創世記26章

創世記26章   イサク、アブラハム契約を継承

これまで、イサクが主体的に行動したのは、父アブラハムの埋葬と(25:9)不妊の妻リベカのため主に祈った(25:21)ことぐらいでした。見方によれば、将来的な祝福については、妻リベカのほうが鋭敏なセンスを持っていたと言えるかもしれない(25:23)

しかし、この章は、イサクがアブラハム契約の継承者となったことを証言している。確かに、父アブラハムが一歩づつ切り開いてきた道を、息子のイサクは大過無く歩んできたと言える。その対照的な生涯は、それぞれ置かれた状況が異なるのであるから当然である。大事なことは、父が神と契約したことを、子もまた自分のものとして継承し、神の前に立つことである。

Ⅰイサクも飢饉に遭遇して

「アブラハムの時代にあった先のききんとは別に、この国にまたききんがあった」

著者は、注意深く先の飢饉と区別している。今日も、暖冬や冷夏、豊作や凶作は数年毎に巡ってくる。人は気象条件をコントロールすることができない。古代人が天変地異に難儀した様子は想像に難くない。先ず安全な場所と食物の得られる所に向かうのは必然である。イサクは、飢饉を避けて南下し「ゲラルのペリシテ人の王アビメレクのところへ行った」

この章は、飢饉がきっかけとなって家族の移動が余儀なくされ、その中で神との出会いがあった。使徒の働きでも、宣教の前進は迫害や困難に押し出されたものであったことを顧と、試練も捨てたものではない。単調な日々に転機をもたらす。イスラエルの詩人は「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました」(詩篇119:71)と賛美する。

主はイサクに現われて「エジプトへは下るな。わたしがあなたに示す地に住みなさい。あなたはこの地に、滞在しなさい。わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福しよう・・・これらの国々をすべて、あなたとあなたの子孫に与える・・・あなたの父アブラハムに誓った誓いを果たす・・・あなたの子孫を空の星のように増し加え、あなたの子孫に、これらの国々をみな与えよう。こうして地のすべての国々は、あなたの子孫によって祝福される」と告げる。これは、アブラハム契約と寸分違わない。

Ⅱゲラルの日々

イサクは、土地の人々が彼の妻のことを尋ねた時、自分の身の安全を考慮して「私の妻」と言うのを恐れ「あれは私の妹です」と答えた。読者は“またか”としらけるが、前回の記事から半世紀も経過していることを念頭に置いて頂きたい。そして、多くの場合、子どもたちは、父たちの辿った道を歩く(歴史が繰り返す所以である)

アブラハムの場合も(21章)恐れが先立って“ゲラルは危険”と断定し、愚かな過剰防衛を試た。イサクの場合も同じ心理が働いたのであろう。イサク自身は緊張の極みにあった様子だが、著者は特にその危険について言及していない(むしろ、のどかなエピソードを交えている。因みに、イサクがリベカを愛撫している描写は、ツァーハークを用いている)

アビメレクは真相を知って「もう少しで、民のひとりがあなたの妻と寝て、あなたはわれわれに罪を負わせるところだった」と憤慨する。ここでも、イサクの恐れが先行し、その実、アビメレクの方は道義観を持っていたことが明らかになる。

アビメレクは、先のアビメレクと同一人物と考える必要はない。その名の語義(メレクは我が父)からみれば、王が襲名したと考えてもよいであろう。もちろん、親子が同名のケースは珍しくない。こうして、危機は友好的に回避され、イサクはその地に腰をすえることになる。

イサクが種を蒔くと「百倍の収穫を見た。主が彼を祝福してくださったのである」好事魔多しと言う。イサクが移動してきた時、この地の人々は移住者に比較的親切に接したが、イサクが繁栄するとペリシテ人に妬みと恐れが生じた。移民の苦労が偲ばれる。

