創世記24章

創世記24章Ⅰ          イサクの結婚

サラ亡き後、アブラハムの心に掛かるのは、イサクの配偶のことであった。老いたアブラハムは、この大事を信頼するしもべに委ねた。この物語には、興味深い事柄が多く見られるが、際立っているのは、アブラハムの信頼に応えた忠実なしもべの敬虔な姿であろう。

事柄には、自分で成すべき事、他者と力を合わせて行うこと、躊躇わず他者に委任すべきことなど様々あるが、そのつど適確な判断が求められる。交わりの中で生きる私たちが学ぶことは多い。

Ⅰアブラハムの意志

「アブラハムは年を重ねて、老人になっていた」(ヨシュア13:1、14:10、23:1-2)

老いることは自然な成り行きであるが、賢く謙虚に受容するのは容易でない。客観的な老いの事実と主観的な認識が調和することが願わしい(ヨシュアに関する記述は興味深い)

アブラハムは、イサクの花嫁捜しを最年長のしもべ(おそらく、信任の厚いダマスコのエリエゼルであろう15:2)に委任する。ももの下に手を入れるのは、約束を交わすときの慣行であった(47:29)誓いの形式は、伝承的な古式に則ったもの(異教的な慣習であったかも知れない)であろうが、大事なのは「主にかけて誓う」ことである。

また、この主従関係は、命令と服従によって保持されるのではなく、主の前で誓約を交わす対等なものとして描かれている。これは、注目に値する。

アブラハムは「私がいっしょに住んでいるカナン人の娘の中から、私の息子の妻をめとってはならない。あなたは私の生まれ故郷に行き、私の息子イサクのために妻を迎えなさい・・・私の息子をあそこへ連れ帰らないように気をつけなさい」と命じる。

アブラハムは、カナン人の娘たちに辟易していたらしい。しかし、それは「生まれ故郷」の娘たちの方がましだということではない。後年、ヨシュアが指摘しているように、カルデヤの地も「ほかの神々に仕えていた」(ヨシュア24:2)のである。ここでは、もっと狭義に考えて、気心の知れた親族の中からというほどの意味であろう。それは、ベターな選択であるが、絶対的な規定ではない。ここから、異教徒との結婚の是非を論じることはできない。大事なのは後戻りしないことであった。

Ⅱしもべの祈り

しもべは早速準備を整え「主人のらくだの中から十頭のらくだを取り・・・主人のあらゆる貴重な品々を持って行った」ラクダ10頭の荷は相当なものであろう。いずれにしても、主人アブラハムの富と権勢を示すに足るものであった。

しもべは、目的の町に着くと、先ず主の前にぬかずいて祈りをささげた。さすがはアブラハムの信頼するしもべである。彼は、主人アブラハムの神に祈る。彼は、真っ先に親戚ナホルの家を訪れることも可能であった。そのほうが容易であったろう。しかし、彼は、主人が常日頃するように、先ず見えない祭壇を築いて祈った。彼の祈りを瞥見してみる。

「私の主人アブラハムの神、主よ」しもべは、この言葉を繰り返す(27、42、48)これは、後に「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」(出エジプト3:6)へと発展する。これは、しもべが認識していた以上の意味を持つに至った(ヘブル11:16)が、初めにしもべの口から発せられた。

「きょう、私のためにどうか取り計らってください」きょうという副詞は、聖書の中で意外なほど豊かな意味を表現する。祈の応は、明日はおろか、何年も待たされることもある。それにも拘らず、きょうは重要性を帯びている(ヘブル3:7、15、4:7、5:5、ルカ19:5、9)これは、しもべの祈りが緊迫している事を物語っているのであろう。

「私の主人アブラハムに恵みを施してください」しもべは、自分の使命が首尾よく果たされる事を願った。それが目指しているのは、主人アブラハムの祝福である。

使者も様々である。預言者エリシャのしもべゲハジはとんでもない男であった(Ⅱ列王5:20-25)が、それが普通の世の中である。アブラハムのしもべの敬虔な祈りを範としたい。

