創世記2章

創世記2章        創造の秩序、相互関係

聖書に章節が付けられたのは後のことである(もちろん、ある種の区分は早くからなされていた)ユダヤ人は、旧約聖書に朗読区分として、早くからペーとサメク(ヘブル後のアルファベット)を用いてきた。新約聖書も、2世紀には区分の証言を聞くことができる(タチアノス)しかし、今日のようになったのは、ラテン語聖書で1206年、最終的には新約聖書で1550年、パリの印刷屋のアイデアであった(旧約聖書の方が古い)

古い写本は、単語を分かち書きすることも思いつかなかった(いわゆるべた書き)のであるから、shousetunokubunnimorekishigaarukotowosuisokusurunohakatakunaidearou・・・と読み難かった。

章節区分を、いつ誰が手をつけたのかは知りえないが、創世記の1章が31節で終わり、7日目の記事が2章に区分されていることは、尽きない興味を呼び起こす。

2章の1-3節は、ヘブル語学者でなくても、1章に続くほうが自然であることに気づくであろう。実際、内容・文体・用語からも見ても(神、神である主)2:1-3は、本来1章に属すものであろう。しかし、これに挑戦するかのように、6日目と7日目とを割って、そこに章区分を設けた者には、それ相当の意図と確信があったに違いない(それを受け入れてきた歴史的教会も含めて)

この意義は、1章と2章の原資料が異なるという議論よりも重要なものであり、実り多いものであると確信する(しばしば指摘されるのは、創造記事が二つあるということだが、なぜ二つあるのかということが探求されなければならない)

小生は、1章が神による世界創造を語り、2章は造られた世界の関係性を教えていると理解する。即ち、創造と安息、人間の霊と体、人間と造られた世界、神と人間、男と女などの関係概念の原理・原則を読み取ることに興味があり、そこに意味を見出す者です。

Ⅰ7日目・安息日の意味

1章の創造物語の延長では、安息日は七日目・最後の日とされている。しかし、敢えて不自然な区分をして、安息日は2章の創造物語の冒頭を飾ることになりる。

こうして、安息日は、2章では創造の目的であるかのように提示されている。これは追求に値することではないだろうか。

些か突飛な連想ではあるがお許しいただきたい。主イエスは「あとの者が先になる」という神の国の興味深い法則を繰り返し述べられた(マタイ19:30、20:16、ルカ13:30)7日目(土曜日)の安息日は、やがて週の初めの日(日曜日)に取って代わる。小生は、安息こそ創造の大目的、世界は安息に向かって造られたと信じている。

安息日は、創造者のお疲れ休みではない。神は創造を完了されたので、その業を止めたのである。主イエスの安息日論争に関する証言を聞こう。主は安息日の善行を肯定して「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです」(ヨハネ5:17)と主張された。神は、創造の完成により業を止めたが、世界の秩序は今なお働かれる神の御手の下にあるという認識です。興味深いのは、安息日(シャバトーン)の語源シャバスには“保持する、観察する”との意味が生じている(レビ記23:32、25:2・シャバス・シャバトーン)

すると、安息日とは、神がトーブ・メオードとされた世界の出来栄えを観察され楽しまれる日ではないか。安息日に苦悩している者があれば、神は放置することができない(主イエスが、殊更に安息日に病苦に悩む者たちを癒されたのは、この故ではないか)

安息日は祝福された聖なる日である。これは、人のために与えられた日であるが、本質的に神に属する日である。安息日は労働運動が勝ち取ったものではない。創造者が聖定されたものであることを世界は認識すべきである。モーセは十戒を制定するにあたり、安息日をすべての人々に「息をつかせるためである」と説明し、休日として位置づけている(安息は権利であり、他人が支配してはならないものである。出エジプト23:12)

安息日は開かれている。創造の日々は、1日目から6日目まで「夕があり、朝があった」と完結している。しかし、7日目の安息日は閉じていない(「夕があり、朝があった」が欠如している)これは、奇しくも安息日が永遠に開かれた日であることを暗示していないだろうか。

これを明らかにしたのはヘブル書の著者である。彼は「安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです」(ヘブル4:9)と発言している。出エジプトの目的は約束の地に入ることであり、それは救いに入る雛型であった。それ故、イスラエルは約束の地に今なお拘る。しかし、ヘブル書の著者は、これを「安息に入る」と表現するとともに、それを超越した究極的な安息を展望している。即ち約束の地ではバビロン捕囚などの汚点をつけて来たが、それで安息の約束が害われたのではない「安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです」と論じ、キリストの贖いこそ、この安息に入る唯一の道であることを語ります。

聖なる安息日は、勤労から解放される日でもある(勤労は、創造の秩序のなかでは、神から賜った誇り高い職務であったが、堕落とともに労苦と化した)

