創世記21章

創世記21章        イサク誕生とその波紋

「主は、約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりに主はサラになさった」

不信仰者には、利己的な計算高い期待とは裏腹に、成り行きによっては絶望だけが残る。信仰者の神を待ち望む希望が潰えることはない。しかし、神の時が満ちるのを待つのは忍耐を要する。その間に、人は試みられて自己を吟味し、正しい求め方を学ぶ。実に、神は善であられる(詩篇119:68)

今や、時が満ちて、主はサラを訪れる。この書き出しはサラに懇ろである。

Ⅰ主はサラを顧み

「主はサラを顧みて(パーカッド)」これは直訳すると「訪れる」の意である。主の恩顧は、主の来訪という、極めて具体的な表現をとる。以来、イスラエルはこの表現が気に入ったようだ(31:42、50:24-25、出エジプト4:31、13:19)この表現は、新約聖書にも随所で見られる(ルカ1:68、7:16、使徒7:23、Ⅰペテロ2:12など)

サラは長く待たされたが。ついに彼女の時が巡って来た。主はサラの門口に立つ。主の約束は必ず果たされる(もし、私達の期待通りでなければ、もっとすぐれた展開を見せてくれるに違いない)

「サラはみごもり・・・男の子を産んだ」

サラは胎の実が育つ日々をどんなに楽しんだことか。ただ一度の例外(16:5)を除けば、寡黙なサラが、こんなに多弁になった(はしゃいだ)ことはなかった「神は私を笑われました。聞く者はみな、私に向かって笑うでしょう。誰がアブラハムに『サラが子どもに乳を飲ませる』と告げたでしょう。ところが私は、あの年寄りに子を産みました」サラは、ハンナやマリヤのように格調高い詩を残さなかった(Ⅰサム2章、ルカ1章)が、その歓喜は優るとも劣らない。

「アブラハムは・・・イサクと名づけた」イサク(イツハーク)はツァーハーク(笑う)に由来する。既に述べたことであるが、イサクを巡る笑いは様々であった(喜び、苦笑、嘲笑、自嘲、照れ笑、自己欺瞞)その中で、巧まず美しいのはサラの笑ではないだろうか。サラは幾度泣いたことか。悲しみや屈辱に耐え、不信仰を克服して、今サラは声を上げて笑う(彼女の18:12の笑は昇華された)

世には“恥かきっ子”(高齢出産のこと)という心無い表現がある。理由のない不当な嘲りである。サラの出産を耳にした者は、みな声を上げて笑ったであろうが、小生は確信する。サラを侮り笑った者はいなかったに違いない。6節は口語訳「神はわたしを笑わせてくださった」或いは共同訳「神はわたしに笑いをお与えになった」がよいと考える。

Ⅱ蒔いたものは刈り取らなければならない

イサクが乳離れした日、アブラハムの家では盛大な宴会が催された。しかし、事情は単純ではない。サラの目には、今こそイシュマエルが胡散臭く見える(これまでは、イシュマエルに相続を期するところがあったが、今となっては無用)サラはイシュマエルが「イサクをからかっているのを見て」激怒する。イサクとイシュマエルの年齢差を考えるなら、からかった(笑う)という訳語は、我々が良く見かける光景を彷彿させる。目くじら立てるほどのことではない。

イサクを産み母となったサラは、この子を保護し、その権利を守る立場におかれて、もはや無欲恬淡としてはいられない。サラは要求する「このはしためを、その子といっしょに追い出してください。このはしための子は、私の子イサクといっしょに跡取りになるべきではありません」

サラは、アブラハムに反論を許さないほど強硬に主張する。公平とは思えない言葉である。軽はずみとはいえ、サラもイシュマエルに期待したことがあったではないか(出エジプト22:21、23:9)

イシュマエルは、サラには他人だが、アブラハムにとっては「自分の子に関する事なので、非常に悩んだ」主は確かに、一つ一つの悩みを修復して下さるが「神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです」(ガラテヤ6:7-8)と言うルールを曲げることはできない。ダビデ王家は、祝福と汚辱塗れではなかったか。