彼らは、アブラハム時代の井戸を埋め、ついには退去を要請する「あなたは、われわれよりはるかに強くなったから、われわれのところから出て行ってくれ」と(出エジプト1:9-10)

Ⅲ争わないイサク

「イサクはそこを去って、ゲラルの谷間に天幕を張り、そこに住んだ」

著者は、イサクがどんな思いで去り、移り住んだかを語らない。小生の母は、終戦3ヶ月半後(夫が死んで3ヶ月後)栃木の疎開先(実弟宅)を追い出されて、群馬に移住した。しかし、4年後に、救いに迎え入れられた(ローマ8:28)

「イサクは、彼の父アブラハムの時代に掘ってあった井戸を、再び掘った」そして、井戸を同じ名で呼んだ。イサクは、父アブラハムゆかりの井戸辺に立って、今は亡きアブラハムを懐かしみ、その信仰に励まされたことであろう。

人は厳しい試練に置かれると、前人未到と思いがちである。しかし、私達の歩く道には標がある。「私は道です」と言われた主は、私たちに先行する。ヘブル書も「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で私たちと同じように、試みに会われたのです」(4:15)と。

ゲラルの人々は放置していた井戸が有効に用いられると「この水はわれわれのものだ」と主張する。そこで、その井戸をエセク(争う)と命名して去る。

別の井戸を掘ると、再び言いがかりをつける。そこで井戸の名をシテナ(敵意)と呼ぶ。

さらに位置を移して井戸を掘る。今度は争いがなかったので、レホボテ(広々とした所)と呼んだ。この表現は、イスラエルの詩人が神の解放を讃え歌うときに「広きところ」として用いる代名詞となる(18:19、21:8、66:12、118:5など)

さらに、ベエル・シェバで、主の顕現にふれる。そして祝福が約束される。

この章は、主の祝福と祝福のサンドイッチである。著者は、イサクが遭遇した試練の場で、神の祝福が繰り返されている事を書き止めた。

預言者イザヤは「去れよ。去れよ。そこを出よ。汚れたものに触れてはならない。その中から出て、身をきよめよ。主の器をになう者たち。あなたがたは、あわてて出なくてもよい。逃げるようにして去らなくてもよい。主があなたがたの前に進み、イスラエルの神が、あなたがたのしんがりとなられるからだ」(52:11-12)と記した。

「イサクはそこに祭壇を築き、主の御名によって祈った」

その後、アビメレクからの提言があり、和平交渉がなされる。彼らの言葉には、手前勝手な言い訳が見られる(私たちがあなたに手出しをせず、ただ、あなたに良いことだけをして、平和のうちにあなたを送り出したように、あなたも私たちに害を加えないということです)が、目くじら立てるほどのことではない。とにかく、彼らも「主があなたとともにおられることを、はっきり見たのです」と言わざるを得なかった。彼らに神に対する恐れがあるとは言いがたいが、生活の利害には敏感に速やかに反応する姿が見られる。

Ⅳエサウの結婚

エサウは「ヘテ人ベエリの娘エフディテとヘテ人エロンの娘バセマテとを妻にめとった」この時、エサウは40才であった。彼の結婚は、両親の場合のように周到に準備されたものではない。

彼には、神の恵や導きを求める祈りが欠如していたらしい。その結婚は、洪水前の人々について語られたようなものである。即ち「神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分たちの妻とした」

しかも、いきなり二人の妻が紹介されている。一夫多妻は例外ではないが(弟ヤコブは4人の妻)著者も読者も、カインの系図にあるレメクを思い起こすのではないだろうか(4:19、創世記2:24)

エサウの妻たちは「イサクとリベカにとって悩みの種となった」リベカは溜め息混じりに“今時の若い者は・・・”と言っただろうか(27:46)

悲しきエサウ。彼は妻たちが両親の意に沿わないのを知って、親戚イシュマエルの娘、ネバヨテの妹マハラテを娶る(28:8-9)今日も、このような行き違いが多く見られるのではないか。