創世記27章

創世記27章         祝福を奪うヤコブ

前章で、イサクもアブラハム契約を継承したと申し上げた。この契約に盛り込まれた祝福は(未だ明らかではないが)御子イエス・キリストの受肉・十字架の贖罪・復活・昇天・聖霊の降臨・主の再臨によって全うされる、壮大なものである

契約の当事者たちは、神の約束を遥かに憧れてはいたが、その全貌を知りえたわけではなかった。ヘブル書の著者が言うように「神は私たちのために、さらにすぐれたものをあらかじめ用意しておられたので、彼らが私たちと別に全うされるということはなかったのです」(11:40)

神の贖いの計画は遠大であるが、それはアブラハム家の家督相続という不確かな衣装に包まれて保持されてきたと言える(例えて言うなら、お金の価値を理解していない幼児に、大金を預けて買い物をさせるようなもの。至る所に悪意や、怠慢が潜んでいる)

アブラハムからイサクに継承される過程には、相続人の誕生が遅れたと言う試練があった。イサクからヤコブに継承されるためには、まったく別な苦しみを通ることになる。

約束された方は、いと高く・全能の神であるが、約束の担い手は私たちと同じ肉の人である。それ故、霊と肉との相克をさけることはできない。人は良い志を持っている時でも、問題が多い。

Ⅰイサクが老いる

「イサクは年をとり、視力が衰えてよく見えなくなった」視力だけでない。彼が息子エサウに語った言葉によれば「見なさい。私は年老いて、いつ死ぬかわからない。だから今、おまえの道具の矢筒と弓を取って、野に出て行き、私のために獲物をしとめて来てくれないか。そして私の好きなおいしい料理を作り、ここに持って来て私に食べさせておくれ。私が死ぬ前に、私自身が、おまえを祝福できるために」と。イサクは自分の死期の近いことを感じる。

イサクは、契約の継承者を選んでバトン・タッチすることを考えた。彼の念頭にあった相続人は、長男エサウであった。

後の律法は、長子の相続権を明記している「ある人がふたりの妻を持ち、ひとりは愛され、ひとりはきらわれており、愛されている者も、きらわれている者も、その人に男の子を産み、長子はきらわれている妻の子である場合、その人が自分の息子たちに財産を譲る日に、長子である、そのきらわれている者の子をさしおいて、愛されている者の子を長子として扱うことはできない。きらわれている妻の子を長子として認め、自分の全財産の中から、二倍の分け前を彼に与えなければならない。彼は、その人の力の初めであるから、長子の権利は、彼のものである」(申命記21:15-17)

律法以前も、一般的には、慣習として長子相続がなされてきたであろう(そして、例外はいくらでもあったと考えられる)

イサクのエサウ贔屓は他愛がない「彼が猟の獲物を好んでいたからである」(25:28)という単純なものであった。イサクは契約の継承者となったが、これを継承させるために、父アブラハムのような葛藤を覚えなかった。悪く言えば安易な取り扱いである。ついでながら、イサクの計画は秘密でもなんでもない。ただ、夫婦間の意志の疎通は欠けていたと言わざるを得ない。

Ⅱリベカの策謀

リベカは、夫イサクの計画を知って心を騒がせる。彼女は出産の時から「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は他の国民より強く、兄が弟に仕える」(25:23)と信じて疑わなかった。それで「リベカはヤコブを愛していた」(25:28)

それ故、リベカにとって、エサウの相続は大問題であった。リベカが狡猾だと言うつもりはない。ひた向きなリベカは、目的に向かって猪突猛進することになる。だからと言って、リベカがエサウを嫌っていたなどと考える理由もない(27:45)

ゼベダイの子らの母を想起するが良い(マタイ20:20-28)我が子が大事で、彼らを取り巻く世界を失念してしまうのである。

リベカは、祝福を弟息子ヤコブに与えるために、なりふりかまわない。こうして、自分の計画にヤコブを巻き込む。彼女は躊躇うヤコブに「わが子よ。あなたののろいは私が受けます。ただ私の言うことをよく聞いて、行って取って来なさい」と。