イスラエルが、この日を礼拝の日に定めたことは正しい。専ら神を仰ぎ、疲労した肉体にも休息を与える事は神の恩恵である。殊に奴隷労働が是認されていた時代に、十戒の第四戒が安息日遵守の厳命を明記しているのは神の慈悲に適っている。創造者の慈悲は、奴隷の子たちばかりでなく、牛馬さえも安息に与る(出エジプト23:12)金持ちや特権階級には、毎日が手前勝手な安息日(休日)であるが、彼らは大衆の安息を奪ってきた。

安息日の戒めは他の倫理的禁令(殺人・姦淫。盗み・偽証など)に先立つものであるが、実際には一番軽んじてきた経緯がある。おそらく、直接的には他人を傷つけないからであろう。人間は目前の他者に危害を与えるよりは、見えざる神に背くほうが容易なのである。そして、律法は、一角が崩れると、必然的に全体がなけなしになっていくのである。

イザヤ、エレミヤ、エゼキエルといった預言者たちは、安息日違反が諸悪の根源であると認識して声を大にした。しかし、時すでに遅かったのである。

バビロン捕囚の後、ネヘミヤは安息日の遵守を徹底的に要求した。以来、捕囚帰還後は、イスラエルは反動的に安息日を厳守したと言われる。しかし、残念ながら、律法主義のなかで創造者の意図したものから逸脱したことも否めない。本来の意義を見失ったのである。

主イエスは、この安息日問題には、意図的と思われるほど何度もチャレンジされた。マタイ12:1では、空腹な弟子たちが麦の穂を摘むことを擁護し、12:13では、片手のなえた人を癒す。ルカ13:10では、18年病苦に悩まされた人を解放し、ヨハネ5:9では、38年病む絶望した男を癒す。7:23では割礼を取り上げて論陣をはり、9:14では、盲人の目を開く)

人間が真に人間らしい生活を取り戻すために、主は安息日を位置づけられた。なかでも「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません」(マルコ2:27)これは圧巻である。主は安息日の主です(マタイ12:8)

やがて、週の初めの日(主の復活・ヨハネ20:1、19、26)が安息日に取って代わったことは、奥義ではないか。週の終わりに位置づけられていた安息日の意義が、週の初めの日に躍り出たのである。

この日、主が復活されたからである。そして、安息をもたらす主の日は、初めの日に相応しい(カレンダーに二種ある。日曜から始まるものと月曜から始まるもの)

安息に入るとは、無限に展開する神の祝福の中に踏み込むことである。神の国に召されるという事は、その門口に立つことであるが、今、推測できるのは「主と同じかたちに姿を変えられて行きます」(Ⅱコリント3:18)或いは「キリストに似る者となる」(ヨハネ3:2)ことです。

罪が入ってきたとき、真っ先に失ったのはアダムの心の平和であった。それゆえ彼は、神の前に出られないで隠れたのである。それ以来、人は光を恐れ、闇を隠れ蓑にして、闇の支配に身を委ねてきた。光を真っ先に造られた神が、光となってこの世に来てくださったキリストの降誕に栄光あれ。

「異邦人のガリラヤは光栄を受けた。やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った」(イザヤ9:2)

Ⅱ神と人間と世界(関係性)

1章の記事は、世界の創造が順序正しく整然と行なわれたことを物語る。2章は、同じことを繰り返すことはしない。ここでは造られた世界の相互にある関係性が語られる。ここで創造の順序や詳細について論じることは適切ではない(2章では、植物も動物も時間的に人より後から登場しているように見える。また、男と女の創造が段階を経ているように見受けられる)

2章では、他の動植物に先んじて人間が出現する。それは、造られた世界で人間が担うことになる役割の重要性を意味するであろう。大地は湧水に潤され、おのれを耕す者の登場を待ちわびている。これこそ、世界における人間の位置である。

1、人と神

「神である主は、土地のちり(アーファール・ミン・ハーアダマー)で人を形造り、その鼻にいのちの息(ニシマス・ハイイーム)を吹き込まれた。そこで、人は、生きもの(ネフェシ・ハイヤー)となった」

人は、神のかたちに似せて造られたが、その素材は土地のちりに過ぎないことが明言されている。1章では語られなかった謙虚な認識である。パウロは「土の器に宝を持つ」(Ⅱコリント4:7)と記したが、真に的確な表現である。人が「土の器」であることを忘れると、どんなに主張してもそこに刻まれた「神のかたち」は失われていく外ない。土であり、神のかたちである人の二面性が調和を失うと「宇宙の冠にして屑」と慨嘆したパスカルの言葉が現実のものとなる。

