創世記20章

創世記20章      アブラハムとアビメレク

この章の物語は12章の物語に良く似ている。それゆえ、同じ出来事だとして読み過ごす者もいる。私たちの人生で、同じ過ちが繰り返されることは決して珍しいことではない。しかし、ただ単に失敗の繰り返しと読むのでは、創世記著者の意図にそぐわないのではないだろうか。

26章の記事(イサクの物語)を考慮すると、気づくのは、神の民が約束の地から離れざるを得ない状況に繰り返し直面したということです。出エジプトを果たしたモーセの視点に立つならば、エジプトに下ることは断じて容認できない。それは神の恵に逆行することであった。パレスチナに向かう事が、モーセの生涯の最大課題であった(にも拘らず、彼はその生涯を途上で終わる)

創造物語は1章と2章に記録されているが、伝達されたメッセージは別のものであった。同様に、この物語も、登場人物が異なるとか、発端の記述が異なるという以上のものがあるに違いない。

Ⅰアブラハムのゲラル滞在

アブラハムはゲラルに滞在した(この地は、パレスチナとエジプトの中間地点と考えられる)何故この地に移ったのか明らかではないが、ある種の必然性を感じたのであろう。天候や作物の出来具合牧草や水を求める生活には、定住を許さない厳しさがある。

ゲラルの地には予測される困難があった。困難に遭遇した時、そこから逃げ出すだけでは問題の本質的解決にはならない。先の困難をやり過ごしても、必ず新しい困難が待ち構えている。

人を脅かす原因はいくらでもある。しかし、人が真に恐れなければならないのは、神への信頼の欠如ではないだろうか。信仰の父たちも、失敗に失敗を重ねて神に望みをおくことを学んだようである(ローマ4:18)イスラエルの詩人も「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました」(詩篇119:71)と告白している。

アブラハムがゲラルに来たとき、彼は信用の出来ない土地へ来たと考えた(ソドムのことを考えれば無理のないことである)彼は、早速かねてからの安全対策を持ち出す。自分の妻サラのことを「これは私の妹です」(真っ赤な嘘ではないが、ピンク色の嘘)と周囲に紹介した(これは、アブラハムの安全であって、サラの安全を度外視している。サラの貞操の危機は考慮されていない)

Ⅱ神とアビメレク

著者は、神とアビメレクとのやり取りを伝えている。これは興味深いことではないか。私たちが聖書を読むとき、アブラハムを中心に考える習慣ができあがっている。それ以外の人については、あまり吟味することもなく異邦人として切り捨てる。しかし、この章で神と向き合っているのは、アブラハムではなくアビメレクである。この章に関する限り、アブラハムにいいところはない。彼は弁明に終始している(11-13節)

神は夢でアビメレクに現われ、サラの危機を回避する。これは、サラを守ると共に、アビメレクに罪を犯させない神の配慮である。

アビメレクは「主よ。あなたは正しい国民をも殺されるのですか・・・私は正しい心と汚れない手で、このことをしたのです」と弁明する(もちろん、当時の倫理観に基づいた認識である)

すると、神はそれを是認し「あなたが正しい心でこの事をしたのを、わたし自身よく知っていた。それでわたしも、あなたがわたしに罪を犯さないようにしたのだ」と言われる。

「正しい」と言う表現は、神の前に立つアブラハムが、前章で必死に繰り返したものであった。しかし、ここで「正しい」のはアブラハムではない。神がアビメレクの言葉を肯定的に受け止めていることに着目せよ。著者は、信仰の父アブラハムの行為について殊更に非難の言葉を書き記してはいないが、この一件に関する限りアビメレクに軍配を上げている。これを些細な事として見過ごすと、正統性を主張する信仰も独善的なものに堕し、世界観を過つことになるのではないか。

アビメレクが夢で神の声に聞く場面は、ヤボクの渡し場で苦悩したヤコブの姿を想起させる。アビメレクの宗教的な背景は明らかではないが、神との出会いには興味がある。

Ⅲアブラハムとアビメレク

アビメレクは、夢の啓示でアブラハムが神の預言者であることを知った。自分自身がアブラハムの執り成しを必要としていることを認識したのである。アビメレクは、モーセが対決したエジプトのパロのように頑なではなかった。翌朝早く、彼は「しもべを全部呼び寄せ、これらのことをみな語り聞かせたので、人々は非常に恐れた」見事な決断である。同時に、周囲に徹底させたことは潔い。この種の失敗は、当事者が認めても、個人や組織の体面が優先され、密かに処理されるケースが今なお多い。そして、修復を困難にするのではないか。

アビメレクはアブラハムを詰問する「あなたは何ということを、してくれたのか。あなたが私と私の王国とに、こんな大きな罪をもたらすとは、いったい私がどんな罪をあなたに犯したのか。あなたはしてはならないことを、私にしたのだ・・・あなたはどういうつもりで、こんなことをしたのか」と。アビメレクは、この一件を罪の問題として受け止めている。

アブラハムの応答を聞こう。

「この地方には、神を恐れることが全くないので、人々が私の妻のゆえに、私を殺すと思ったからです。また、ほんとうに、あれは私の妹です。あの女は私の父の娘ですが、私の母の娘ではありません。それが私の妻になったのです」

ここにあるのは弁明だけである“迷惑をかけた、混乱を引き起こした”と言い逃れる。率直な謝罪の言葉を聞くことはできない。前述したように、著者は、アブラハムを直接非難する言葉を記してはいない。しかし、事の是非は、読者には明白である。

アブラハムは臆面もなく「この地方には、神を恐れることが全くない」と断定的に言う。ゲラルの地に来て、そのように感じたのであろう。しかし、彼の判断は正しかったであろうか。アビメレクは神の言葉に耳を傾けたではないか。アブラハムは、ソドムの一件でこりごりしたのかもしれない。彼が期待したソドムには10人の正しい人もなかったが、彼が期待しなかったゲラルには、神を恐れる人がいた「人はうわべを見るが、主は心を見る」(Ⅰサムエル16:7)

イスラエルは、異邦人を侮ってはならないことを学んだろうか。主イエスは言われた「このようなりっぱな信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません」(ルカ7:9、マタイ15:28)

また、妻サラを妹と紹介したことに関して、弁明するアブラハムを潔いとは言えない。神の人が、アビメレクの前で弁解する姿は無様ではないか。

こうして、とにかくアブラハムとアビメレクは和解することが出来た。サラも危機を脱した。繰り返しになるが、この危機を救ってくださったのは約束された神のあわれみである。この章に関する限り、敬虔で誠実なのはアビメレクであった。選ばれたアブラハムが、いつでも何事に関しても優位であるかのように思い込むのは錯覚です。アブラハムは、一つずつ学ぶ必要があった。主イエスでさえ「キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです」(ヘブル5:8-10)

その上で、神の啓示「あの人は預言者であって、あなたのために祈ってくれよう」という言葉に耳を傾けたい。一件落着したとき「アブラハムは神に祈った。神はアビメレクとその妻、および、はしためたちをいやされたので、彼らはまた子を産むようになった」

問題はアブラハムにあったが、回復もまたアブラハムを通してなされた。アブラハムによって全ての民が祝福を受けることは、神の意図するところであったからである。その意味ではアブラハムの存在は不可欠である。しかし、アブラハムがいつでも優っているわけではない。

このできごとは、教会とこの世、牧師と信徒、信徒と異教徒の間に生じる様々な問題の解決に示唆を与えてくれるのではないだろうか。

教会は「聖霊を受けなさい。あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります」(ヨハネ20:22-23)という至高の権威を与えられているが、権力権勢を手中に収めると傲慢になりがちである。