ヤコブの躊躇いも、道徳的なものではなかった。発覚と罰を恐れたに過ぎない。ヤコブは先に、兄エサウと取引をしたことがある。あれは有効だったのか、否か。小生は無効だったと考える。なぜなら、例え長子相続権が確立していたとしても、ヤコブとエサウが扱ったのは自分たちの物ではなかった。ただし、長子の権利を大切にしたか否かを語るには恰好のエピソードであった。

とにかく、ヤコブは、口づけをもって父を欺く(ルカ22:47-48)

リベカは、一面では常軌を逸した神への熱心、他面ではヤコブへの偏愛によって、夫を欺き、長子を出し抜き、愛する息子ヤコブをエサウの憎しみの中に追い込む事になる(27:41)母性愛の最大の冒険が、偽りと敵意を生み出すとは皮肉ではないか。家庭は社会の基盤だと言われるが、こんなところに、世の中の混迷の深さを見る思いがする。

Ⅲ欺かれたイサク

イサクはヤコブが食事を整えて持ち運んできた時、疑いというほどのものではなかったが、不自然さを感じた「だれだね、おまえは・・・どうして、こんなに早く見つけることができたのかね。わが子よ・・・近くに寄ってくれ。わが子よ。私は、おまえがほんとうにわが子エサウであるかどうか、おまえにさわってみたい・・・声はヤコブの声だが、手はエサウの手だ」

イサクは老いて、視力も味覚も触覚も失ったが、聴力は失われていなかったらしい。短い対話ではあるが、ヤコブは冷や汗を流したことであろう。

それにしても、偽りとは思いがけないほどの犠牲を払うものである。ヤコブは父を欺くために「あなたの神、主が私のために、そうさせてくださったのです」と、主の御名まで持ち出している。とにかく、こうして、イサクはヤコブを祝福することになる。

後にエサウが登場して、イサクが欺かれたことを知った時「イサクは激しく身震いし」た。不思議なことに、イサクから欺かれたことに対する怒りの声は上がらない。イサクが身震いしたのは、息子に欺かれたからではなく、この出来事の背後に主の摂理を感じたからではないだろうか。イサクは祝福のやり直しをしない(人間同士の間では、これは詐欺行為であって無効を宣言する)主の配剤を受け入れたのである。

イサクとリベカの間で、家督相続の話題がなかったわけではあるまい。しかし、この事になると、夫婦は同意することができず、曖昧にしてきたのであろう。そして、イサクは極めて人間的な判断に基づいて行動する事になった。しかし、結末はどんでん返しとなる。だからと言って、リベカやヤコブの行為が是認されるわけではない。

イサクは、泣き叫ぶエサウに「おまえの弟が来て、だましたのだ。そしておまえの祝福を横取りしてしまったのだ」という外ない。

小生の胸中に去来するのは、主が語られた難解な言葉である「バプテスマのヨハネの日以来、今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています」(マタイ11:12)

家族の離散

兄エサウは、弟ヤコブを恨み殺意を抱く。

母リベカは、自分がコントロールできない状況の中で途方に暮れ、ヤコブに逃走を促す。その口実は「私はヘテ人の娘たちのことで、生きているのがいやになりました。もしヤコブが、この地の娘たちで、このようなヘテ人の娘たちのうちから妻をめとったなら、私は何のために生きることになるのでしょう」

ヤコブは、流血の惨事を回避するためにハランに脱出。

父イサクは、以後、音なしの構え(聖書の記述によると、イサクはこの後、80年生きている)

イスラエルとエドムの関係、ダビデ時代(Ⅱサムエル8:12-14)ソロモン時代(Ⅰ列王11:14-22、25)