アブラハムは苦悩するが、神の知恵は平和のために分離することを求める。アブラハムは、イシュマエルの将来を主の手に委ねて、ハガルと共に送り出す。

奴隷解放以前のアメリカで、主人が女奴隷に産ませた子を奴隷として酷使したケースが無数にあった。アブラハムは、彼らよりも人間的であり、さぞかし多くの涙を流したことであろう。それ故、この関係は、断絶しなかった(25章は、アブラハムの埋葬がイサクとイシマエルの協力でなされたことを伝えている。そばめの子については言及されていないが、イサクとイシュマエルの間には、後々まで、ある程度の交友があったことが推測される)

主はイシュマエルを指して、アブラハムに言われた「彼もあなたの子だから(宝)」(ルカ19:10)世には、いわゆるはみだしっ子が多い。彼らに対する私達の眼差しが問われているようだ。

興味深いことだが、著者は、この章で、20回もチャンスがあったのに、イシュマエルの名を一度も記さない。この時、イシュマエルは、アブラハム家の邪魔者に過ぎなかったからであろう。しかし、神は「あなたの子」と呼びかける。また、神は声なき声を聞き留める。

Ⅲ荒野の母子、ハガルとその子

「アブラハムは、パンと水の皮袋を取ってハガルに与えた」“可愛い子には旅”の心境ではない。さすらい人の苦悩を誰よりも良く知るアブラハムが、今、わが子を追い出す。断腸の思いである。

皮袋の水が尽きた時、ハガルは「私は子どもの死ぬのを見たくない」と言ってイシュマエルから離れ「声を上げて泣いた」(今日でも、飢えや渇き、戦火や虐殺、エイズなどのために失われていく子どもたちの生命は数知れない。母の涙は乾く間がない。主よあわれんでください)

神は、放置された少年の声を聞かれた。これは声なき声だ(ローマ8:26)声を上げて泣いたのはハガルであった。しかし、著者は、内捨てられていた子の叫びを取り上げる。名が取り上げられないのは人格的な扱いを受けていない反証であるが、神は彼に聞かれた(詩篇27:10)

イシュマエルへの祝福は、16章で既に語られていたが、今再び繰り返される。こうして、イシュマエルはパランの荒野に住み着く(彼の系図は25:12-18に記録されている)

Ⅱアブラハムとアビメレクの条約

「あなたが何をしても、神はあなたとともにおられる」とは、アビメレクと彼の将軍ピコルの言葉である。これは観察者の言葉である。やっかみ半分、幾分皮肉交じりである。彼らは、アブラハムのすべての行為を是認しているわけではない。しかし、背後に確かに全能の神がおられて祝福している事実を見過ごせなかったのであろう。彼らは事を構えるよりは、穏やかな付き合いを求めて盟約を結ぶこととなった。

アビメレクの主張と要請は「私があなたに尽くした真実にふさわしく、あなたは私にも、またあなたが滞在しているこの土地にも真実を尽くしてください」この言葉は、後に、エリコのラハブが繰り返している(ヨシュア2:12)が、文字通りの意味よりも契約用語か。

アブラハムは、不法に奪われた井戸について抗議し、アビメレクは曖昧な弁明をする。それでも、アブラハムは、七頭の雌の子羊をアビメレクに贈る。これが、アブラハムの井戸の所有権を表わす証拠となる(ここには、言葉の遊びがある。ヘブル語では、七(シェバ)と誓い(シャーバ)が同根。すると、この地につけられたべエル・シェバの意は、誓いに由来するのか或いは七に由来するのか)

ここで交わされたのは、アブラハムとアビメレクの間での契約である。アブラハムは、柳の木を植えて記念とし、この世俗の関係を主の御名を呼んで聖別する。ここで、初めて永遠の神(エル・オーラーム)の御名が登場する。

預言者イザヤは「草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ」(40:8)と確信したが、アブラハムは遥か以前に、万物が流転し過ぎ去っていく不確かな中で、永遠の概念に到達したのである。

エル・エリヨン、エル・ロイ、エル・シャダイ、エル・オーラームと、苦難と躓きを重ねながら、アブラハムの生涯は、神を知る(発見する)連続である(ピリピ3:8-14)