創世記22章

創世記22章          イサクをささげよ

「これらの出来事の後」これは慣用的な表現で、しばしば繰り返される(15:1、22:20、)些細なことですが、新改訳の訳語は不統一である(「これらのことの後」39:7、40:1、48:1、ヨシュア24:29)口語訳は「これらの事の後」共同約は「これらのことの後で」と、それぞれ統一している)

アブラハムの生涯は波乱万丈であった。故国を出立し、飢饉に遭遇し、ロトと分離し、寄留者として生き、祝福の約束は遅延していた。しかし、ついに無限に広がる祝福の門口に辿り着いた。その揺るがぬ確信のしるしがイサクの誕生である。

しかし、イサクの誕生はゴールではない。万全の準備を整えてスタートを切ったのである。それ故に、アブラハムが今直面している課題は、イサクをどのように扱うかと言う一語に要約される。

Ⅰアブラハムの献身

「神はアブラハムを試練に会わせられた」

アブラハムは、心を尽くし力を尽くして主に仕えることを思い巡らしていたであろう。その時、彼は「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい」との主の声を聞いた。幾度も耳を疑った事であろう。確かにイサクは最高の犠牲に違いない。しかし、それでは、今までの労苦は水の泡となる。しかし、神を拒むことはできない。自分の命をささげるほうが容易に違いない。アブラハムは、極限の状況に身を置いて献身と服従に身を委ねた。

見過ごせない問題がある。神が人身御供を求めるだろうか。

モーセは約束の地を前にして、カナンの異教文化・習俗に同化しないよう警告している。即ち「あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地にはいったとき、あなたはその異邦の民の忌みきらうべきならわしをまねてはならない。あなたのうちに自分の息子、娘に火の中を通らせる者があってはならない・・・」(申命記18:9-10)と。

それでも、イスラエルから人身御供が根絶したわけではない。エフタの悲劇は、人身御供を許容しているところから生じたものである(士師11:31、34-35)その後も、イスラエルでは、愚かな忌むべき人身御供が繰り返されてきた(Ⅱ列王16:3ホセア、17:17アハズ、21:6マナセ)

エレミヤは「自分の息子、娘を火で焼くために、ベン・ヒノムの谷にあるトフェテに高き所を築いたが、これは、わたしが命じたこともなく、思いつきもしなかったことだ」(7:31、19:5、32:35)と、主の御心を語る。

アブラハムの周辺世界では人身御供は最大の犠牲であった。そのような文化の中で育ったアブラハムが、その価値観を受け入れていたことは無理のないことである。

今日の読者には、ただ単におぞましい事としか考えられないが、議論を進めていけば、死すべき人間と神の贖罪に至る。モーセは、長子の贖いの必要について語る(出エジプト13章)そして、この世界は、時満ちて女から生まれた神の御子の犠牲によって贖われたではないか。

アブラハムがイサクをささげる決意をしたのは無知によるのであるが、彼のひたむきな思いを見過ごすことは出来ない。ヘブル書は「彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です」(ヘブル11:19)イサクには身代わりがあったが、主イエス・キリストには身代わりがない。

試みとは、心を見るに通じる。試練の中で、人は自分を知る事になる。自分が何に依存・執着しているかを知ることになる。

ヘブル語のナーサーは、神が主語ならば建徳的に展開するが(出エジプト15:25、16:4)人が神を試みるなら断罪される(出エジプト17:2,7、詩篇78:18)それは、おおむねギリシャ語(ペイラゾー、ペイラスモス)の場合も同様である(ヤコブ1:12-14)

「モリヤの地」については「ソロモンは、主がその父ダビデにご自身を現わされた所、すなわちエルサレムのモリヤ山上で主の家の建設に取りかかった」(Ⅱ歴代誌3:1)と言われる。

「翌朝早く、アブラハムは」

よく取り沙汰されるのは“この時サラは知っていたのか否か”という類の質問である。聖書は、アブラハムを契約の当事者、信仰の応答者として扱っており、今日の私たちの視点とは異なる(サラは天幕の外側にいるなどと言うつもりはないが、実際には客の前に立たなかった)

私たち夫婦の間にも様々な関わり方があるのではないか(小生の場合、自分としては、妻子のために最善を諮っているとの自負を持ちながら独断専行の嫌いがあった。家内が事後承諾を望まないことが明らかになって、決断の情報を共有することに変更。亭主関白のケースもあろう。勿論その逆も)いずれにしても、ことは個人的な領域に留まらない。アブラハムとサラの関係理解にも、案外自分たち夫婦のあり方が投影されているのではないだろうか。サラは基本的には夫に対する従順によって、自身の信仰を貫いた(Ⅰペテロ3:6)

イサクは問う「全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか」父は何と答えたら良いのか。絶体絶命の境地。アブラハムは大胆に「神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださる」と応じる。彼はこのように期待する外なかったが、これこそ信仰の言葉が授けられた瞬間である(ルカ12:12)主イエスの珠玉のような名句も、しばしば追い込まれた状況から生まれた(ルカ20:25、ヨハネ8:7)新約聖書の著者は、このアブラハムの心境を「彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました」(ヘブル書11:19)と理解する。アブラハムは気づいていないが、この言葉は御子の贖罪を預言するものとなった(ヨハネ3:16)

イサクは命ぜられるままに薪を背負い、従容として祭壇の上に横たわる。彼はすでに老いた父アブラハムを凌ぐ体力を持っていたと考えられるが、抵抗の形跡を見ることはできない。この危機は、アブラハム全家を巻き込んだと言えよう。父と母と子は、それぞれ異なった立場で主に従う。

Ⅱ主の是認と備え

間一髪、主の使いはアブラハムに呼びかける「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた」

アブラハムは伝統的な神観(いわば行為義認)に従って一念発起したが、ぎりぎりのところで信仰義認へと脱皮した。前述の「神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださる」という朧な告白が、今や彼の中で結実したと言えないだろうか。アブラハムは、先の神名啓示と同様に、ここでも神を発見した(Ⅰサムエル15:22、ミカ5:6-8)

実に、神の言葉は「御霊の剣」である。そして、神の人の言葉も御霊に導かれる。主は「何をどう弁明しようか、何を言おうかと心配するには及びません。言うべきことは、そのときに聖霊が教えてくださるからです」(ルカ12:11-12、21:15)と言われた。

かくして「アブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエ(主が備えてくださる)と名づけ」ます。主の使いは「今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった」と言われる。蛇足だが、主の使いは、ここまで来なければ分からないわけではない。絶体絶命の場面で、神の御心を学び知り得たのはアブラハム自身ではないか。

このアブラハム的経験を、パウロも告白している「私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています」(ピリピ3:7-8)

こうして、祝福の約束は、さらなる確信へと導かれていく。

Ⅲナホルの家系

アブラハムの兄弟ナホルの消息が伝えられている。まもなく、ナホルの子ベトエルの娘リベカが登場するので、その伏線と見ることができる。リベカこそ、イサクの妻となり、エサウとヤコブの母となった女性である。