「お飲みください。私はあなたのらくだにも水を飲ませましょう」と、厚意を見せてくれる娘を求めた。これは、祈りの場における神への要請である。旅人を労わるのは、社会通念上、常識的な親切の範疇である。しかし、彼は(三国一の美女でなく)らくだにまで水を汲む労を惜しまない娘こそ、アブラハムの子イサクに相応しいと考えたのである。

しもべは神の導きを求めて、心を注ぎ出して祈った。その祈りは、題目を掲げて繰り返す類の祈りではない。熱心を競い大声を上げ、執拗に繰り返す祈りでもない。神の前に自分を注ぎ出し、知恵の限りを尽くして祈ったと言えよう。

主イエスは、エリコの路傍に佇む盲人バルテマイに「わたしに何をしてほしいのか」(ルカ18:41)と、訊ねてくださったことがある。彼の祈りは的確であった「主よ、目が見えるようになることです」と願う。すると、主は「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを直したのです」と言われた。

Ⅲリベカの登場

「彼がまだ言い終わらないうちに、見よ、リベカが水がめを肩に載せて出て来た」夕闇迫るころの井戸端の光景が眼に浮かぶようだ。私たちにも“井戸端会議”という表現があるが、噂話が少々胡散臭い。聖書の世界では、井戸端で数々のロマンスが生まれた。ヤコブがラケルに出会い(29:9-11)モーセがチッポラに出会った(出エジプト2:16-17)のも井戸端であった。

リベカについて「この娘は非常に美しく、処女で、男が触れたことがなかった」と紹介している。リベカの美しさは、容貌だけではなかった。彼女は「どうか、あなたの水がめから、少し水をのませてください」と求められた時、素早く状況を察知して適確に応じた。リベカは「あなたのらくだのためにも、それが飲み終わるまで、水を汲んで差し上げましょう」と心を配る。

しもべは「主が自分の旅を成功させてくださったかどうかを知ろうと、黙って彼女を見つめ」自分が主に願った通りに展開する状況を見て、心が震える思いをしたであろう。蛇足ながら、このような感動を経験するのは、祈る外に手段を持たない者の特権である。

しもべには、事を運ぶ慎重さがあった。有頂天になって飛び出したいところだが、注意深い観察を重ねてから名乗り出す。

しもべは礼物を取り出す。1ベカは半シェケルだが、10シェケル(114グラム)の腕輪は、高価な贈り物である。これは、水の代金やサービス料ではない。精一杯の感謝を込め、併せて、アブラハムの確かさ(豊かさ)を示すものである。

しもべは尋ねた「あなたは、どなたの娘さんですか。どうか私に言ってください」

もちろん、しもべは、アブラハムの兄弟ナホルの家族について聞き及んでいたであろう。しかし、敢えて、真っ先にその家を訪れることをしなかった。すべてを主の手に白紙委任したかのようである。それでも密かに期していたのではなかったか。リベカの言葉「私はナホルの妻ミルカの子ベトエルの娘です」を聞いて、名状しがたい感動を覚えたことであろう。

しもべが「あなたの父上の家には、私どもが泊めていただく場所があるでしょうか」と尋ねると、リベカは「私たちのところには、わらも、飼料もたくさんあります。それにまたお泊まりになる場所もあります」と答える。この問いと答えの間にあるささやかなズレが興味を引く。ラクダに気前よく水を汲んだリベカは、客人よりもラクダに関心があるかのように見える。少なくとも、著者はこのような書き方を意図的にしたに違いない。

しもべは跪いて礼拝する。

「私の主人アブラハムの神、主がほめたたえられますように。主は私の主人に対する恵みとまこととをお捨てにならなかった。主はこの私をも途中つつがなく、私の主人の兄弟の家に導かれた」

よく言われる。願う者は多いが感謝する者は少ない。主イエスは「十人いやされたのではないか。九人はどこにいるのか。神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか」(ルカ17:11-18)と慨嘆された。イスラエルは遅れを取っている(ルカ7:9)

アブラハムのしもべは、ダマスコのエリエゼルだった可能性が大きい(15:2)彼は、使命を果たして後、直ちに主の御名を崇める。