ローマ8:28)と信じる。

人は情熱を傾けても失敗を繰り返すが、神は真にあわれみ深い「すべてのことを働かせて益としてくださる」それ故、益となったからといって、私達の決断が正しかった証拠にはならない。

「こうしてイサクはヤコブを送り出した」これは、皮肉な見方をすれば“無期限追放”である。なぜなら、将来の展開は未だ誰にも見えない。そこで、人の心配が始まる。

一度心配事が始まると、次から次へと広がる。そして、疲れ果てるのがお決まりのコースだ。この状況に追い込まれたヤコブに、神は真に恵み深い(ローマ9:13、24-25)パウロがマラキ(1:2-3)を引用した後、預言者ホセア(2:23)をも引用しているのは見過ごせない。

Ⅱエサウの行動規範

ヤコブの出立はエサウに知らされていなかったが、彼は「ヤコブが、父と母の言うことに聞き従ってパダン・アラムへ行ったことに気づいた」しかし、それについてエサウは一言も言及していない。エサウについては、ヘブル書の証言がある。著者はエサウに言及して「一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者(ベベーロス)」(12:16)と決め付ける。この言葉は11章20節を加味するなら、世俗的なという意味ではないか。

エサウは、見かけよりもナイーブなところがある。彼は自分の妻たち、即ち「カナンの娘たちが父イサクの気に入らないのに気づいた」どうやら、遅まきながら心を痛めているようである。そこで、彼は父の関心を得るために「イシュマエルのところに行き、今ある妻たちのほかに、アブラハムの子イシュマエルの娘で、ネバヨテの妹マハラテを妻としてめとった」これは、あまり知恵のある仕業とは見えない。しかし、彼の動機や心情を汲み取ることはできる。小生は、このような行動に駆り立てられたエサウの心情をあわれに思うのだが・・・。

欺かれた直後のエサウの怒りは激しく、ヤコブの心には終生忘れられないほど深く刻まれたが、数十年後に再会してみると、エサウの心は恩讐の彼方にあった(創世記32:7,10、33:4、10)

個人的なたわ言である。日常的には、ヤコブよりもエサウの方が気の置けない友なのではないか。

Ⅲヤコブが神の啓示を受ける

ヤコブは「ベエル・シェバを立って、カランへと旅立った。ある所に着いたとき、ちょうど日が沈んだので、そこで一夜を明かすことにした」詩人は「まことに、夜になると、私の心が私に教える」(詩篇16:7)と歌うが・・・逃亡者に等しいヤコブの第一夜は、如何なるものであったろうか。

夜は闇と恐れの忍び寄る時である。また、日中の喧騒から離れて内省する時でもある。その後の物語の展開を見ると、夢がヤコブの深層心理の現れであるなら、彼の夜が推測できる。

主イエスは「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます」(マタイ7:7-8)と言われた。物語の夢の啓示は、ヤコブの嘆き(祈り)に対する慈悲深い神のアプローチと言えるのではないか。

「見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。そして、見よ。主が彼のかたわら(その上)に立っておられた」

いくつかの示唆がある。主イエスはナタナエルに「天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます」(ヨハネ1:51)と、これを引用された。

ヤコブにおいては、もっと単純なものであったろう。仮の目的地(アラム)はあるが、孤独である。どんな待遇を受けるのか保障されていない。神の祝福を確信することも出来なかったであろう。文字通り「さすらいのアラム人」(申命記26:5)であった。

しかし、夢のお告げは「神の御使いたちが人の子の上を上り下りする」。道は開かれているではないか。その頂点には「主が・・・立っておられた」こんな栄光に輝く道を見たことはない(後に、預言者イザヤは神の御座を幻で見る。6章)

主の御声は「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である」と言われる。神が父祖の名によって啓示される。神が、アブラハムやイサクのように身近に感じられたことであろう。父イサクから聞かされてきた祝福の契約が(ヘブル11:20)夢ではあるが現実味を帯びてきた。

今や、ヤコブは契約の当事者とされている(祝福の内容は変わらない、むしろ深まるほど。15節)殊に、印象的な言葉は「連れ戻す」(48:21)「決してあなたを捨てない」(ヨハネ14:18)

ヤコブは眠りから覚めた時、夢の啓示を正夢として受け止め、神の御名を呼ぶ。何と大胆なヤコブの確信ではないか。彼は告白した「この場所は、なんとおそれおおいことだろう。こここそ神の家にほかならない。ここは天の門だ」

「ヤコブは自分が枕にした石を取り、それを石の柱として立て、その上に油をそそいだ」これは、略式であるが、ヤコブが築いた最初の祭壇であり、一人でささげた最初の礼拝である。

ヤコブはこの地(ルズ)を、ベテル(ベイト・エル)すなわち神の家と命名した。彼は、神の聖なる臨在にふれたのであろう。

ヤコブは主に「すべてあなたが私に賜わる物の十分の一を私は必ずあなたにささげます」と誓願を立てる。

「十分の一」という言葉は、14章のメルキゼデクとアブラハムの対話の中に出てきた。後の律法が「十分の一」税を制定した根拠となったであろう(レビ27:30、申命記14:22)