「いのちの息、生きもの」という言葉は重要ではあるが、それだけを強調させてはならない。なぜなら「いのちの息」は、すべての生き物に与えられたものであり(7:22)また「生きもの」という表現は、1:24、30節にも見られる(そこでは、すべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのものを指している)すべては神のもとに統合される。

敢えて言うならば、人は他の生物と本質的に変わらない存在であるが、神が息を吹き込まれたと、殊更に記されている交わりにおいて生きるものなのである。従って、神との直接的な交流をなくしては、他の動物と変わるところがない。人は“万物の霊長”とうそぶくが、何のことはない。人は神のかたちに似せて造られたが、神の息吹に生かされなければ“人は死んだらゴミになる”陶磁器なら幾千年も珍重されるが、人は置物にも値しない。預言者の言葉は痛烈ではないか「鼻で息をする人間をたよりにするな。そんな者に、何の値うちがあろうか」(イザヤ2:22)

2、人と大地

次に人と大地の関係を考えてみる。人が置かれた園には「見るからに好ましい食べるに良いすべての木」があり、中央には「いのちの木、善悪の知識を知る木」などがある。また、四つの川が園を潤し、金や宝石もある。何一つ不足のない園が人の生活の場である。

「神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた」これは、勤労の意味をも考えてさせてくれる。

人は、園を耕し保持する使命を与えられ、同時に園がもたらす恩恵を蒙る。人と大地との関係は、1章で「地を従えよ」(1:28)と言われたが、今その意味が明らかにされる「耕す」と訳されたヘブル語(アーバド)は、仕える・従うを意味するものである。人と大地との関係は、耕し・仕えることによって従わせるものである。これは奥義的なものではないか。少なくとも、人が大地のちりから生まれたことを思えば、人は大地の主人ではありえない。

日本にも畑を愛する謙虚な農夫がいる。彼らが大地に跪いて、土や堆肥などを舐める姿を見たことがある。豊饒の実りを与える大地にどんなに感謝しても足らない万感を込めた姿である。

しかし、近代農業は生産性を優先させるあまり、化学肥料を撒き散らしてきた。このような農業は、大地に仕えるものではなく、大地からの搾取である。こうして人は、生存の基盤である土地を殺してきた。後に律法は、大地の安息にも言及する。作物が連作を嫌う事実からも、大地との付き合いは微妙なバランスを要することが知られるが、アーダームがアダマーを粗末にして、どうするのか。

今日、大地は人の堕落のために、どれほど嘆きの声を上げていることか。

堕落後「土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない」(創世記3:17-18)と言われた裁きは現実である。

また、4章では「聞け。あなたの弟の血が、その土地からわたしに叫んでいる。今や、あなたはその土地にのろわれている。その土地は口を開いてあなたの手から、あなたの弟の血を受けた。それで、あなたがその土地を耕しても、土地はもはや、あなたのためにその力を生じない。あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となるのだ(小生は、大海原に漂い水に乾く姿を連想する)」(4:10-12)と。人の体が地に帰るのは、母の懐に帰るように自然であるべき筈なのに、死とは何と不自然なことか。

パウロは「私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています」(ローマ8:22)と、害われた被造物世界の認識を持っている。

3、再び、神と人との関係

エデンの園には、人間を規制する唯一つのルールがあった。神である主は「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ」と命じている。

園で、人は存分な自由が与えられていたが、例外は「いのちの木、善悪の知識を知る木」である。人は、この木から取って食べることを禁じられた。なぜ禁じられたのか。まだ、時が満ちていなかったからだと説明する者がいる。小生は、ここに神の主権を見る。園に住み、無制限な営みを許された者が、これらの木の前に立つ時、犯してはならない領域、神の主権の領域を思い起こす必要があった(それがなければ、人はおごり高ぶり、速やかに神であるかのような錯覚に陥る)

人は、神の戒めに聞き従って生きるものである(いのちと知識はともに神に属するものである。これらは、尊大な人が思い上がって自分の手中で操るものではなく、神に求めて神から賜るものである)ここでも語られているのは、神と人との正しい関係である(禁断の木の実そのものではない)

それ故、イスラエルでは、神と人との関係を「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記6:5、マタイ22:37)と命じられている。戒めの破棄には、愛の破綻が先行しているのである(ヨハネ15:10)

4、人間関係(男と女、夫と妻)はふさわしい助け

神は「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう」と案じる「ふさわしい助け手」これこそ根源的な関係概念である。

ここで直接語られているのは、男と女(夫と妻)の関係である。しかし、人間のあらゆる関係は、夫婦の関係から生じる(結婚、この誕生で親子・兄弟の関係が生じる。その延長に親族、そして友人関係が生じる)それ故「ふさわしい助け」とは、あらゆる人間関係を貫くものである。

「人が、ひとりでいるのは良くない」とは「われわれ」と言いうる神から出る発想である。三位の神に交わりがあり、神に似せて造られた人に神との交わりがあるなら、造られた者たちの間に交わりがあるのは当然ではないか。

しかも、神との交わりは、人間の霊性にとって死活問題である。それ故、人間関係の交わりが破綻することは、本来的に大問題なのである。

しかし、罪深い人間は、相応しい関係を憎しみや敵意などに変えた(間もなく兄が弟を殺害する)罪・神からの離反・自己中心とは、かくの如く展開するものである。

二人でいるよりも、一人でいることを望む人が少なくない。これが、今日、人が直面している現実である。本来、ふさわしいとは、向き合う関係、同等で十分な成熟した関係であるが、互いに未成熟で「ふさわしい助け手」であることから失格していないか。

されど、私たちの確信は「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです」(Ⅱコリント3:18)

Ⅲふさわしい夫婦の関係

「ふさわしい」という言葉の原義は、価値の等しい者が、互いに向かい合っているという意味である「ふさわしい」とは、隷属や利害で結ばれている関係ではなく、同じ尊厳を持った者として受入れる関係である。これに続く聖書の言葉が、夫婦の関係を次のように教えている。

1、夫婦の愛は排他的

「人は、すべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけたが、人にはふさわしい助け手が、見あたらなかった」鳥や獣に名づけ作業が行なわれた。これは「ふさわしい助け手」を探し出すハンティング行為である。残念ながら「ふさわしい助け手」は見つからなかった。

この言葉は夫婦関係の排他性を教えている。キリスト教は愛の宗教だと言われる。その通り。イエス様は「敵を愛せ」と言われた。しかし、夫婦の愛は博愛主義ではない。今日、この言葉は、聖書が書かれた時よりも重要性を増しているようだ。

多くの夫婦関係は、ふさわしくない者を割り込ませて破綻している。聖書は「あなたの若いときの妻を楽しめ」と教えている。夫婦の愛は排他的、誰も割り込んではならない。

2、結婚は神の賜物

「人にはふさわしい助け手が、見つからなかった。神である主は、深い眠りをその人に下されたので彼は眠った。それで、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。こうして神である主は、人から取ったあばら骨を、ひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた」人は、自分で「ふさわしい助け手」を見い出せず、疲れ果てて眠りに陥ったようだ。すると神が、彼の寝ている間に妻を備えてくださった。結婚は神の贈り物である。聖書に「主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる」(詩127:2)とある

アイヌの言葉に“嫁を借りる”という表現がある。いったい、誰から借りるのだろうか。娘さんを産んだ母親か、彼女を育てた父親か。アイヌの方々は“神様から借りる”と考えてきたようだ。神様から借りたのであれば、夫も妻も“粗大ゴミだ、濡れ落ち葉だ”と粗末に扱うことはできない。結婚・夫婦の尊厳は神の賜物にある。

3、夫婦は一心同体

「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉」これは、熱烈な愛情表現である。巧みな語呂合わせもある(イーシトイッシャー)しかし、世間では、熱烈な恋愛結婚が憎悪に満ちた離婚に終わることは珍しくない。なぜか、神への畏敬がないからである(弟の結婚における不安と解消)

4、夫婦は真に自律的(精神的にも経済的にも)

「男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである」これは、結婚が成人した男女のものである事を教えている「父母を離れ」という言葉を味わってみたい。

生命を尊ぶ聖書は、生命の絆の重要性を教えている。自分に生命を与えてくれた「父母を敬う」ことは最優先課題である。しかし、結婚する男女は、その「父母を離れ」て新しい絆を結ぶ。

結婚しても両親から自立できない人がいる。精神的・経済的な依存・・・。夫となり妻となるために、全人格的な準備が整わないで結婚すれば、問題が生じるのは当然である。

4、一体感と弱さの共有

「人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった」

「裸であった」とは、今日タレントが脱ぐのとは違う。無防備で裸の恥を晒している姿。人にはそれぞれ弱さが有る。それ故ふさわしい助け手が必要だが。人の虚栄心は虚勢を張って空威張りする。弱さを見せたくない。しかし、もし裸の恥を晒すことができるなら、肩の荷を下すこともできる。

「ふたりはひとりよりもまさっている。ふたりが労苦すれば、良い報いがあるからだ。どちらかが倒れるとき、ひとりがその仲間を起こす・・・ふたりがいっしょに寝ると暖かいが、ひとりでは、どうして暖かくなろう。もしひとりなら、打ち負かされても、ふたりなら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない」(伝道の書4:9-12)これなどは含蓄のある言葉である。